Ron Hardy at The Music Box
By Jacob Arnold
1984年のある日曜日の午前4時。シカゴのダウンタウンの中心を走るMichigan Ave.に面した地下の真っ暗闇に近いクラブで、ストライプ柄のシャツを着た細身の男がテープマシンをプレイすると、ドラムマシンのサウンドが鳴り響いた。その男、Ron Hardyが無名のソウルアルバムやゴスペル、輸入盤のイタロディスコ、ニューヨークの最新のブギーなど、自分が好きなあらゆる音楽を少しずつ組み合わせてプレイしていくと、フロアに押しかけていた若いダンサーたちは喜んで飛び跳ねながら「Ronnie!」と叫んだ。
Hope Faulkner-Ridleyはそのダンサーのひとりだった。The Music BoxのHardyのプレイを聴き始めた頃、彼女はまだティーンエイジャーだった。「自分のすべての細胞が興奮と疲労で打ち震えていたわ」彼女は振り返る。「私は深夜12時からフロアにいたけれど、彼がプレイを始めるのは午前3時半とかだった。彼はなんていうか、これからみんなにサービスするよという顔をしていたわ。彼が頭をのけぞらせて目を閉じていれば、そこから3時間は楽しめた」− その頃よく言っていたのが、「あぁ、今夜はRonnieにヤられちゃったわ!」というセリフだった。
Ronald Randall Hardyは1957年5月9日に生まれ、シカゴのサウスサイドのチャトハムで育った。Ronの甥にあたるBill Hardyは、自分の母親はRonが子供の頃から音楽が好きだったことを見抜いていたと振り返り、「Ronは俺の親父のところへやってきて、俺の母親と一緒に座ってレコードプレイヤーでレコードをかけていたよ」と続ける。その後Ronは地元のヒルシュ高校に通ったものの、卒業することはなく、16、17歳頃に両親の家を飛び出すとクラブ通いを始めた。
Hardyは19歳の時にオールドタウンにあったゲイディスコ、Den OneのメインDJを務めるようになった。そしてそのディスコが売却されると、一時的にJeffrey Pubで働き、その後友人とDJ Bill Alexanderを追いかけて、LAのCatch Oneへ移ったが、1981年に兄が亡くなるとシカゴへ戻り、The Ritzの水曜日を担当するようになった。
Hardyがシカゴに戻ってきた頃は、Warehouseの人気が絶頂だったが、同時に大きな変化も起きようとしていた。1982年11月、Frankie KnucklesがWarehouseを抜けて、自分のクラブThe Power Plantを立ち上げると、WarehouseのオーナーだったRobert WilliamsもWarehouseの入っていたビルとの契約を失った。Williamsはその後、1632 South Indiana Ave.に元工業ビルを見つけ、1984年2月にThe Music Boxをオープンさせた。
オープン当時はWilliams自身がDJを担当していたが、Warehouseの客がKnucklesを追ってThe Power Plantへ移ったため、WilliamsはKnucklesと張り合えるDJを見つけなければならなくなった。「友人からRonを勧められた」Williamsは当時を振り返る。「俺は『ああ、あのThe RitzでプレイしていたDJだな。知っているぞ!』と思ったよ。それがRon Hardyだった」こうしてHardyはThe Music BoxのレジデントDJとしてのオファーを受けたが、ここをWarehouseと違う存在にするのには相当の努力が必要だった。
Williamsがその点について説明する。「コンセプトを変えた。コートを預けにクロークへ行く必要をなくした。その場で係にコートを預け、すぐにフロアへ行けるようにした。また葉巻を提供する女性を店内に配置したり、フルーツバーを用意してフルーツ皿を持った係を店内に配置したりもした。これは新しかった。だから口コミで広がっていった」
Indiana Ave.と16th Streetの角にあったYellow Taxi Companyの真横にあったThe Music Boxは人目につかない場所にあった。「そのブロックまで行かなければ絶対に見つけることはできなかった」初期ハウスのヴォーカリストとして活躍したSleezy Dが振り返る。「だが、そのブロックへ辿り着けば音楽が聴こえてきたのさ」しかし、その場所でのThe Music Boxは、契約更新になるまでの僅か1年しか経営されなかった。その基本的には空き家だったその建物が使用禁止だったことが発覚したからだ。その頃に撮影されたフロアの写真を見ると、頭上に黒焦げの垂木があるのが確認できる。
