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その日の遅い午前中に取引所の方に向けてそぞろ歩きを始めたコバーンは奇妙なことに気付いた。それは自分の向かっているのと同じ方向へ無言の群集が怒涛のような人の流れを自然に作っていたことである。コバーンがウォール街に辿り着くと、そこには既に凄い人だかりが出来ていた。しかし誰も声を荒げようとはせず、つぶやきにも似たヒソヒソした会話が聞こえる程度だった。時折、誰かがヒステリーのような高笑いをするのがシュールリアリスティックに聞こえた。

この日の昼ごろ取引所の向かいのサブトレジャリー(フェデラル・ホールのこと)の前で取られた写真を見ると階段に所狭しと並んだ群衆が、なにかの記念撮影のように皆、真正面の取引所の方を向いて虚ろなまなざしを向けている様子がわかる。その表情からは興奮や癇癪や憤懣は看て取れない。そこにあるのは釣上げられた魚が横たわったまま投げる視線だ。


これは先日紹介した『アメリカ市場創世記 1929~1938年 大恐慌時代のウォール街』の一節です。同書はアメリカではビジネス書の古典のひとつと見做されており、とりわけ金融関係者の必読書となっています。

このたび出版社、パンローリングのウィザードブック・シリーズで同書がようやく邦訳されることになり、ジョン・ブルックスのファンとしてはたいへん嬉しいです。

僕は5年ほど前に以前やっていたブログでこの本の英語版「Once in Golconda」を紹介しました。そのとき自分の拙い訳で、この本のさわりの部分を訳しました。下がそれです。(なお『アメリカ市場創世記』は長尾慎太郎さんが監修、山下恵美子さんが訳者です。当然、僕の翻訳とは違うスタイルになっていると思います)

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【原書からの抄訳】
1929年9月3日にNY市場は最高値を更新した。しかしその影ですでにかれこれもう3年近くも「隠密のベア・マーケット」が進行していたことは一般の大衆は気づかなかった。実はスローモーションの暴落は既にずっと前からはじまっていたことはそういう難しい相場環境の中でお金を損した投資家なら身をもって経験していたことだ。この日の高値がこの後、四半世紀も更新されないド天井だったと誰が気付いただろう?

9月3日と言えばレーバー・デイの週末の翌日であり、証券取引所の伝統としては、新しい、活動的な季節の始まる日である。それは証券マンにとっては「新年」にも匹敵する大事な日だ。この日のニューヨークは記録的な猛暑に見舞われたにもかかわらず、個人投資家はダウンタウンの証券会社の店頭に陣取るとどんどん売り買い注文を出した。蒸し風呂のような熱気に包まれてNY市場はエベレストの頂上を極めたのだ。

その翌日はとりたてて珍しくも無い下げ相場だった。「タイムズ」の市況欄ではウォール・ストリート番の敏腕記者であるアレキサンダー・ディナ・ノイスが次のように書いている:

先週の相場の上げピッチは余りにも早すぎるし、マネー・マーケット市場の状況に照らして行き過ぎが感じられる。このためカンカンの強気派の間でも(やりすぎだな)という感じを抱いた者が多かった。

その翌日、つまり9月5日、後日「バブソンの下げ」と語り継がれる奇妙な現象が起こった。マサチューセッツ州ウエルズレーの片田舎のフィナンシャル・アドバイザーでヤギ面をしたロジャー・バブソンという男がニュー・イングランド地方の投資家を集めた昼食会でひとつおぼえの講釈をぶっていた。「私は、去年、そして一昨年から繰り返している主張をもう一度強調したい。遅かれ早かれ、大暴落が来る!。」

バブソンの予言は皆から冷笑され、無視されてきた。いや、それどころか「あいつはチョッと頭がおかしい」とさえ思われていた。だが、この日はよほどニュースの無い日だったのだろう。なぜなら午後2時を回る頃にはバブソンのこの予言はダウジョーンズのニュース・ティッカーに乗って全米の証券会社の店頭に流されたからだ。驚いたことに株式市場はなんの躊躇も無く真っ逆さまに下落しはじめた。USスチールはこの日9ポイントも下がった。そればかりではない。ウエスチングハウスは7ポイント安、テレフォンは大引け前の怒涛のような売り物の中で6ポイント安した。引け前1時間の出来高は200万株にも達した。このバブソンのちっぽけな予言がこれだけの波紋を呼んだのはどう理屈をこねても説明が出来ない事である。でも事実としてはそれが起こってしまったのだ。

