千の証言・投稿:<食糧難>父の分まで食べてしまった=新潟県新発田市の五十嵐ミエさん(83)
2015年06月04日
「お帰り。このどんぶりをもって山田そば屋まで来てね。私もそこに並んでいます」。新潟市内の国民学校から帰ると母からの書き置きがあった。当時新潟市内は食べ物がなく、年に数回そば屋でうどんを買うことができる日をとても楽しみにしていた。母は、どこかで食べ物を買うことができると聞くと、どこへでも飛んでいったものだった。
配給で海水に浸(つ)かった米が出されたことがあった。母が真水で洗い、数日、天日干しをしたが、米は黄色く、私はまずくて食べられなかった。
県職員の父は避難道路を造るため、東京に長期出張していたが、東京は新潟以上に人口は多いのに食べ物がなく、すっかり栄養失調になって帰ってきた。その後体調を崩し、最後は胃がんで49歳の若さで亡くなった。
1942(昭和17)年か43年の暖かい日の夜、当時私は国民学校4年か5年生。突然、父と母が「学校から、疎開先のある児童はすべて疎開させてほしいと通達があった。親戚のいる飯島(旧佐々木村、現新発田市)にお願いしたから、明日行こうね」と言った。県職員の父と母は新潟市内に残らなければならない。私は「みんなで行きたい」と駄々をこね、父も母も泣いた。
翌朝、母と一緒に新発田行きのバス停に行くと、包帯をした女の人が2人いた。バスを待つ間、母が「どうしたのですか」と聞くと、「米軍の機銃掃射にやられた」と答えた。それを聞いた母からは「やっぱり飯島の方が安心だ」と諭された。親と離れるのは寂しかったが、けがをした女性の話を聞いて恐ろしく思い、しぶしぶバスに乗った。
飯島では親類は皆とても優しくしてくれた。最初のうちは寂しかったが、父親から毎週のように「いい子になって皆に可愛がってもらうのですよ」と手紙が届き、いつしか寂しさは薄れていった。縄跳びをしたりイナゴ捕りをしたりと、とにかく遊び、勉強はほとんどしなかった。
ある朝起きると父と母が新潟市内から歩いて逃げて来ていた。新潟に爆弾が落とされるとうわさが流れ、一晩歩いてようやく飯島にたどり着いたとのことだった。道路はたくさんの人であふれていたが、一晩泊まって両親はまた新潟に帰っていった。
当時私は父の食べる分まで食べていた。今の物余りの時代……あの時の父に食べさせられたら、とふと思う時がある。