Robert Williamsは1984年に、326 Lower North Michigan Ave.にあったThe RitzのメインDJだったCraig Cannonと同クラブのオーナーFred Morrisが始めたジュースバー、R2 Undergroundを買い取る契約を交わした。このジュースバーがあったダウンタウンの一角は1920年代から高架式になっており、道路が2層になっていた。その下層にあたる通りは街灯の他に明かりはなく、鋼鉄製の梁と路上駐車用スペースと荷下ろし用のドックが複雑に入り組んでいた。
その通りに面したThe Music Boxには看板やネオンはなく、ドアの横にオレンジ色のスプレーで「326」と書かれているだけだった。客(ストレートの若い黒人が大半だったが、あらゆる人種のゲイやバイセクシャル、トランスジェンダーも来ていた)は小さなエントランスでバウンサーに入場料を支払い、その入場料はRobert Williamsの母親Gypsyが管理していた。中に入ると、壁には黄色と赤色で「Music Box」と書き殴られており、その周りに音符がゆらゆらと飛ぶように描かれていた。ラウンジ部分は下が黒のストライプ、上がライトグレーに塗り分けられたツートーンの壁に向かって座る木製の椅子が置かれていた。
この「326」時代のMusic Boxでセキュリティとして働いていたStacey Collinsは「あそこは本当に暗かったわ。フロアは古くて軋んでいたし。フロアを見ると、穴が開いている場所があったのよ。痛んで穴が開いたんだと思う」と振り返る。また、Sleezy Dも「ダンジョンに入ったような感覚さ。Lower Michigan Ave.をホームレスたちを横目に進んでいくと、突如としてあそこが現れた。いきなり音楽が聴こえてくるんだ」と続ける。
Hardyは、Walter GibbonsがミックスしたFirst Choiceの「No Man Put Asunder」や、Kikrokosの「Life Is a Jungle」、そしてIssac Hayesの「I Can’t Turn Around」のアルバムバージョンなどを用いたループ感の強い独自のテープエディットをプレイしていた。可能な限りピッチを速くし、またインストのブレイク部分だけをプレイする時も多く、そこに電車や宇宙船のサウンドエフェクトや耳をつんざくようなリバーブを加え、フロアのダンサーたちをビートだけで打ちのめしていた。オープンリールを使ってTaana Gardnerの「When You Touch Me」などを逆回転でプレイする時もあった。
「Ronのプレイは感じることができた。プレイするトラックにRonの気持ちが乗り移っているのが感じられたね」シンガー/プロデューサー/DJであるRobert Owensが振り返る。どこかズレたドラムマシンと凶暴なベースの上に「Passion!」と「Your Mind」というボイスとDickie Goodmanの「Mr. Jaws」の叫び声を乗せたトラック「Your Mind」を制作してHardyに手渡したのがOwensだった。「多くの人たちはあのトラックをHardyの作品だと思っていた。1982年から1983年頃の俺はまるでマッドサイエンティストのようにひと晩で沢山のトラックをオーバーダブしていたんだ。それをFrankie KnucklesやRon Hardyに良く渡していた。ああいう色々な曲をつぎはぎしたトラックをね」
Owensは元々ダンサーで、ティーンエイジャーの頃にはDen Oneに忍び込んでいた程だったが、Music Box関連で最も多作なアーティストのひとりとして知られるMarshall Jeffersonはまったく違う形でこのクラブに関わり始めた。ウエスタン・イリノイ大学で学びながらロックンロール・バーに通っていたJeffersonは、その後郵便局に就職。夜勤の同僚にダンスミュージックを教えてもらうと、すぐに自分のDJミックスを自宅で作るようになっていった。そしてJesse Saundersの「On and On」がリリースされると、Guitar Centerの店員に勧められるがままに数千ドルをつぎ込んで制作用機材を購入した。
周りの友人たちにその投資を笑われたJeffersonだったが、本人の制作したトラックはすぐにHardyの元へ届くことになった。「Music Boxは深夜12時から昼まで続くパーティーだったが、俺のシフトも深夜12時から朝8時半までだったから、パーティーにはあまり顔を出せなかった。だから自宅でトラックを作ってはSleezy Dに渡していた。それを奴がRon Hardyに渡してくれたのさ」その初期トラックのひとつが「Under You」で、これはのちにJeffersonのVirgo名義のEPに収録された。また、その手渡したトラック群の4曲目がSleezy Dと共作した「I’ve Lost Control」だった。Sleezy Dは当時を次のように振り返る。「あれは忘れないね。Power Plantから朝の10時か11時頃に帰ってすぐにJeffersonに電話して、『アイディアがひらめいたからトラックを作ろうぜ!』って言ったんだ」
