「ローマ五賢帝 『輝ける世紀』の虚像と実像 」南川 高志 著
帝政ローマの最盛期を現出したのがネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの五人の皇帝、通称「五賢帝」である、とされる。トラヤヌス帝の時代に最大版図を実現し、政治的にも経済的にも安定して、何かと理想化されるこの時代――紀元九六年から一八〇年までの約一世紀――を統治した五人の皇帝について、近年の研究動向と様々な史料を元にその光と陰を読み解いた非常に面白い一冊。
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五賢帝時代に関する一般的な理解は、本書によれば「徳望ある理想的な君主が元老院と協調して政治を行い、また元老院の優秀な人材を養子にして帝位を継がせるシステム(養子皇帝制)が機能して帝位をめぐる内乱が生ずることもなく、国の内外が安定した平和な時代」(P229)とされるが、本書で明らかにされるのは五賢帝時代の実態はその説明と相容れないということだ。「『養子皇帝制』なるものは、実際には見出し難いもの」(P229)であり、皇帝と元老院との関係は協調というよりは文字通りの権力闘争が展開されており、「元老院議員をいかに自己の支持集団として組織し帝国統治にその力を生かすか」(P230)という主導権の奪い合いが起きていた。
フラウィウス朝
五賢帝を描くにあたって著者が最初に見出すのが、五賢帝時代に先立つフラウィウス朝(69~96)、特に暴君とされたドミティアヌス帝(在位81~96)の再評価である。ネロ帝死後の内乱を制したウェスパシアヌス帝は新興の家柄であったが、「皇帝は立ったまま死ななければならない」と言い残して執務中に亡くなったエピソードで知られるように勤勉で信頼される皇帝であった。後を継いだ長男ティトゥス帝も元老院から民衆まで広く支持を集めて人気が高く、わずか二年余りの統治だったが後に歴代皇帝屈指の名君の一人に数えられる。
一方、夭折した兄帝を継いだドミティアヌス帝は後世「暴君」「第二のネロ」などと呼ばれるように非常に評判が悪い。彼が何故評判が悪いかというと、元老院議員を迫害したからだ。詳しくは本書を読んでもらうとして、彼がやろうとしていたのは、既得権益層化して強い影響力を持つ元老院議員を排除・粛清するかわりに、身分は低いが優秀な人材を次々と登用して、皇帝権を強化しようとしたということだ。内政にも高い評価が与えられている。ただ、かなり力づくで急進的にことを進めようとしたため、元老院との深刻な対立を生み、ダキア(現在のルーマニア周辺)喪失、ゲルマニアの反乱などを契機に結局暗殺されることになる。
ネルウァ
ドミティアヌス帝暗殺後、皇帝に推されたのがネルウァである。当時すでに66歳と高齢で、元老院内でもそこまで有力ではない人物だったが、ネロ帝時代からドミティアヌス帝時代まで皇帝とのつながりを常に保ち続けた老練な政治家だった。彼が行ったのが政治から排除されていた元老院の復権で、反ドミティアヌス派とドミティアヌス派とのバランスに立ち、執政官ら枢要な地位の者を元老院の長老たちで独占させた。83歳の執政官、73歳と65歳の補充執政官などである。歴史家は彼の治世を「老人政治」と呼ぶ。ある種の反動政治だが、巨大化する帝国・台頭する新しい政治勢力という現実的な政治課題への対処より元老院支配という政治的伝統を重視する姿勢を打ち出したことで、政治的安定をもたらし五賢帝の始まりに位置づけられた。
トラヤヌス
98年、一年余りの短い治世でネルウァはこの世を去るが、後継者として養子にしたのがトラヤヌスであった。このトラヤヌスが後継者になる経緯について、著者は新たにシリア総督だったニグリヌス(マルクス・コルネリウス・ニグリヌス・クリティウス・マルテヌス)という人物に注目する。ウェスパシアヌス帝によって見出された騎士身分出身の軍人でドミティアヌス時代に活躍したドミティアヌス派の要人である。どうやらトラヤヌスとニグリヌスの間でかなり熾烈な後継者争いがあったらしく、一般的に言われる「養子皇帝制」とは程遠い過程を経ていたのだとされている。
