東方先代録   作:パイマン
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真・地霊殿編その三。
「真」なだけあって、以前の地霊殿編で一足先に暴れた主人公の出番はあまりないです。


其の五十五「八咫烏」

 早苗の前を、黒猫が横切った。
 丁度、神社から境内へ出たタイミングで、である。
 僅かに見開いた早苗の眼と、早苗に気付いて顔を向けた黒猫の眼が、合った。
 しかし、それも一瞬のことで、黒猫はあっという間に早苗の視界から消えていった。

「……不吉?」

 先程の黒猫、猫には違いないが普通の猫ではなかった。
 尾が二本あったのだ。
 加えて、幻想郷に来て以来鋭さを増した早苗の感覚が、あの猫から妖怪の気配と力をハッキリと感じ取っていた。

「黒猫に加えて妖怪となると、更に不吉ってことなんでしょうか?」

 呟きながらも、その口調はどうでもいいことのように軽いものだった。
 外の世界の迷信や慣習など、妖怪や神様が人間と一緒くたに生活するこの世界では重みなどないに等しい。
 ここは妖怪の山にある守矢神社で、自分は妖怪から信仰を集める神に仕える者なのだ。
 視界を横切っただけの妖怪などすぐに頭の中から消え、早苗は境内から湖の方へと飛び立った。

「神奈子様、お昼の用意が出来ました」

 早苗は、二柱の神と文字通り生活を共にしていた。
 神奈子と諏訪子が、食卓を囲み、風呂に入り、布団で眠る――人間とほとんど変わりない生活だ。
 食事の用意を始めとして、家事を勤めるのは早苗である。
 本来ならば、神である二柱には食事も睡眠も必要ない。彼女達の肉体を形作るのは信仰である。
 しかし、早苗自身が神奈子と諏訪子に同じように生活することを望み、それを喜んだのだ。

「神奈子様――」

 何本もの御柱が並び立つ湖。
 その柱の内の一本の頂点に、神奈子は早苗から背を向けるように座っていた。
 右膝を立てて片胡座をかき、左足は柱の淵から投げ出している。
 片手に一枚の紙を持ち、そこに書かれている内容をじっと読み込んでいるようだった。

「あの、神奈子様」

 呼びかけも聞こえないほど集中している神奈子の様子を伺うように、早苗はおずおずと近づいた。

「早苗かい」

 神奈子が肩越しに振り返った。
 その際、さりげなく持っていた紙を早苗の視界から隠していた。

「昼時か」
「はい、もう用意は出来ていますよ」
「すぐに行く」
「それと、諏訪子様が何処にいるか知りませんか? 一応、三人分用意してはあるんですけど」
「さあね。その辺を適当にフラフラしてるんだろう。腹が減ったら帰ってくるさ。案外、虫でも捕まえて食ってるかもしれんしな」

 神奈子の軽口に、早苗は苦笑いを浮かべた。
 気心の知れた者同士だからこそ許される口の悪さだと、早苗も分かっている。
 しかし、どちらも敬い仕える神である為、反応に困るのも確かだった。

「ところで、早苗」

 背を向けたまま、神奈子が言った。

「はい?」
「お前、古明地さとりについてどう思う?」

 それは、早苗にとって全く予想していなかった質問だった。
 ここまでの会話で、何の脈絡もない。
 それ以前に、神奈子の口からさとりの名前が出てきたことが意外だった。
 神奈子はさとりと僅かな面識はあれど、実際に言葉を交わした経験がない。
 地底に行った時は勇儀に邪魔され、直接対面することなく戻ってくることになった。
 神奈子が地底に行ったことさえ知らされていない早苗にとっては、自分が時折話して聞かせていただけの人物の話題を突然振られたようなものだった。

「さとりさんは、えっと……凄くいい人だと思います」

 戸惑いながらも、早苗は素直に思っていることを応えた。

「あいつは妖怪だぞ?」
「言葉の綾ですよ。外の世界ではさとりさんに色々とアドバイスを頂いて、随分と助けてもらったんです」
「それについては、何度か話してくれたね」
「はい。さとりさんには本当にお世話になりました。いつか、恩返しがしたいと思ってます」
「そうか」
「はい!」
「早苗」
「はい?」
「あまり、古明地さとりに好意を持つな」

 会話の中で、突然差し込まれた冷たい言葉に、早苗は凍りついた。

「……え?」

 恩人であるさとりを思い浮かべて、何処か浮ついていた気分は、その一言で消え失せてしまった。
 早苗は、密かにさとりのことを尊敬していた。
 幻想郷では多くの出会いに恵まれ、友人も出来た。
 しかし、本当に孤独だった外の世界で、初めて出来た理解者はさとりだったのだ。
 息を潜めて過ごさねばならないような日常を突然ぶち壊し、颯爽と現れた時の衝撃と感動を、早苗は決して忘れない。
 大げさな言い方をすれば、あれは運命の出会いだったとすら思っていた。

「奴には、お前が抱く好意が読める」

 神奈子は言った。

「確かに、さとりは助言者として最適だろう。奴にはお前が掛けて欲しい言葉が分かるんだ。しかし、お前には奴の真意が分からない」

 違う。
 あの人は、自分で答えを見つけさせようとした。
 そうさせてくれた――。
 早苗は反論しようとした。
 しかし、御柱に腰掛けた姿勢のまま淡々と告げる神奈子の背中が、有無を言わせぬ圧力を滲ませていた。
 早苗には、それこそ神奈子の真意が分からなかった。
 何故、急にこんなことを言うのか?
 これは警告なのか?
 古明地さとりは危険だと、そう忠告しようとしているのか――?

「……その手紙、さとりさんからなんですか?」

 早苗は探るように訊ねた。
 神奈子は、その質問に答えなかった。
 ただ背を向け続けるだけだった。
 その顔がどんな表情を浮かべているのか見えず。
 その眼が何を見ているのかも分からない。
 早苗は、幻想郷に来て以来初めて自分の過ごす日常に疑惑を感じた。
 新たな地で、新たな人生を歩む、充実した日々。
 しかし、これまで眼を向けていなかった物事に、突然気付き始めた。

 神奈子がこれまで何処へ、何を目的として出掛けていたのか?
 諏訪子がここにいないのは、本当にただ散歩に出ているだけなのか?
 何をしようとしているのか?
 何が起ころうとしているのか?