Jeffersonは既に大量のビートを用意していた。Jeffersonが「あのトラックは808と303だけで作った。Sleezyがあっという間に仕上げたよ。俺はフロアを神経衰弱に陥らせるようなトラックが作りたかったんだ」と説明すると、Sleezyは「別に自分がハイだった訳じゃないが、『I’ve Lost Control』は自分が体験したパーティーが元になっているんだ」と笑って続ける。この頃、Ron Hardyは少なくとも6曲はJeffersonのトラックをプレイしていたが、それでもJeffersonはMusic Boxでは無名の存在だった。
Jeffersonは当時を次のように振り返っている。「俺がMusic Boxへ行くと、セキュリティの連中がSleezyに『よう、Sleezy! 元気か?』なんて話しかけていたから、奴と一緒に入ろうとすると、俺だけがドンと手で止められて『お前誰だ?』と言われた。Music Boxの連中はSleezyがトラックを手がけていると思っていたのさ!」この時にJeffersonは正式にHardyを紹介された。Jeffersonはその時の印象について「感覚的な人物だったね。そしてすべてがRonを中心に回っていた。俺はRonに話しかけるのに一生懸命だったけれど、Ronはエディットする手を休めて俺に話しかけたり、他の3、4人に同時に話しかけたりって感じだった」と振り返る。
「Music BoxのRon Hardyはまるで『俺に任せろ!』とでも言わんばかりだったね。彼が手がけたミックスはすべて一発録りで、エディットは一切しなかった。フェーダーを10本の指で上下させながら『Move Your Body』の4バージョンをあっという間に仕上げた」
− Marshall Jefferson
Hardyはシカゴローカルのプロデューサーのトラックをプレイしながら、例えばJeffersonのヘヴィーなベースのインストにAl Greenの「Love and Happiness」のイントロを加えたトラックなど、自分自身のトラックも生み出すようになっていった。また、Jesse Saundersの「Funk-U-UP」の初期バージョンのボーナスビートを使い、そこにRudy Ray Mooreのアダルト向けのコメディLP『The Sensuous Black Woman Meets The Sensuous Black Man』のボイスを乗せたトラックもあった。「70年代のコメディアルバムを使って、ダンスフロアに人を集めたのは素晴らしいアイディアだったね」Sleezyは振り返っている。
彼の音楽が生み出す幻覚症状は、クラブに来ていたダンサーたちの多くが摂取していた薬物と相乗効果を生み出していた。誰に話を聞くかにもよるが、HardyのDJプレイは彼が摂取していたヘロインの効果が大きかったという意見がある。一方、反対意見も根強いが、Stacey Collinsはアシッドパンチは存在しなかったと主張している(Robert Williamsも他人がハイになったり、アクシデントでオーバードーズになるリスクを好んでいなかった)。しかし、エンジェルダスト漬けのジョイントやMDA(エクスタシーの先駆け)は広く流通したようで、Collinsも大きなビニール袋にジョイントを詰め込んだドラッグディーラーが最低でもひとりはいたことは記憶している。そして脱水症状に近い状態のダンサーたちはラウンジで提供されていたフルーツと水を求めた。
この多幸感がレコードに盛り込まれるようになったのは当然の流れだった。Marshall JeffersonはVirgo名義のEPをリリースしたあと、スタジオにRon Hardyを連れてくると、彼に「Move Your Body」のミックスを頼んだ。このトラックは元々On the House featuring Virgo名義としてリリースされる予定だったが、その後Trax Recordsから個人名義でリリースされた。「実はもうひとり有名なDJが『Move Your Body』のミックスを担当することになっていたんだが、そいつはミックスに関する知識がゼロだったから、ビビってた。だが、Ron Hardyは『俺に任せろ!』と言わんばかりだったね。彼の手がけたミックスはすべて一発録りで、エディットは一切しなかった。10本の指を使ってフェーダーを上げ下げして『Move Your Body』のミックスを仕上げたんだ。しかも4バージョンを一気にさ。1時間で4バージョン仕上げたんだ。あとは『よし、家へ帰ろうぜ!』って感じだったよ」
