今週のVlogの補足。憲法改正はできればやったほうがいいが、現状では不可能だ。安倍首相は見果てぬ夢に政治的資源を費やすより、もっと効率的な資源配分を考えるべきだ。戦前の「国体明徴」をめぐる下らない論争を同時代に経験した丸山眞男は、こう書いている。
大日本帝国憲法というと、今日の人々は教育勅語と並んで、戦前の天皇制イデオロギーの根幹をなしていたというイメージをいだくのが一般である。が、それは半ば真実であり、半ば真実ではない。戦前において天皇制の思想的支柱をなしたのは右の二つのうち教育勅語の方であって、憲法ではなかった。(「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」、強調は引用者)これは意外な感じがするが、戦前の学校教育で教えられたのは教育勅語の儒教思想であり、明治憲法の立憲主義ではなかったという。戦後に美濃部達吉が名誉回復されたとき、新しい憲法の制定に反対したのも同じ理由だった。
明治憲法は絶対君主制を否定し、天皇を法の支配を受ける立憲君主とした(9条)。国民は不当な手続きによる逮捕監禁を受けない権利をもち(23条)、司法の独立も定められた(58条)。もちろんその立憲主義は不徹底で「天皇大権」を拡大解釈する余地が大きかったが、
昭和前半期の官憲の反動化は、明治憲法ゆえに、というよりは明治憲法にもかかわらず――つまり憲法が保障し、またその下での刑事訴訟法でも明記されていた法手続の無視あるいは蹂躙を通じて進行した、ということも楯の反面の事実として忘却してはなるまい。(同上、強調は丸山)戦前の暴走が明治憲法にもかかわらず起こったとすれば、その「空気」が変わらない限り、新憲法でも「法手続の無視あるいは蹂躙」は起こりうる。それが原発再稼動をめぐって民主党政権のやったことだ。
朝まで生テレビで、私が「地域防災計画は再稼動の要件ではない」といったのに対して(民主党に鞍替えした)阿部知子氏が「国民感情が許さない」といい、田原さんに「だからどうした」と突っ込まれて絶句したのは象徴的である。
憲法を超える「空気」は、戦前も今も変わらない。それをかつて右翼は「国体」と呼んだが、戦後は「国民感情」に変わっただけだ。それは憲法を改正しなくても変えることができるが、憲法改正よりはるかに困難である。それが本質的な問題だということに、ほとんどの人が気づいていないからだ。