 ――自分は何も知らないのだ。





 神奈子が信仰獲得の一環として考え付いたのは『幻想郷エネルギー革命計画』だった。
 地霊殿が管理する旧灼熱地獄を原子炉、八咫烏の力を与えた霊烏路空を制御装置として核融合を実用化し、それを御利益として新たな信仰を集める。
 そういった内容の計画である。

 ――その計画を、詳細に、正確に、断定する形で書き起こされた文章が、地底から届いた手紙には載っていた。

 差出人は、古明地さとり。
 早苗は何も知らず、諏訪子にすら匂わせる程度にしか話してない計画を、会話はおろか対面すらしてない彼女は見抜いていたということである。
 手紙の内容は、ただ計画を暴露するだけでは終わらなかった。
 その計画を、地霊殿側が受け入れるという譲歩。
 代わりに、(うつほ)の状態が安定するまでは、こちらへの干渉を止めて欲しいという要求。
 そういった内容がつらつらと書かれていた。
 不気味な内容だった。
 こちらの真意を完全に見抜いておきながら、何故ここまで受身なのか。
 正直、肩透かしを食らった気分だが、そう油断させることこそが相手の狙いなのかもしれない。
 直接の面識がない神奈子には、古明地さとりの人物像が掴めなかった。
 意表を突かれ、脅威も感じたが、恐れはない。
 しかし、実態の掴めない不気味さをひたすらに感じる。

 ――こいつは、一体何を考えている?

 相手の考えていることが分からない。
 だが、逆に相手はこちらの考えを読めるのだ。
 その疑心が、思わず言葉となって早苗に向けて零れてしまったのである。
 早苗が場を去った後で、神奈子は自身の失態を反省した。
 幾らか心を落ち着けた瞳には、本来の力強さが戻っている。
 さとりの考えていることは分からない。
 さとりには、他の誰にも見えていないものが見えているのかもしれない。
 しかし。
 しかし、だからどうだというのか。
 自分のやることは変わらない。
 神の御技は絶対不変。
 曲がることなどないのだ。
 目的は変わらない。
 力を。
 力を得る。
 神としての絶対の力を――。

「侮っていたことは認めよう、古明地さとり」

 虚空の先に、いまだ言葉も交わしたことのない地底の支配者を幻視して、神奈子は不敵に笑った。
 先代巫女と古明地さとりの間には特別な繋がりがある。
 それはもはや間違いがない。
 それを友情と呼ぶのか、あるいはもっと別の呼び方があるのかは当人達でもない限り分からないが、神奈子はこれまでその繋がりだけを重視していた。
 先代を特別視するあまり、彼女の周囲を軽視していた。
 古明地さとりの存在は、先代巫女に近づく為の踏み台であり、核心であり、あるいは弱点となるかもしれないと考えていた。
 しかし、それは侮った見方だった。
 さとりの方が特別だったからこそ、先代との繋がりも特別なものになったのではないか。
 少なくとも、さとりが先んじて打った一手は、神奈子の思惑を潰してみせたのだ。

「だが、これで事態は私の手を離れた」

 さとりが指摘したとおり、神奈子には計画があった。
 それは力を手に入れた空の心身についても、彼女の行動が地霊殿や地底世界に及ぼす影響も考慮した、一通りの計画だった。
 さとりや地霊殿について、悪いようにするつもりはなかった。
 別にさとりが憎いわけではない。
 そんな私情を交えるような相手でもない。
 先代に対しても同じだ。彼女に敬意こそあれど、憎む理由などない。
 単純に先代ともう一度戦いたいのならば、他者を巻き込んで敵意を煽るような真似をせず、一対一で堂々と勝負を挑めばいいだけの話だ。
 意味もなく禍根を残すやり方は、ただ浅慮なだけだ。
 守矢神社の繁栄も踏まえ、実益も兼ねた生産的な計画を練ったつもりだった。
 しかし、その計画は瓦解した。
 さとりが神奈子の予想を超えた存在だった故に。

「いいだろう、古明地さとり。お前の手に委ねてみよう」

 神奈子は楽しげに呟いた。

「神が仕組んだ賽の目を、わざわざ自ら振り直したんだ。どんな目が出るのか、もう私にも分からんぞ」





「妖夢さん。貴女に暇を与えます」
「……え?」

 妖夢は言われたことの意味を、一瞬理解出来なかった。

「いえ、回りくどい言い方はやめましょう。妖夢さん、貴女はクビです。荷物を纏めて、地霊殿から出ていって下さい」

 車椅子に座ったさとりは、妖夢が言葉の意味をわざと誤って解釈しようとするのを許さずに、更に明確に告げた。

「あの……私は、何か拙いことをしたでしょうか?」

 妖夢は震える声で訊ねた。

「至らない部分があったなら、その、教えていただければ……っ」

 言いながら、自分は何て間の抜けたことを口にしているのだろうと思った。
 訊くまでもないからだ。
 自分がどうしようもない役立たずであることくらい、とっくに自覚している。
 いつか、こうしてさとりに見放されるだろうと、今日まで怯えていた。
 拙いことをした?
 何か大きな失敗をした?

 ――違う。何もしなかっただろう、お前は。

 さとりの窮地に何も出来なかったことへの強い負い目が、妖夢をずっと責め立てていたのだった。

「……いえ、すみません」

 結局、妖夢はさとりの返答を聞くよりも先に、恥じるように言い直した。
 さとりの決定に対して、反論も、疑問を持つ資格もない。
 あるいは、さとりの口から直に伝えられることが怖かったのかもしれない。

「――むしろ、よく働いてくれたと思ってますけどね」

 小さく呟いたさとりの言葉は、自責の念に沈んだ妖夢には届かなかった。
 元々、さとりもフォローの為に言ったのではない。つい本音が漏れてしまっただけだ。
 自分は厄介払いをされた――と、妖夢は考えている。
 そのネガティブな発想を、当然さとりは読み取っていたが、あえて訂正しないでおくことにした。
 さとりとしては、これから地底で起こるであろう異変の渦中に妖夢がいない方が都合がいい。
 だから、あえて詳しい事情を説明しなかった。
 もしも、これから起こる異変のことを明かせば、それが妖夢がここに残る理由になってしまう。
 彼女は、純粋に自分や地霊殿の未来を案じ、力となる為に残ろうとするだろう。
 彼女の本質が善性であり、義理堅くて真面目な人物であることは知っている。
 しかし、本来ならば間違いなく称賛するべき妖夢の長所が、今のさとりには歓迎出来ない。

「……すぐに、荷物を纏めて出ていきます」

 妖夢は苦しげに、やっと言葉を吐き出した。
 何時かは、ここから出ていかなくてはならないと分かっていた。
 分かっていただけで、それに備えることなど出来なかった。
 地霊殿を出た後に行くアテなどない。
 白玉楼には決して戻れない。
 今更――今でも――幽々子に合わせる顔などない。
 魔理沙や霊夢のいる地上へ戻ることすら恐ろしかった。
 昔の自分を知る者のいない地底に、ずっと潜っていたかった。
 旧都に余所者を働かせてくれる所などあるかは分からないが、最悪物乞いでもしてひっそりと住み着くか――。
 途方に暮れた妖夢は、半ば本気でそんなことを考えていた。

「私は、もういい加減本来の場所へ戻るべきだと思いますけどね」

 心を読んださとりが言った。

「それだけ貴女の抱える問題の根が深いのかもしれませんが、ずっとこんなことを続けていくわけにもいかないでしょう? 問題には、何らかの答えを出さなければならないはずです」
「それは、分かっています」
「妖夢さん、貴女には帰りを待つ人が……」