On the Houseの次の2枚のシングル「Ride the Rhythm」と「Pleasure Control」も同じように仕上げられた。「Hardyが『Pleasure Control』のミックスをやりにスタジオにやってきて、ミキシングデスクの上にラインを引いたのさ。そこにいたエンジニアはすぐに『コカインじゃん!』と飛びついた」Jeffersonがエンジニアが鼻で吸う様子を真似しながら続ける。「するとRon Hardyが落ち着いた声で『それは違うタイプだぜ』って言ったんだ。エンジニアは目を丸くして驚いていたよ。Ron Hardyは『コカインなんかじゃないぜ。全然違う!』と繰り返した。結局エンジニアはそのセッションの間、使い物にならなかった」
「だから俺とRonでミキシングデスクの使い方を学ばなきゃならなかった。10時間のセッションを2人だけで終わらせたよ。エンジニアはスタジオの片隅で小さくなって震えていたね。この時も『Move Your Body』と同じだった。Hardyがミックスをすべて手がけたんだ。困った様子はまったくなかったね。まるでビーチに寝転がって作業しているかのような感じさ。あんな作業の仕方はあれ以来一度も見えたことがない。エディットは一切なし。24トラックのHarrisonのミキシングデスクと10本の指だけさ。あれを入れて、これを外してって感じだ。『Pleasure Control』のミックスを聴いてくれよ。あれは一発録りだったんだ。彼は本当に凄かったね」
こうして音楽制作のプロフェッショナルな世界に足を踏み入れていたHardyだったが、上を目指そうとしているローカルのミュージシャンたちによって手渡されたテープをプレイしながら、生々しい新しいサウンドの探求も続けていった。そしてこの実験欲がアシッドハウスの誕生へ続いていった。「Ron Hardyがいなかったら、Phutureは生まれていなかったし、アシッドハウスは存在しなかった」Spanky(Earl Smith Jr.)は断言する。Phutureの初期メンバーのHerbert JacksonがMusic Boxの存在を知り、PlaygroundでダンスしていたSpankyを誘ったのがきっかけだった。
「Music Boxへ初めて行った時は、この世のものとは思えない感覚を得た。音楽がとんでもなくラウドだったから、俺の平衡感覚は狂ってしまって、目まいを覚えたよ。ドラッグでもやってるように見えたかもね」と振り返るSpankyは、シカゴ産のビートがフィラデルフィア産のディスコクラシックとミックスされるそのサウンドに感激した。「彼のミックスは、Playgroundの音楽とは完全に違うものだった。それで俺は何か音楽を作りたいって思ったのさ」
次にThe Music Boxの洗礼を受けたのがDJ Pierreだった。Pierreはシカゴ郊外のユニバーシティ・パークで音楽一家の元に育ち、DJやスクラッチに出会う前は、スクールバンドでクラリネットとドラムを担当していた。DJとスクラッチに出会ってからはブレイクダンス用の音楽をプレイしていたPierreだが、Spankyに連れられてMusic Boxへ行ってから彼のスタイルは180度変化した。「あそこへ行って本物のハウスミュージックの洗礼を受けたのさ。DJの名前が叫ばれている様子を見たのも初めてだった。客がRon Hardyの名前を叫んでいた。彼らは本当に情熱的で、今にも泣き出しそうだったよ」
Ron Hardyがプレイしているようなトラックが作りたいと思ったSpankyはBOSSのドラムマシンを購入してビートを作り始め、そこにDJ Pierreがアカペラを重ねていった。そしてそのサウンドを強化すべく、2人はTB-303を購入した。「HerbertとSpankyからTB-303のプログラミングを学んでくれと言われたよ」Pierreは当時を振り返る。彼らはビヨビヨとしたTB-303のサウンドに風のエフェクトとハードなビートを足した30分超の処女作を仕上げると、Hardyに手渡した。「Hardyはトラックを通して聴いていたが、何も言ってくれなかった」Pierreが振り返る。「好きか嫌いかも言ってくれなかったから心配になったし、何も言われなかったから俺たちも黙っていた。そしてトラックがフェードアウトして終わると、Hardyは俺たちを見て『いつこのレコードをもらえるんだ?』と言ったのさ」