不思議なことに多くの投資家は一瞬のうちにバブソンのこの発言には「予言」に似たちからがあることを悟った。バブソンが「大暴落」という言葉を使うまではウォール街では「大暴落」という言葉を使うことはタブー視されていた。ところがバブソンがこの言葉を使ってからは誰もが当たり前のようにそれを口にし始めたのだ。


ウォール街の保守的な一派の間でも「繁栄は永遠に続く」というこれまでのコンセンサスに加えて、「暴落が間近に迫っている」という新しい考え方がほんの数日間のうちに根をおろした。もちろん、バブソンの考え方は「新しい時代がはじまった」とするイエール大学のアーヴィング・フィッシャー教授らによって即座に否定された。しかしそれから数日もしないうちに「タイムズ」のノイスのコラムでは「悲惨で、経済を壊しかねない暴落の可能性」が再び論じられた。その「タイムズ」の記事では現在の状況と1907年の状況が、ある種、共通点があるとされながらも、「今回は連邦準備制度という新しい機構があるから大丈夫だし、投資信託の存在も市場の安定化につながる」と結論付けている。その一方でマーケットは神経質な動きに終始し、9月24日にはまたまた「原因不明の」急落を経験した。

10月は悲観論が台頭する中、平穏に始まった。不吉なことに信用取引残高はどんどん増加を続けた。これは新しい小口投資家が引き続き参入していることを意味していた。参加者が増えているのに、なぜ株価は上がらないのか?いや、たぶん信用取引は空売りの増加を示唆しているのでは?、、、いろいろな理由付けが飛び交った。これに加えて「空売りファンドの組成がはじまった」とか「ジェシー・リバモアが起訴された」とかいろんな根も葉もない噂が飛び交った。一方、市場はまた平静を取り戻し、10月10日頃には9月の中頃の水準まで戻した。10月15日にはチャールズ・ミッチェルがドイツからニューヨークへ向かう客船の中でインタビューに応じ(当時はこういう演出がとりわけウケた)、「市場は一般的に健全だ」と発言した。一方、アーヴィング・フィッシャーはその後、後世まで語り継がれることになる「市場は永続的な高原の状態を維持するだろう」という発言をした。

これらの発言は必ずしも市場参加者に素直に受け止められたというわけではない。このときまでにはミッチェルやフィッシャーの万年強気の発言に投資家は食傷気味だったという点が指摘できる。それでも市場はこれらの発言の後、暫く持ちこたえた。しかし19日には土曜日立会いでは過去2番目の大商いを伴いながら2時間に渡る大下げを演じた。

翌週の月曜日の立会いが始まる頃には市場が典型的な調整局面に入っていることは誰の眼にも明らかだった。マージン・コールが発生し、それが手じまい売りを誘った。その手じまい売りが更にマージン・コールを誘発するという悪循環である。「買い支えオペレーションが始まる!」という希望的な観測が取沙汰されはじめた。それはちょうど1907年の暴落のときにウォール街の巨頭たちが実施した買い支えと同じ類のものになるという観測である。「タイムズ」のノイスは市況欄で「ウォール街関係者はようやく現実を直視しはじめた。そしてこのところ流行していた新しいキャッチフレーズや政府からの救済の可能性を諦め始めた。」この意味するところは明快である。つまり株式市場に正気が戻り始めたわけだ。「新しい時代」は過去のものとなった。証券会社の店頭は以前ほど混まなくなった。フィッシャーは「投機家がふるい落とされたことは良いことだ」と発言し、ミッチェルも「市場は下げすぎている」と発言した。その日は更にマーケットは下げ、大商いでティッカー・テープは1時間45分程度ほど遅延した。しかし翌日、つまり10月22日には強い反発があった。