 さとりは言いかけ、その途中で残りの言葉を息に変えてゆっくりと吐き出した。
 用件は伝えた。妖夢はそれを了承した。彼女はすぐにここから出ていく。
 それで話は終わりだ。
 私達は他人同士に戻る。その後を注意深く暮らしていれば、互いの人生が再び交わることもないだろう。
 これ以上余計なことは言わず、話を切り上げよう――。

「私には妹が一人いましてね。名前はこいしといいます」

 噤んだはずの口は、意思に反するかのように勝手に喋っていた。
 しかも、親しい相手にも普段なら決して出さない話題だ。
 何故、ここで妹のことを話すのか。
 何故、相手が妖夢なのか。
 自分でも分からなかった。

「難儀な子でね。同じ種族で、しっかりと血の繋がった姉妹ですが、一緒に生活しているわけではありません。普段は地霊殿に寄り付かず、いつも何処かフラフラと出歩いています」
「私も、会ったことはないと思います」
「私とは違った特殊な能力を持っていて、あの子に会った相手はそのことを覚えていない場合が多い。でも、少なくとも地霊殿には、ここ数年顔を出していないでしょう。多分」
「数年も、ですか?」

 信じられないといった妖夢の表情から眼を逸らし、さとりは誤魔化すように苦笑を浮かべた。

「一応、この地霊殿を帰るべき家だと認識はしてくれているみたいですがね。数日間だけ空けて戻ってくることもあれば、しばらく滞在することもある。逆に、もっと長い時間帰ってこなかったこともありました。それこそ、もう二度と帰ってこないんじゃないかと思うくらいにね」

 なるべく冗談っぽく聞こえるように、茶化した軽い口調で喋るように努めたが、妖夢の様子を見る限り、その努力が成功したとは思えなかった。

「時々、酷く不安になる。先程少し説明したこいしの能力は、私には通じない。私だけは、あの子の存在を覚えている。でも、そこに確固たる根拠はないんです。私自身の能力とか、血が繋がっているからとか、それらしい理由はあるけれど、誰かが明確に説明してくれたわけじゃない。ひょっとしたら、それこそ私が覚えていないだけで、こいしは昔のように私の傍にいるんじゃないかと疑うことが何度もあります。家族と会えなくて寂しく思っているのは私じゃない、あの子の方なのでは? と」
「それは、さとりさんの考えすぎです」

 咄嗟に口走った後で、妖夢は気付いた。
 この浅慮で無責任なフォローも、さとり相手では見抜かれてしまうのだ。

「こういう時、自分の能力が煩わしく思えますね。でも、ありがとう」

 さとりは滅多に見せない穏やかな微笑を浮かべながら言った。
 素直な感謝の気持ちだった。

「私が言いたいのは……帰りを待つ側は、本当にささやかなことしか願っていないということです」

 もう認めよう。
 自分は、何とか妖夢を説得して、彼女の家と主の元へ帰してやりたいと思っている。

「問題が何も解決せず、何かの失敗や負い目を抱えたままでもいい。先の見通しがなくても構わない。とにかく、ただ帰ってきて欲しい」

 最初に妖夢を見た時『彼女の家族や親しい者は、きっと彼女を立ち直らせることは出来ないだろう』と分析した。
 それは同時に『自分ならば彼女を救える』という考えに他ならなかったはずだ。
 しかし、現実は目の前にある通りだった。
 妖夢を急に厄介者扱いしたくなったのは、状況を顧みて面倒になったからではない。
 自分の助言者としての無能さに驚いて途方に暮れたからなのだと、今更になって気付いた。
 かつて血の繋がった相手に対して出来なかったことが、赤の他人相手なら出来ると、どうして思えたのだろう。

「それからどうなるかは分からない。でも、まずはそこから一緒に始めたい。一人で過ごす間、ずっとそう考えているんです」
「でもっ……でも、幽々子様にどんな顔をして会えばいいのか分からないんです」

 妖夢が震える声で言った。

「昔のように、何も知らなかった頃と同じ顔で、あの人ともう一度生活するなんて怖くて出来ない。どうすればいいのか分かりません。本当に。あの人の傍で何をしていればいいのか、何を喋ればいいのか……昔はそんなこと考えたこともなかったのに」
「傍にいるだけでいいんです」

 さとりは精一杯の気持ちで、真実を伝えようとした。
 しかし、出た言葉は驚くほど虚しく、俯いた妖夢の顔を上げさせる力すら持っていなかった。

「……きっと、そのはずです」

 それ以上何も言えなかった。
 自分の力で出来たことといえば、早々に見切りをつけて、諦めることだけだ。
 文字通り、手に取るように分かる妖夢の心理が、自分の努力が無駄であることだけを確固たる根拠と共に示していた。
 さとりは黙りこんだ。
 もはや、自分に出来ることは妖夢がここから立ち去るのを待つだけだと判断して。
 かつて、妹に対して最後にそうしたように。





 妖夢が部屋から出ていった後も、さとりはじっと息を潜めるように動かなかった。
 両眼を瞑り、意識を集中している。
 眼を凝らすように、耳を澄ませるように、地霊殿内にいる妖夢の心を第三の眼で捉え続けた。
 やがて、全ての後始末と準備を終えた妖夢が地霊殿を立ち去った後で、さとりはようやく集中を解いたのだった。
 空は未だに昏睡状態のまま目覚めない。
 燐は用事を与えて地上へ行かせた。
 そして、妖夢はたった今地霊殿から去った。
 後に残っているのは自分を除いて、力の弱い、もしくは全くないペット達だけである。
 さとりは、おもむろに車椅子から立ち上がった。
 多少ぎこちないが、しっかりと自らの足で歩き、部屋の鍵を掛けて、そのままベッドにまで移動する。
 横になり、シーツを身体に被せて――そして、ようやく本当の意味で力を抜いた。

「痛たた……っ」

 途端、筋肉痛にも似た痛みが全身に走る。
 我慢出来ないほどではないが、思わず蹲りたくなる程度の痛みではある。
 しかし、今度は先程とは違って手足がピクリとも動かなかった。
 痛みに対する反射的な動きすら起きない。
 これが本来の状態なのだ。

「糸を使って筋肉を直接動かすのって、意外と痛いのね」

 食い縛った歯から、自然と悪態を漏れた。

「普通に歩いただけでこの痛みとか……漫画の中とはいえ、この状態で戦ったりしてるんだから、本当にとんでもないわ」

 ――ナノ単位の鋼糸によって、他人や自身の肉体を意のままに操る技。

 先程までさとりが使っていたものが、それだった。
 当然、さとり自身が本来持っている能力ではない。
 漫画の中で使われていた技――正確にはそれを使うキャラクター――を、本来の能力によって再現したのである。

