千の証言・投稿:<戦時下>こっそり教わった外国歌=北九州市八幡東区の大浦トモ子さん(84)

2015年06月04日

 小学生時代、学校にプールはありましたが「空襲の恐れ」と「消火のため」ということで使用できませんでした。戦争は激しくなり、出征兵士を送るため、校門から電停まで全校生徒で並んでお見送りしました。そして今度は戦死された方々のご遺骨のお迎えをしました。

 家の近くに爆弾を落とされたこともあって、母は育ち盛りの幼い子5人を連れて「田舎」に引っ越しました。そこは牛小屋の2階でした。父は町の寮に入り働き、母はお金では売ってくれないお米や野菜を求めるため、田舎の方々の衣服や傘をミシンがけで作り、徹夜でした。今更ながら、あの時代に育ててくれた両親に感謝、感謝です。

 「欲しがりません。勝つまでは」と頑張りました。食べ物、着る物、履き物にも困り、父が木でゲタの台を作り、母が鼻緒を作ったりもしました。県立高等女学校の生徒になっていた私でしたが、学校では運動場を芋畑にしたり、出征兵士の家に行き「田植え」や「稲刈り」のお手伝いや「落ち穂拾い」もしました。先輩たちは毎日「軍需工場」へ。私たちは教室で「軍服」の「ボタン付け」をしました。

 「英語」の授業はなく、世界中が日本語になるから外国語の必要はないと……。当時は外国の歌、曲も駄目でしたが、音楽の先生がこっそり「サンタルチア」や「オールドブラックジョー」を教えてくれたことがあります。しかし、校外では歌わないようにと……。

 「広島、長崎の原爆」……何も解(わか)らず、当時は「ピカドンが落とされたそうだ!」と……。そして終戦! あれから70年……戦争はいやだ。

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