世界の均衡を守ることは本当に必要か?
世界の均衡を守ることは本当に必要か?
スタジオジブリの皆々様
ドイツ亡命中の大西です。
ゲド戦記について,ひとつ私がどうしてもおかしいと思うのは,"世界の均衡"という概念です。
"世界の均衡"はある程度は考えないといけないのは分かりますが,
それは言い換えると"空気を読む"ということでもあると思います。
たとえば,日本では"空気を読む"ことにより,立場が上の者に対して立場が下の者が
絶対服従するのが当たり前のように考えられています。
これは非常におかしくて,むしろ打破すべき概念と思っています。
"世界の均衡"というのは,言い換えたら,不文律を認めろ,ということですよね?
それは,法治国家の概念と本当に相容れるのでしょうか?
たとえば,コクリコ坂からという映画は,私はまったく評価していません。
いくら主人公達が精一杯頑張ろうが,徳丸社長や船長さんら大人に認められて
メデタシメデタシ,になってしまっている。
映画作品でいえば,カリオストロやナウシカやラピュタは,打破しないといけない
既成概念を,若者(ルパンも,いまの時代で言えばまだまだ若者でしょう)が打破する。
それが面白かったし,いまの時代に必要なチカラであったのに,
コクリコ坂からは権力におもねってしまっていると思います。
聞き分けのいい大人を描いてある,といえばそれまでですが,
世の中そんなに,あるべき本質に対して聞き分けのいい大人ばかりじゃありません。
誰しもどこかで妥協が入ってしまって,あるべきところに到達できていません。
当然,原発を潰したいのに,横断幕掲げただけで喜んでいる宮崎駿もまた,妥協が入っています。
たとえば,本当に原発が潰したくて頑張っている人間が出てきたとして,
宮崎駿は一緒になって運動しますか?
自分は作品があるからとか言い訳して,逃げませんか?
それが,守るべき"世界の均衡"なのでしょうか?
ワタシは,違うと思います。
"世界の均衡"を良いほうに解釈して再定義するとすれば,
それはいま現在における断面だけを考えるだけではなくて,
昔から延々と続けてきた人類の叡智をすべて考慮する,
その上での均衡ということだと思います。
人類の叡智とはなにか?
文学作品など,過去の人々が後世まで伝えたいと思ったものの蓄積であり,
その集合体としての,憲法や法律であると思っています。
それはけっきょく,いま自分の目の前にいるヒト,自分が言いくるめられるヒトの
意見を聞くことだけでなく,
いろんな世代の,過去から未来へ連なる人々の意見に聞くことだと思います。
だからこそ,対話が大事と思います。
対話は,基本的人権の,言論の自由として,世界で認められている権利であり,
また,相手の権利を認めねばならぬという意味においては,義務であると思っています。
対話することにより,たとえば,あらゆるヒトと対話することで,革命による急激な
貧困や殺戮をなくして,国内の法律や各国間の意見を集めて世論を纏めて調整して,
ソフトランディングにより世界を変えていく。こういうのこそが,
あるべき"世界の均衡"であると言えると思います。
それだけの苦労を最初から否定し,革命を行わず,未来永劫に渡って既得権益を守る,
そのために法令も無視するのであれば,それは誤った"世界の均衡"であると思います。
いま,高畑さんも宮崎さんも,日本の過去を扱った作品を作られています。
過去に学ぶべきこともたくさんあるとは思うのですが,だから未来を変えなくていい,
というような作品になってしまうのであれば,コクリコ坂からと同じで,
マクロ的な意味で,権力におもねることを助長する作品になってしまうと思います。
過去を描くからといって,権力におもねるのではなく,権力に抗う作品であって欲しい。
そう思います。
大西秀宜
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