「しかも、設定的には人間なのよね。それはトラウマにもなるわ」

 先代巫女の記憶(トラウマ)から読み取った、そのキャラクターに関する多くの印象的な場面や言動を脳裏に浮かべて、さとりは身震いした。
 架空の存在でよかった、と心底思う。
 同じく架空の存在であるはずの妖怪がそう考えるのも妙な話だが、『もしも同じ世界に実在していたら』と想像して、これほど恐怖を感じる人物はそういないだろう。

 ――まあ、先代の記憶の中には多数いるわけだが。

 彼女の前世の記憶にある多くの漫画やアニメ、小説の中でも名作として名高い物――それら物語に登場する人気のキャラクター達の中から、更に選りすぐった恐ろしい悪役や黒幕達を想起させて、再現する。
 それがさとりの行った内容だった。
 相手のトラウマを攻撃に利用することは、力の弱いさとりにとって常套手段である。
 しかし、それはあくまで精神への攻撃だ。
 その他に、例えばスペルカードなどの共通の媒体によって真似る程度のことならば出来る。
 決してキャラクター自体を再現し、あまつさえその能力まで使用出来るようになるコピー技の類ではない。
 しかし、実際にそれが出来てしまった。
 想起した記憶自体が原因だとは思えない。
 前世のものだろうが、異世界の漫画だろうが、記憶は記憶だ。それ自体には何の力もないはずである。
 単なる記憶に力が伴うとすれば、それはさとり自身が持つ能力が何らかの作用をしているとしか考えられなかった。
 少なくとも自分は、外の世界にいた時まで、こんな妙な力は持っていなかった。

「今更、力が強くなっても扱いに困るんだけど……」

 ようやく痛みが引いてくると、今度は疲労感が圧し掛かってきた。
 重くなり始めた瞼を、抵抗せずに閉じると、さとりは大きくため息を吐いた。

「便利なのか厄介なのか」

 方法はどうあれ、身体を動かせるというのはありがたい。
 これから先、地底で起こる異変の為にも、最低限弾幕ごっこが出来る程度に動ける必要はあるからだ。
 しかし、毎回この痛みに悩まされるのは如何なものか。
 能力の使用自体に対するペナルティではないはずだ。
 これはあくまで再現した技が、そういう仕様だっただけのこと。
 ならば、同じような結果を得られそうな別のトラウマを想起してみようか。
 動かない身体を動かす、というのはそこまで難しい条件じゃないはずだ。
 でも、トラウマ。
 ああ、トラウマか。
 今更だが、なんか感じ悪い。
 先代のトラウマというと、必然的に誰にとっても記憶に残るようなエグいものばっかりだ。
 俗に言う『みんなのトラウマ』って奴だ。
 そういうのを再現するとか、正直こっちも精神を削られる。
 強力なだけに、デメリットや副作用が伴うのか分かっていない点も不安だ。
 自分のことだけではない。異変のことも含めて、周りは不確定要素ばかり。
 色々と備えてはみたが、これから先何が起こるのか正直分からない
 多くの不安。
 異変。
 お空。
 妖夢。
 二通の手紙。
 お燐。
 無事に。
 届け。
 上手く。
 原作。
 平穏な生活。
 昔のように。
 こいし――。
 徐々に眠りに落ちていく意識の水面で、思考が次々と気泡のように膨らんでは消えていった。

「先代がレベルを上げて物理で解決してくれれば楽なのに……」

 無責任なことを口走りながら、さとりは眠りに就いた。
 身体が動かない為、寝返りを打たない。
 ほんの僅かな胸の上下運動だけが、呼吸していることを表している。
 死んだように眠るという表現が相応しい、あるいは時間が止まっているのではないかと思えるような、深い眠りだった。
 静寂が部屋を満たしている。
 その中で、音も立てずに扉が開いた。
 音だけではない、室内の空気さえ乱れない開き方だった。
 視覚で捉えて、ようやく扉が開いたと認識出来るような開き方である。
 開いた扉から、足を踏み入れる者があった。
 当然の如く、さとりは侵入者にも眼を覚まさない。
 ノックすらない。
 かといって、意図して気付かれずに入り込もうとするような動き方ではない。
 足音はなく、それでいて自然な歩調で、小柄な人影がベッドの近くまで歩み寄った。

「ただいまー、お姉ちゃん」

 古明地こいしは、満面の笑顔で眠る姉に挨拶をした。

「ぐっすり眠っちゃってるね。残念、折角帰ってきたのに」

 こいしの声量は特別抑えたものではなかったが、さとりが眼を覚ますことはなかった。
 それだけ深い眠りなのだ。

「色々疲れることがあったもんねぇ。それに、これからもたくさん起こる。本当に、お疲れ様。お姉ちゃん」

 慈しむような笑顔で、優しく姉の頭を撫でる。
 そのまま頬をなぞり、鼻の下まで来ると、人差し指と中指を差し込んだ。
 鼻の穴を塞がれた結果フガフガと苦しげに喘ぐさとりの顔を見て、こいしは爆笑した。
 床を転がり回りながらひとしきり笑うと、目元の涙を拭って立ち上がる。
 やはり、さとりは起きる気配さえ見せなかった。

「一度死に掛けた上に、わけの分かんない力まで使ってるんだから、疲れて当然だよね。わたしも少し休もうっと」

 こいしはさとりの隣へ寄り添うように、ベッドに横になった。
 動かない姉の片腕を両手で胸に抱き寄せる。
 吐息が届くほど全身が密着しても、さとりは身じろぎ一つしない。
 もちろん、こいしにとってはそれでよかった。
 起きて、自分の存在に気付かれても困るのだ。
 今はまだ。

「お姉ちゃん、頑張ってるね。わたしも、頑張ってるよ。だって、お姉ちゃんの為だもん。見通しの甘い姉のフォローをするのは、しっかり者の妹であるわたしの役目」

 さとりの寝顔に向かって囁く。

「ちゃぁんと、お姉ちゃんを異変の黒幕に相応しいラスボスにしてあげるから」

 こいしは言った。

「ただのペットが六面ボスで、その主人であるお姉ちゃんが四面ボスなんて納得出来ないよ。だって、お姉ちゃんは地底の支配者なんだもん。あの八雲紫にも一目置かれる狡猾で人心掌握術に長けた心だけじゃなく未来の異変さえ事前に覚れる大妖怪にして静かなる悪意スーパーサトリ意味はてめぇで勝手に想像しろ! なんだもん」

 こいしは無邪気に言った。

「原作通りの予定調和みたいな異変なんてつまんないよ。ましてや、それをもっとつまらなくするなんて間違った努力の方向だよ。ホント、しょうがないにゃぁ、お姉ちゃんは。でも大丈夫、わたしがいるからね。ちゃんと、わたしが物語を盛り上げてあげるからね。クライマックスで、満を持して登場するのはお姉ちゃん! オイシイ所を全部攫っちゃうんだっ! 参加するはずのないイレギュラーをいっぱいいっぱい巻き込んで、ゲームをもっと面白くしよう!!」