Ron Hardyが初めて「Acid Tracks」をMusic Boxでプレイした晩、Hardyは最低でも4回はこのトラックをプレイした。「Ron Hardyにはああいうトラックを誰よりも先にプレイできるガッツがあった」Spankyが熱っぽく語る。「あの晩のHardyは、客があの曲を好きになるように仕向けたんだ。それが成功した。4回目にプレイされた時、客は完全におかしくなっていたよ。フロアの隅で逆立ちで踊ってる奴がいたのを覚えている。『ダンスどころじゃない。もっとクレイジーなことがやりたいんだ』と言っているようだった」
「Frankie Knucklesが嫌いだったわけじゃない。俺は単純にRon Hardyファンだったんだ。当時はみんなギャングみたいだった。DJの話をする時は、自分がいるエリアを考えてDJの名前を口にしないとボコられたのさ」
− DJ Pierre
シカゴローカルの多くはMusic Boxを「Muzic Box」と綴るが、その理由を知っている人はほとんどいない。これは初年度に同時期に改装されたゲイ所有の劇場Music Box TheaterがMusic Boxと同じ雑誌に載っていたために、混同するというクレームを受けてRobert Williamsが変更したのが理由だ。「まぁ、ウチはただのパーティだったんだけどね」Stacey Millerが説明する。「いちいち『Music Box』なんて言わなかった。Boxとさえも言う必要がなかった。あそこは『パーティ』だったのよ。誰もがそれを知っていた」
しかし、残念ながらその「パーティ」は長くは続かなかった。シカゴ市は1987年1月、ジュースバーの営業時間帯を厳密に指定する条例を制定した。Stacey CollinsはMusic Boxへ出勤するとドアにクラブ閉店の旨を伝える大きな張り紙がしてあったのを覚えていると振り返る。しかし、Ron HardyとRobert Williamsはその後も、1987年はClub C.O.D.で、1988年はBroadway(IgLoo)Arts Centerと650 West Lake St.にあった泥と油まみれの駐車場で、そして1989年から1990年にかけてはPower Houseの跡地(2210 SOuth Nichigan Ave.)などをヴェニューにしながら、パーティを続行させようと努力し続けた。
1987年にFrankie Knucklesがニューヨークへ戻り、多くのシカゴ出身のアーティストたちがヨーロッパをツアーで回るようになったあとも、Ron HardyはシカゴローカルのためにDJを続けた。「俺たちはRon Hardyの信奉者だった」DJ Pierreが強調する。「Frankie Knucklesが嫌いだったわけじゃない。単純にRon Hardyファンだったんだ。当時はみんなギャングみたいだった。DJの話をする時は、自分がいるエリアを考えてDJの名前を口にしないとボコられたのさ」そしてHope Faulkner-Ridleyが付け加える。「何か変えられるなら、早死にしたRonnieを生き返らせて欲しい。私が求めているのはそれだけよ」
複数のソースから判断するに、Ron Hardyは体調を崩した際にHIV陽性が発覚したようだ。そして1992年3月2日月曜日、スプリングフィールドで母親の看病を受けていたHardyは34歳でこの世を去り、その直後にお別れパーティがシカゴで開催された。Ron Hardyは生前にその才能にふさわしい称賛を受けることはなかったが、彼から多大なる影響を受けた数多のDJとプロデューサーたちを通じて彼の遺産は今も輝きを放っている。Marshall Jeffersonは「Ronは寡黙だったが、激しい気性の持ち主でもあった。強烈なエゴの持ち主だった。基本的にはナイスガイだったが、時として彼の態度からそれを感じることができた。ある晩、俺がRonとDJブースにいると、ひとりの男がやってきて『テープを譲ってくれないか』と頼んできた。Ronが『20ドルだ』と言い、その男が『20ドルも?』と返すと、『45ドルの価値があるんだぜ!』と言い返していたよ」と振り返っている。
結局のところ、彼の音楽が彼自身を物語っていた。「彼を理解するベストな方法は彼の作品を聴くことだと思う」Anthony Faulknerが説明する。「もし彼が自分の本能を解き放っていなかったら、今聴けるような彼の作品は存在していなかっただろう」Adonis、Larry Heard、Derrick May、Ron Trent、Jamal Moss、Theo Parrishなどは全員Hardyに影響を受けたと公言しており、オンライン上などに今でも残っているミックステープを聴けば、彼の革新的なスタイルの片鱗が理解できる。
そして、ハウスやテクノ、そしてEDMなどがプレイされるモダンなクラブへ行けば、Ron Hardyと、彼が見出したシカゴのアーティストたちが世界に広めた生々しいあのエナジーの残響が聴こえるはずだ。