こうしていよいよ10月23日を迎えるのである。その日のニューヨークは穏やかな秋晴れの日だった。しかし米国中西部では降雪と嵐で惨めな天気だった。このお天気の気まぐれはちょうど「バトル・オブ・ヘイスティングス」のまぶしい日照が歴史を狂わせたのと同じようなちょっとしたエピソードを歴史の片隅に書き加えることになる。ニューヨークで株式が急落しはじめたとき、中西部での嵐が電線を切断したため多くの地域で電信が途絶えた。ウォール街の情報が入らなくなると全米各地では伝聞や憶測に基づいて、あてずっぽうの情報がひとりあるきしはじめた。投資家のパニックの兆候が現れると、それはあっという間に広がった。この日の637.5万株という出来高は歴代第2位の多さである。下落した銘柄の中にはアダムス・エクスプレスの96ポイント安、コマーシャル・ソルベンツの70ポイント安、ゼネラル・エレクトリックの20ポイント安、オーティス・エレベーターの43ポイント安、ウエスチングハウスの35ポイント安などが含まれている。この日の下げのきっかけをつくるような悪材料は特に見当たらなかった。でもこの下げを「不可思議だ」という風に考える投資家はもう居なくなった。

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大暴落の初日、つまり10月24日は『暗黒の木曜日』と後で名付けられるわけだが、その日、英国のジャーナリスト、クロード・コバーンはグリニッジビレッジのラファイエット・ホテルに滞在していて奇妙な現象に気がついた。ホテルのカフェで大理石のテーブルについて朝食をとっていたら、同席したアメリカ人が席を立っては隅のティッカー・マシンのところへ歩み寄っていた。まだ寄り付き前だから何も株価は流れてこない筈なのだけど、その男はそわそわしていた。コバーンは異邦人なのでこの様子を第三者の立場から客観的に観察することが出来たわけだが、これだけでもその日が何か特別な日になることがたちどころに察知できた。

その日の遅い午前中に取引所の方に向けてそぞろ歩きを始めたコバーンは奇妙なことに気付いた。それは自分の向かっているのと同じ方向へ無言の群集が怒涛のような人の流れを自然に作っていたことである。コバーンがウォール街に辿り着くと、そこには既に凄い人だかりが出来ていた。しかし誰も声を荒げようとはせず、つぶやきにも似たヒソヒソした会話が聞こえる程度だった。時折、誰かがヒステリーのような高笑いをするのがシュールリアリスティックに聞こえた。

この日の昼ごろ取引所の向かいのサブトレジャリー(フェデラル・ホールのこと)の前で取られた写真を見ると階段に所狭しと並んだ群衆が、なにかの記念撮影のように皆、真正面の取引所の方を向いて虚ろなまなざしを向けている様子がわかる。その表情からは興奮や癇癪や憤懣は看て取れない。そこにあるのは釣上げられた魚が横たわったまま投げる視線だ。

コバーンはその日、ウォール街の巨頭とランチのアポイントメントがあった。それはエドガー・スペアーである。スペアーはドイツ系ユダヤ人の経営する投資銀行の中でも最古かつ最も貴族的な会社のパートナーだった。彼と彼の妻はワシントン・スクエアの北側に面した復古ギリシャ調スタイルの家に住んでおり、その屋敷はエレガントに装飾されていた。

昼食は中年の英国人の執事の指示の下で英国人のウエイターによって運ばれてきたのだが、スペアー婦人が最近出版した詩集の話をしているときに何か異変が起きた。厨房の方で「ドシン」という音がしたかと思うと誰かが声を荒げているのが聞こえてきた。ドアのノブがゆっくり回されたと思うと少しだけの隙間の後ろに数人が詰め寄っているような雰囲気が感じられた。執事とウエイターが子羊のメインコースをサーブして下がった後、女の声で、「さあ!行って伝えなさい、さもないと、、、」というのが聞こえた。すると突然、ドアが開き、紅潮した執事が押し出されるようによろけ出てくると、スペアー氏に「ちょっと、よろしいですか」と小声で話しかけた。スペアー氏は瞬間、驚きの表情を見せ、「少し外します」と言って部屋を出た。ほどなくスペアー氏はダイニング・ルームに戻ったが、「失礼おばいたしました。厨房にティッカー・マシンがあるのですが、使用人達も実は相場をやっておりまして、、、」

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結局、その日スペアー氏は賓客をダイニング・テーブルに置き去りにしたまま戻らなかった。彼のメインコースにも手がつけられないままであり、スペアー婦人は混乱と取り繕いの中でランチを終えるはめになった。このランチは大失敗であり、スペアー家の社交界における大恥であり、家訓破りの大珍事となった。コバーンは完全に取り乱したスペアー氏の様子を見て、大暴落の何たるかについてだんだんその意味するところが身に沁みたのである。