 こいしは心の底から楽しそうに笑った。

「愛してるよ、お姉ちゃん♪」

 こいしは、姉の頬におやすみなさいのキスをした。





 買ったばかりの酒瓶をぶら下げて店を出たヤマメは、偶然目の前を通りかかった鬼の姿を見て、僅かに驚いた。
 以前の異変に参加して地上へ出ていった鬼のほとんどが退治されたことは、旧都の住人ならば誰でも知っている。
 地底に生きて戻ってきた鬼は数えるほどしかいない。
 星熊勇儀がいるからこそ、鬼という種族の存在感は決して小さくならなかったが、今や旧都に居る鬼は十人にも満たなかった。
 そんな数が少ない鬼の中でも、見たことのない顔だったのだ。

「この地底で見かけたことのない鬼ってのも珍しいね」

 思わず漏れた独り言に、その鬼は敏感に反応した。
 何故か、周囲を警戒しながら歩いていたらしい。
 ヤマメと眼が合い、気まずそうな表情を浮かべる。
 その反応もまた謎だった。

「ど、ども……黒谷の姐さん」
「うん? あんた、あたしのことを知ってんの?」

 その鬼は、印象に残るような雰囲気や強者たる威圧感は持っていなかったが、全身の皮膚が赤いという特徴的な姿をしていた。
 まだ多くの鬼が住んでいた頃と比べても、赤鬼というのは珍しい。
 目立つことが騒動の元でもあるこの旧都において、記憶に残りやすいはずの存在である。

「いや、例の異変の前にここに住んでいたクチでして、その時に姐さんのことをちょっと見たって程度で……へへっ」

 鬼らしからぬ卑屈な笑顔と口調で答えが返ってくる。
 見た目以外は、確かに記憶には残らない程度の小物のようだ。

「ふぅん。ってことは、地上に残ってたのが戻ってきたってことかい?」
「ええ、ちょいと野暮用でして」
「それって、後ろに連れてる妙な二匹と関係あるの?」

 ささやかな興味から、ヤマメは赤鬼の背後にいる妖怪と妖精に視線を向けた。
 妖怪の方は、少女の容姿をした化け猫である。感じる力も弱く、ヤマメにとって大した印象を抱くような相手ではない。
 地上の妖精は、少し珍しかった。やはり力は弱く、気に掛けるような存在ではないが、何故か自分に対して睨むような目付きをしているのが気になった。何より、その顔には少しだけ覚えがある。

「そっちの妖精は、なんか何処かで見た覚えがあるような」
「やいっ! あたいを忘――」

 化け猫が瞬時に妖精の口を押さえて羽交い絞めにし、赤鬼が巨体で遮るように間に割り込んだ。
 話を中断されたヤマメは、不愉快に感じるよりも、妙に息の合ったコンビネーションだなぁと感心した。

「いやぁ、こいつらは俺の子分みてぇなもんですよ! 地上で妙に纏わりつかれましてね、迷惑してるんですわ! ところで、姐さんは見たところキスメの姐さんの所で酒盛りですかい!?」
「ああ、うん。まあね。ってか、あんたよく知ってるね」
「お二人の仲の良さはついつい眼に入っちまうんでさぁ! ささっ、遅れるといけねぇ。縁があったら、またお会いしましょうや!」

 赤鬼が捲くし立てながら、背後の二人を押しのけ、ヤマメに道を譲った。
 譲らなければいけないほど狭い場所でもない。当然、これが厄介払いの一種であることは分かっている。どうやら、相手にとっては触れて欲しくない事情があるらしい。
 しかし、分かったからといってその事情に執着するほどの理由も、ヤマメにはなかった。
 鬼のクセに変に弁の立つ奴だったなー、と。その程度の感想を浮かべながら、ヤマメは促されるままにその場を離れたのだった。





「オイ! あたいがアンタの子分ってなによ!? 逆でしょ、バーカ!」
「ぅるっせぇな! あの時はああでも言わなきゃしょうがなかったんだよ!」

 橙から開放された途端、チルノは赤鬼に噛み付いていた。種族差や体格差などないかのような迫力だった。
 鬼と妖精が同じレベルで争う光景は、本来ならば大いに人目を引くものである。
 喧嘩が路傍の華である旧地獄街道では尚更のことだ。
 しかし、現状二人の諍いに注目するギャラリーは存在しなかった。
 ヤマメと分かれた後すぐさま人気のない裏道へと逃げ込んだからである。

「まあまあ、チルノ。今回はこいつの方が正論だよ。地霊殿に着くまで、変なイザコザや喧嘩に巻き込まれるわけにはいかないんだ」

 橙は、自分の式神の判断を認めていた。
 実際に、地底において彼は意外なほど活躍していた。
 地底への侵入を無事に果たした橙とチルノは、案内役として式神であるこの鬼を召喚した。
 古巣である地底に関して知識や土地勘があり、この街道から外れた裏道を利用することを思いつけたのも彼のおかげである。

「本当、いい判断だったよ。その場しのぎの為とはいえ、わたしも含めて子分扱いしたことは許してあげるよ。わたしもご主人様として鼻が高い。式神であるあんたを使役する立場であるわたしもね」
「……立場強調すんなよ。あと蹴んなよ」

 不必要に大きく胸を張りながら、ふくらはぎにローキックを繰り返す橙を、うんざりしながら見下ろした。
 もはや怒りすら湧かない。
 湧いたら痛い目に遭うと骨身に染みて理解しているからだ。
 生意気な妖精に怒鳴られ、ちっぽけな妖怪に難癖をつけられる、自分の立場に情けなさだけがしみじみと湧いていた。

「いいから、さっさと行くぞ。出来るだけ早く目的地に着きたいって命令したのはお前らだろ」

 癇癪を起こす子供を諌めるように、赤鬼は疲れた仕草で行動を促した。
 未だに不機嫌な二人を後ろに、先導して歩きながら、つくづく自分は変わったと思った。
 姿形だけの話ではない、内面も含めてだ。
 ヤマメが今の自分を見て覚えがないと言うのも、無理はないだろう。
 かつての自分は、ただ単に鬼という種族だけが目を引く、地底ではありふれた小物だった。
 しかし、現在は――より一層惨めで矮小な負け犬になっていた。

「そーいえばさ、アンタさっきのクモの妖怪と本当に知り合いだったの?」

 おもむろにチルノから投げ掛けられた質問に、赤鬼は驚きながら振り返った。

「おいおい、何であの人が土蜘蛛って知ってんだ? お前の方こそ、本当に黒谷の姐さんと顔見知りだったのかよ?」
「お師匠と一緒にここへ来た時、入り口の近くで会ったのよ。お師匠のことバカにして、ムカつく奴だったわ!」
「……頼むから、あの人に喧嘩売るような真似をしてくれんなよ? お前を助ける為に俺が代わりに戦うなんて事態にゃ死んでもなりたくないぜ」
「それってつまり、鬼のあんたよりあのヤマメって妖怪の方が強いってことよね。前々から思ってたけど、あんた鬼の中じゃかなり弱い部類なんじゃない?」
「う、うるせえな!」

