① まずは私が(本)(迹)を書き込んだ意図。( )をつけて記しているように、これは「註」的な意味で書き込んだものです。
「本門」「迹門」という一般用語についている「本」と「迹」でしか、「本」「迹」の意味を理解されていないとしたら、私が( )をつけた本迹の原義的な感覚が理解できなかったと思います。少々不親切だったかもしれません。お詫びしますね。
>>>(教学部レポート引用)
【3】 教学部では、「戒壇の大御本尊」「創価学会常住御本尊」の意義づけについては、以前から研究を進めていました。
この7月9日には、原田会長あてに「創価学会常住御本尊と広宣流布の使命」というレポートを提出しています。その骨子は以下の通りです。
① 御本尊の本質は「一念三千自受用身」すなわち「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示にある。
② 「戒壇の大御本尊」も、法主によって書写された御本尊(以下、書写本尊)も、同一の法体が顕示されており、そうした本質次元では共通している。
③ 御本尊が御本尊として成立するためには、上記の様に人法一箇の法体が正しく顕示されていることを第一の要件としつつ、「信心の本尊」であるがゆえに、どこまでも正しい信心で拝するという第二の要件が不可欠である。
④ 「戒壇の大御本尊」における戒壇・本尊の意義も正しい信心が介在しなければ成立しない。また「一閻浮提総与」という意義も、広宣流布があって初めて成就するものである。
⑤ 「創価学会常住御本尊」は、戸田先生が「大折伏大願成就の大御本尊」として当時の日昇法主に申請されたものであり、戸田先生は、この御本尊を拝して75万世帯の願業を成就された。また池田先生もまた、この御本尊を拝して世界広宣流布を進めてこられた。その意味で、創価三代の師弟の誓願の結晶ともいうべき御本尊であり、当時の和合僧団の化義に則り、法主の書写という形を取ったが、日蓮大聖人からの直受と拝するべきである。「戒壇の大御本尊」が本体、他の御本尊は分身であるという論理から、あくまで「南無妙法蓮華経即日蓮大聖人」という人法一箇の法体の顕示が本質であるという、日寛上人が本来意図していた本尊義に引き戻すとこに、このレポートの主たる目的がありました。
<<<以上、引用終わり。