トラヤヌスは元老院という政治的伝統に配慮しつつ、ドミティアヌス帝が進めたような新興勢力の積極的登用も行い、非常にバランスの良い体制を整えて外征にも乗り出し、ドミティアヌス帝時代に喪失したダキアを併合、続いてアルメニアからメソポタミアのパルティア王国も撃破して最大版図を実現する。ネルウァ時代の老人たちが相次いで亡くなり、旧来の元老院議員の家系が途絶えがちになって、新たな元老院議員を選任していく必要性が大きくなったことも追い風となり、伝統的勢力と新興勢力とのバランスの上に、平和裏に強い皇帝権力を行使することが可能となった。一方で広大な版図は伸びきった補給線と保ちにくい一体性という面で後に帝国を崩壊に導くことにもなる。
ハドリアヌス
内政外征ともに巨大な成果を残したトラヤヌス帝だったが、彼は後継者を定めないまま死んだ。このことが後を継いだハドリアヌス帝の悩みの種になる。ハドリアヌス帝はハドリアヌスの長城でも知られるように、トラヤヌス帝時代から一転、外征を行わず帝国の安定に力を注ぎ、ギリシア文芸の復興など芸術にも理解があったが、実は当時は暴君として評判が悪く、その死後も元老院の強い反対から危うく神格化されないところで、後継者アントニウス・ピウス帝の尽力で神格化されることになるほどだった。ハドリアヌス帝の不評の原因は三つある。最初に帝位継承を巡る陰謀論、次に即位直後の四人の元老院議員処刑事件、最後に自身の後継者を巡って義兄とその孫を自殺に追い込んだことだ。
「セリヌスの秘密」
ハドリアヌスが後継者とされたのは、117年、死の床にあったトラヤヌスが彼を養子としたという発表に基づくが、このときトラヤヌスの側にいたのが皇后プロティナとトラヤヌスの姪でハドリアヌスの妻の母マティディア、近衛隊長官アッティアヌスであった。アッティアヌスはハドリアヌスの同郷で後見人を努めてもいた。さらにトラヤヌス帝の死の翌日、側近の一人が怪死したこともあいまってトラヤヌス帝の意に沿わぬハドリアヌス養子化の陰謀がささやかれた。地名をとって「セリヌスの秘密」と呼ばれる。ハドリアヌスの養子縁組決定過程がどのようなものか、後世の歴史家の間でも意見が別れて真相は謎のままだが、この不透明さがハドリアヌス即位の正当性に疑念を与えることになった。
四元老院議員処刑事件
ハドリアヌス帝がシリアで即位してローマへ帰還する前、ローマで四人の元老院議員が処刑される事件があった。この真相も謎のままだが、四人が新皇帝暗殺の陰謀の疑いをかけられて処刑されたらしい。彼らはトラヤヌス帝に近い人物だったことからハドリアヌスの命によるものという疑いがもたれ、ハドリアヌス自身がその釈明のため帰還を急ぐはめになった。さらに処刑された四人のうちの一人アウィディウスという人物がハドリアヌスの親友であったことが事態を複雑にしている。諸説あるが、著者はハドリアヌスを支持する勢力が暴走した結果ではないかとしている。
ハドリアヌスの皇位継承問題
二つの疑惑によって苦しい立場に立たされたがゆえに、非常に国内融和に力を注がざるを得なくなり、その努力の甲斐あって皇帝として安定した統治を実現したが、みたび晩年になって信頼に傷をつけることになった。135年、実子のないまま皇帝は病に伏せ、ハドリアヌスの姉の夫セルウィアヌスを執政官に任命、孫のフスクスが後継者とされるかと思われたが、136年、彼は貴族ケイオニウス・コンモドゥスを後継者とし、セルウィアヌスとフスクスを自害に追い込んだ。この事件が政界を震撼させハドリアヌスの権威を失墜させる。ところが、138年、アエリウス・カエサルと名乗っていたケイオニウスが急死してしまう。
そこで、皇帝が新たに養子にしたのがアウレリウス・アントニヌス、のちのアントニウス・ピウス帝である。皇帝はアントニヌスに対し、アントニヌスの妻のアンニウス・ウェルス(後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝)とアエリウス・カエサル(ケイオニウス・コンモドゥス)の遺児ルキウス・ウェルス(後のルキウス・ウェルス帝)を養子とさせた。
面白いのが、ここで著者がある女性に注目することだ。それがブラウディアという女性である。ブラウディアの二番目の夫が四元老院議員暗殺事件で死んだハドリアヌスの親友アウィディウスで、ブラウディアの一番目の夫との間の子がケイオニウス・コンモドゥス、そしてケイオニウス・コンモドゥスの妻がアウィディウスの娘アウィディアであった。そして、ケイオニウスの男子がルキウス・ウェルス、女子が若き日のマルクス・アウレリウス・アントニヌスと婚約していた。かつての親友アウィディウスに連なる人物で占められていて、元老院と対立し、暴君の誹りを甘受してまで、この後継者決定を行おうとしたというところに、面白さがある。
アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス
アントニウス・ピウス帝時代は非常に平穏にことが過ぎ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はよく知られているように哲人皇帝で、彼は敢えてルキウス・ウェルスとともに共同皇帝として即位した。しかし、彼の時代はそれまでの反映の歪みが噴出しはじめ、思索の日々は絶たれて外征と内乱とに忙殺されることになる。危機の時代の到来は、従来の政治システムの変革をもたらす。マルクスは「以前とは異なった、出自にとらわれぬ能力主義の原理を人材登用に導入し、帝国統治にプロフェッショナリズムを持ち込んだ」(P223)という。そして、これが帝国を変質させることになる。
「三世紀に入るとマルクスが踏み出した一歩は加速して、騎士身分がその身分のままで帝国統治の重要職務を担うことが増加し、一方で元老院議員が皇帝の指導の下で第一の政治支配層として帝国統治の実際に携わるという皇帝政治の本質が失われていくようになる。対外的危機が深刻化してゆくにしたがって、軍事と民政の専門化はさらに進行した。やがて、三世紀の末には、元老院議員階層に基盤をおくのではない、直属の騎士身分に支えられた皇帝の専制的体制――後期ローマ帝国の皇帝政治――が成立するのである。」(P224)
こうして本書で描かれた過程をみると、五賢帝時代だけを抜き出して全盛期として他の時代と隔絶させることの不自然さが非常によく見えてくる。あきらかにフラウィウス朝と五賢帝時代とはその目指す方向性として連続しているし、まさにドミティアヌス帝が目指して挫折した政策の延長線上に五賢帝歴代の政策が存在しており、最終的にマルクス・アウレリウス・アントニヌスが実現させることになるという一つの流れとして見えてくる。さらにいうと、著者が主張するように「養子皇帝制」が「世襲する実子がないための擬制的手段」(P229)でしかないという点でマルクス・アウレリウス・アントニヌスと次代の実子コンモドゥス帝とも分ける必要性はないように見える。本書ではコンモドゥス帝については語られていないが、コンモドゥス帝についてもなんらか再評価があって良いと思う。
五賢帝時代の安定と繁栄の理由
五賢帝時代の安定と繁栄の理由について以下のとおり総括されている。
「紀元二世紀前半には帝国統治のシステムが安定するとともに公職就任順序が整備固定化されて、身分と階層の構造を持つ伝統的なローマ社会が供給する人材を、帝国統治に安定的に組み入れることができるようになった。また、それと同時に、保守的な価値観念に対立しない程度に温和な形で、新しい活力ある人材を登用することもできた。伝統と現実との双方にうまく適応したシステムが出来上がり、機能していたのである。このことが、諸皇帝が政治支配層を掌握し得たこととならんで、五賢帝次代の政治的安定と繁栄を支えていたのである。」(P218)
このような社会的上昇の流動性については、例えばフランス革命直前、アンシアン・レジーム期のフランス社会と比較してみると面白いかもしれない。
柴田三千雄著「フランス史10講」(P103)
(前略)十八世紀後半の経済繁栄によって豊かなブルジョワが大量に出現してくると、伝統的な上昇の梯子は下が広く上が狭いピラミッド型にならざるをえない。この梯子の頂点では、首尾よく貴族化に成功した平民(ブルジョワ)と経済活動への投資によってブルジョワ化した貴族との間に、結婚や社交を通じて「新しいエリート」階層が形成されはじめる。他方では、社会的上昇のテンポがおそくなり、閉塞状況のなかでフラストレーションをおこす「ストレス・ゾーン」が底辺に堆積してくる。
ともに貴族化した支配層が存在していながら、社会的上昇の過程が一方は流動化し、他方は硬直化した。流動化の過程としての繁栄、硬直化の結果としての革命、流動化の先にあった専制、革命の果てに訪れた独裁・・・面白いと思わないだろうか。
そんなわけで、五賢帝時代を捉え直す良書だと思う。
参考書籍
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