 橙の容赦のない指摘は、自覚という急所へ的確に突き刺さった。

「く、黒谷の姐さんはよぉ、勇儀の姉御や伊吹の|頭《かしらとタメ張るほど年季の入った大妖怪だぜ!? その怪力は、俺以外でも生半可な鬼じゃあ太刀打ち出来ねぇほどだったんだ! まさに格上の御方よ!」
「その口ぶりからすると、実際に戦ったことがあるみたいに聞こえるけど?」
「……昔、仲間と酔っ払ってた時に絡んで、ボコボコにされたんだ」
「それって、あたい達の時と同じじゃん」
「そうだよ! あんな感じにぶちのめされたんだよっ!」
「あんたって、進歩ないね」
「あたい、知ってるわ! あんたみたいなのをチンピラって言うのよ!」
「うるせぇぇっ! 黙ってついてこねーと、案内やめるぞ!」

 しかし、怒鳴りながらも、足は止めていない。
 別段律儀なワケではなく、どう抵抗しようが橙の命令に絶対服従の身であることは変わらないと分かっているからだった。
 そうでもなければ、そもそも地霊殿までの案内など請け負うはずがない。
 住み慣れた古巣を飛び出し、意気揚々と喧嘩に乗り込んだ先で完膚なきまでに叩きのめされて、おめおめと帰ってきたことだけでも面子が立たない状態だというのに、子供のような妖怪と妖精に顎で使われる身分にまで落ちぶれてしまったのだ。
 万が一にも知り合いと遭遇しようものなら、生き恥を晒すというレベルではない。
 旧都を通る際に人目を避けたいのは、彼自身も同じだった。
 出来れば近づきたくもない。
 加えて、目的地があの地霊殿だ。
 地底に住む者ならば、大抵の者が寄り付くことさえ避けたがる場所だった。
 かつて、そこに住む古明地さとりは地上を追われた妖怪達の楽園である地底でさえも一番の嫌われ者だった。
 それが今は、地底で一番恐れられる嫌われ者だ。

「地底にやって来るってだけでも相当だってのに、あの地霊殿に行きたがるなんざ物好き通り越してるぜ」

 伊吹萃香が起こした異変は、実は全て古明地さとりの計画だったのではないかと噂されている。
 真偽の程は定かではないが、そう噂されるだけの根拠がある妖怪だということだ。

「ご主人よ。あんたも賢いんだから、あそこに近づくことのヤバさは分かってるだろ?」
「確かに、古明地さとりは凄く危険な妖怪だって言われてるけど……」
「えー、さとりは別にキケンじゃないわよ。アイツ、すっごい弱っちいもん」
「力が強いことだけが、強さじゃないんだよ。あの妖怪には、藍様も紫様も一目置いてるんだ。チルノの師匠である先代巫女さえ、あいつの言いなりだって話だよ」
「そりゃそうよ。だって、お師匠とさとりは親友だもん。お師匠がいっつもさとりを助けてあげてるんだ」
「まあ、妖怪の山で見た感じだと、確かに仲は深そうだけど……でも、きっと何か裏があると思うな。チルノは警戒しなさすぎだと思う」
「皆がさとりのこと勘違いしてるだけだと思うけど?」
「妖精らしいお気楽さだぜ。それじゃあ、その大したことのない古明地さとりが、お前らの言う友達を地上に連れ出すことを簡単に許可してくれるよう祈っときな」

 赤鬼の言葉に、橙は不安そうな表情を、チルノは納得のいかなさそうな表情を浮かべていた。

「――ちっ、また喧嘩を始めてやがる」

 街道に繋がる建物の隙間から、喧騒が聞こえた。
 ハッキリと何が起こっているのかは分からないが、確実に揉め事の前兆であることは確かだ。
 それを避けるように、赤鬼は二人を連れ立って足早に先へと進んでいった。

「変わんねぇなぁ、ここは」

 どうせ、誰かと誰かが喧嘩でも始めたに違いない、と。妙な懐かしさに知らず笑みが漏れていた。





 妖夢は、生まれてこの方喧嘩というものを経験したことがなかった。
 戦い自体はもちろん経験したが、それらは全て厳粛で公平な決闘だった。
 ――いや。
 ただ一度、無抵抗の相手に刀を振り下ろしたことがある。

「お前が魂魄妖夢だな?」

 鬼が住む旧都の街道で、そこの住人にこうして敵意を向けられるのは、あの時の罰なのかもしれない。
 自分の前に立ち塞がった妖怪の巨体を見上げながら、妖夢はそんな風に考えていた。

「地霊殿で、古明地さとりの小間使いをやってるっていう物好きだろう?」

 正確には、ついさっきクビになって地霊殿からも追い出されたのだが、それをわざわざ見知らぬ他人に教える必要もない。
 妖夢は警戒するように、相手を睨み付けた。

「……それが何ですか?」
「一度、会いたいと思っていたのさ。あの(おきな)を斬ったという侍にな」
「翁?」
「鬼だよ。地上の異変でお前が斬ったと伝えられている、鬼の爺さんさ」

 まさについ先程、偶然にも脳裏に蘇っていた記憶を指摘されて、妖夢は息を呑んだ。
 それに『伝えられている』とは、どういうことなのか?
 あの時の状況を、誰が、どうやって、何の目的で伝えたのか――。
 動揺する妖夢の様子を見て、目の前の妖怪は楽しげな笑みを浮かべた。

「あの爺さん、どうやら本当に耄碌しちまってたようだな。こんな小娘に斬られて、最期を迎えるとは。それとも、上手く不意でも突いたのか?」

 嘲りを含んだその言葉に反論は出来なかった。
 あの鬼を斬った前後の出来事は、妖夢にとって深く刻まれた記憶であり傷痕である。
 俯いて黙り込む妖夢の反応に、妖怪は更に笑みを深くした。

「まあ、何でもいいさ。とにかく、お前はあの翁を斬ったんだ」
「……だったら、何なんですか?」
「俺と立ち会ってもらいたいのさ。こいつでな」

 妖怪は、右手をこれ見よがしに自分の腰に伸ばした。
 そこに帯びていたのは、一本の刀だった。

「珍しいだろう? 俺も使うんだよ、刀を」

 得意気な宣言に対して、妖夢は何も言えなかった。
 妖怪は刃の向きを逆にして腰に差していた。
 刀を抜く際の手の位置も、足の位置も、構えと呼べるようなものですらない素人のそれだった。
 妖夢は相手の顔を見上げた。
 改めて見れば、頬が紅潮し、僅かに荒い吐息には強い酒の匂いが混ざっている。
 さとりに見放され、これから行くアテもなく、場末の一角を彷徨っていた果てに、酔ったゴロツキに絡まれる――。
 最後の警戒心すら失せて、妖夢は何もかもが億劫になり始めていた。

「あの翁を斬ったお前を、俺が斬る。文字通りの真剣勝負だ。まさか、逃げるなんて言わねぇよな?」

 既に心が冷めた妖夢にとって、それは安っぽい挑発だった。
 しかし、途端に周りがわっと沸いた。
 慌てて周囲を見回してみれば、いつの間にか多種多様な妖怪達が、二人から一定の間隔を空けて円を描くように囲んでいた。

「いいぞ、やれ! 斬り合え!」
「ここじゃ素手の喧嘩ばっかりだからな、刀同士の勝負は見物だぜ!」
「本当に鬼を斬ったんなら、その腕前を見せてみろ!」

 二人の内、どちらに対しても勝手な声援を飛ばしている。
 彼らは別段妖夢の敵というわけではなく、単なる観客として集まっているのだ。
 突然道端で始まったイベントを楽しむ為に。
 それは妖夢が知らない旧都の日常だった。

「さあ、お前もさっさと刀を出せ」

 戸惑う妖夢に、妖怪は促した。
 しかし、その顔には余裕の笑みが変わらず浮かんでいる。
 妖夢が現在、刀を持っていないことを分かっているかのようだった。
 いや、間違いなく分かっていて言っているのだった。
 着の身着のままさとりに連れられ、今日までの生活もずっと住み込みで働いていた妖夢の荷物は少ない。地霊殿から出る際に持ち出した物は、これまで働いた仕事の代価として渡された路銀程度である。
 そして、仮にこの手に刀があったとしても、今の自分はそれを抜くことは出来ないだろう。
 突如、目前に迫った勝負の時を前にして、妖夢が抱いたものは諦めだった。
 どうすればいいだろう?
 このまま黙って、棒立ちのまま斬られるのが一番簡単だろうか。
 それとも『勘弁して下さい』と言って土下座をすれば、周囲の熱も冷めるだろうか。
 そんな妖夢の考えまで読めたわけではないが、既に戦意が萎えている程度のことは、対峙する者にも伝わっていた。
 だからこそ、目の前の妖怪はいい気になって、更に場を盛り上げる為の演出をしようとした。

「貴様! まさか刀を持っていないなどと、剣士の恥のようなことを言うつもりでは――」
「うるせえ」

 突然、妖怪の方が前のめりに倒れた。
 背中で何かが爆発して、吹っ飛んだかのような倒れ方だった。
 地面に勢い良く顔面を打ちつけ、悶絶している。

「くだらねぇお祭り騒ぎしてんじゃねぇ」

 熱狂する空気の中へ、唐突に氷のように冷えた声が割り込んだ。

「だ、誰だ!? オレにこんな真似を……って!!?」

 痛む顔と背中を擦りながら振り返った妖怪の怒声は、振り返った瞬間に凍りついた。
 そこに佇んでいたのは、三本の角を持つ鬼だった。
 場の空気が、一変して張り詰めた。

「誰だって? 俺だよ。俺がおめぇの背中を蹴るってぇ真似をしたんだよ」

 未だに尻餅をついたままの相手に対して、三本角の鬼は淡々と答えた。

「……だ、旦那。いくらアンタでも、他人の勝負事に水は差さないで貰いたいな」

 かつての異変では見たことのない、妖夢の知らない鬼だったが、ここ旧都においては顔と名を知られた存在であるらしい。
 乱入した彼に対して、周囲の者達は先程までの騒ぎを止めて黙り込み、そそくさと立ち去る者もいる。
 蹴られた妖怪が上げる抗議の声も、弱々しく震えていた。

「何が勝負事だ。寝言抜かしてねぇで、さっさと消えろ」
「オレはこれから真剣勝負を……」
「何処で拾ってきたか知らねぇが、使うどころか刀の差し方も分かってねぇ馬鹿が、そこの本物に勝てるわけがねぇだろ。木の枝でも持ってチャンバラごっこでもやってろ、酔っ払い」

 そこでようやく自身の間違いに気付いた妖怪は、酒で赤い顔を更に赤くした。

「なんだよっ……白けるような真似するなよ! こんな小娘があの翁を斬ったなんて与太話がまかり通ってるなんざ、旦那が一番気に入らねぇはずだろ!?」

 鬼は、もう応えなかった。
 無言で拳を振り下ろしていた。
 熱い塊のような拳が、その妖怪の頬を掠めて、地面に突き刺さった。
 轟音と共に衝撃が足元を揺るがし、粉塵が舞い上がった。
 恐るべき鬼の剛力である。

「あひいいい――」

 顔のすぐ傍で起こった爆発に、妖怪は情けない悲鳴をあげた。
 元より、彼を含めたこの場の誰も、鬼に対して本気の口答えを出来るはずがなかった。
 それだけの威厳と地位を、鬼はこの旧都で築き上げている。

「喧嘩は仕舞ぇだ。全員、とっとと散れや」

 誰も逆らえるわけがなかった。
 周囲の野次馬達は、波が引くようにその場を離れていった。
 妖夢にちょっかいを掛けようとした妖怪も力の抜けかけた足でかろうじて立ち上がり、

「その刀は置いてけ。てめぇの玩具じゃねぇ」

 そう言われ、躊躇うこともなく刀を放り出して、逃げ出した。
 喧騒と共に、人気もまた周囲から消え失せていた。
 街道の一角にも関わらず、いまだ冷めぬ鬼の怒りを恐れるかのように、誰もそこを通ろうとしない。
 落ちた刀を拾い上げて無言で佇む三本角の鬼と、呆気にとられた妖夢だけが、その場に残されていた。

「……あの」

 妖夢は恐る恐る口を開いた。

「ありがとう、ございました。助けていただいて……」

 鬼が振り返った。
 妖夢の謝礼を無視するように、無言で見つめていた。
 睨むような眼つきに萎縮して、妖夢は顔を逸らした。

「あの馬鹿の言い草じゃねぇが、おめぇ本当に刀を持ってねぇのか?」

 鬼がおもむろに訊ねてきた。

「翁を斬った刀だ。得物も腕前も並じゃねぇはずだ。そうだろう? お前は、本当にあの鬼を斬ってのけたんだろう?」

 その質問は、答えを確かめるというよりも、何故か縋るような響きを含んでいるように感じられた。
 何故、異変の混乱の中で起きた出来事がここまで周囲に知れ渡っているのか。
 目の前の鬼が、それを確かめてどうするつもりのなのか。
 妖夢には分からないことばかりだったが、それでも唯一の事実を誤魔化すことだけは出来なかった。

「……はい」

 妖夢は答えた。

「貴方の言う翁という鬼は、私が斬りました。斬って、殺しました」

 それを聞いて、三本角の鬼は僅かに俯いた。

「そうか」
「はい」
「やはり、お前が退治したんだな」
「はい、そうです」
「そうか……」

 呟くと同時に、目の前の鬼の体から強張りが抜けていくのが分かった。
 妖夢は意外な気持ちだった。
 これまでの反応や様子からして、目の前の鬼は、自分の斬った鬼と親しい間柄のはずである。
 言わば、自分は仇だ。
 恨み言をぶつけられる程度で済めば軽い方で、最悪襲い掛かってくるかもしれないと、内心身構えていた。
 しかし、彼はただ納得したように一言呟いただけだった。

「……貴方は、その翁という鬼とどういった関係なんですか?」

 妖夢は思わず訊ねていた。

「別に、親父みてぇなもんさ」

 千切って捨てるような、端的な答えが返ってくる。
 しかし、その声色は、本当の父に向けるような親愛だけでなく、師に向ける尊敬や友を懐かしむような感情まで混ざった、複雑な色をしていた。
 妖夢は訊ねたことを後悔した。
 やはり、掛け替えのない相手であったことに変わりはないのだ。
 それを斬ったのは自分だ。
 しかも、尋常の勝負の果てに斬ったのではない。
 魔理沙との勝負が決着した後で、敵を生かして見逃すという彼女の判断を是とせず、横合いから割り込んだのだ。
 あれを他人は何と呼ぶだろう?
 介錯か。
 少なくとも、今の自分は不意打ちと呼ぶ。
 あの時の行動には一切の迷いがなく、鬼を討ったという事実への誇りと、己の実力への自負だけしかなかった。
 だが、今は違う。
 あの時抱いた誇りは傲岸で、自負は自惚れだったとしか思えなかった。
 後悔しかない。
 後ろめたさしかない。

「あの鬼を斬ってしまったのは私です」

 妖夢は自分の罪であるかのように、改めて自身の行いを肯定した。

「ごめんなさい」

 妖夢は頭を下げた。
 その謝罪に何の意味もないことくらい分かっていたが、そうしなければ耐えられなかった。
 しばらくの間、三本角の鬼に対して頭を下げ続けていたが、無防備な後頭部に拳が振り下ろされることはもちろん、罵倒の一つさえなかった。
 妖夢は恐る恐る頭を上げて、相手の表情を伺った。
 三本角の鬼は、妖夢に対して怒っているわけでも、蔑んでいるわけでもなかった。

「やめてくれ、謝るんじゃねぇよ。誇るならまだしも。おめぇが獲った首はその価値すらなかったってのか」

 これほどまでに深く傷ついた表情を、妖夢はかつて見たことがなかった。





 異変に気付いたのは、旧都の喧騒が遠く背中に届かなくなり、更にしばらく進んだ時点でのことだった。
 地霊殿は旧都の中心に位置する場所に建っている。
 しかし、その存在はほぼ孤立していた。
 周辺に地霊殿以外の建物はなく、住人はおろか寄り付く者すらいない。
 一歩踏み込めば活気と騒動が溢れる旧都において、その中心に近づくほどに人気はなくなり、寂れていくのだ。
 裏道を抜けて進み続ける三人の視界には、ここしばらくの間、妖怪一匹、動くもの一つ入ってこなかった。

「クソッ……妙だな。一体、どうなってやがるんだ? 嫌な予感がするぜぇ」

 閑散とした周囲を見回して、赤鬼は舌打ちした。

「何で怨霊を一匹も見かけねぇんだ?」

 疑問を呟きながら、額に浮いた汗を拭った。
 同じように顎から垂れそうな汗を拭いて、橙が顔を上げた。

「どういうこと?」
「怨霊だ。ご主人も、地底には大量の怨霊がいることは知ってるだろ?」
「うん、命に関わることだからね。妖怪は、怨霊に取り憑かれると死んじゃうから」
「その怨霊の大半が蔓延ってるのが地霊殿なんだ。主の古明地さとり本人が怨霊と会話が出来る上、飼ってるペットの中には怨霊を操る能力を持つ者や食っちまう者もいるらしい。つまり、奴が実質的に地底の怨霊を管理し、支配してやがるってわけだ」
「……改めて聞くと、怖い所だね」
「だから、俺を先頭にしてんだろ? 怨霊も鬼にはびびって近づかねぇからな」
「うん。頼りにしてる」
「うるせぇ。――しかし、だ。妙なことに、さっきからその怨霊を全く見かけねぇ。もう地霊殿は間近だってのによ」

 橙は周囲を注意深く見回し、耳を澄ませた。
 それまで別のことに気を取られて周囲の様子に意識を向けていなかったが、改めてこの静けさが不気味に感じられた。

「おまけに、何でこんなに暑いんだ?」
「そう、だよね」

 荒い息を吐きながら、橙は再び汗を拭った。
 明らかに周囲の温度が上がっていた。
 旧都では特に違和感を感じなかったことから顧みると、地底全体の気温が高いわけではないらしい。
 確実に、地霊殿に近づく度に温度が上がっている。
 加熱された空気に、息苦しさすら覚えるほどだった。

「この先に何かあるぞ。すげえ熱を発する何かが」
「ねぇ、地霊殿は元々灼熱地獄跡の上に建てられたって聞いてるけど?」
「ああ、確かにあの灼熱地獄にゃまだかつての火が残ってるが、その管理も地霊殿の仕事のはずだ」
「だから、その管理に異常事態が起こってるんじゃないかな。怨霊のことも含めて」
「……畜生。帰りてぇ」
「駄目」
「分かってるよ、畜生。どうしてこうなった?」

 ふと、橙はここまで会話に全く入ってこないチルノに気がついた。
 内容を理解しているかどうかはともかく、出ずっぱりな彼女が意見の一つも主張しないというのはおかしい。
 橙は前を歩く赤鬼の背中から視線を横へずらし、そして更に横へ横へとずらし続けて、結局背後を振り返ることになった。

「――って、チルノ!?」

 二人からかなり遅れて、不安定な足取りで歩くチルノがいた。
 俯き、両手はだらりとぶら下げている。
 かろうじて正常に動いているのは下半身のみで、上半身はその機能が停止してしまったかのような体勢だった。
 橙が慌てて駆け寄り、今にも倒れそうな体を支えた。

「うっかりしてたよ、チルノは氷の妖精だったね。やっぱり、熱には弱いんだ」
「……ちぇん」
「大丈夫、チルノ? 意識ある?」
「へへ……っ、あたいはサイキョーなのよ。この程度、何でもないわ……」
「いや、汗の量が尋常じゃないよ!?」

 滝のような汗、という表現だけでは足りない。
 チルノの全身は、水を被ったかのように濡れていた。
 これが全て汗だというならば、脱水症状で命の危険を心配しなければならない量だ。妖精に通じる理屈かどうかは分からないが。

「あたいはダイジョーブよ。それに……もう着いたみたいだしね」

 鉛のように重い頭を持ち上げて、チルノは無理矢理笑みを形作った。
 その視線の先には、巨大な屋敷が佇んでいた。
 西洋風のデザインや広大な土地にただ一つだけ孤高に佇む様が、ひしめくように建ち並んで街の形を成していた旧都の家屋群とは、一線を画した存在感を放っている。

「――あれが地霊殿だ」

 赤鬼が、チルノと橙に教えた。
 遠目から見ても、その屋敷の周辺には動くものの姿や気配はない。
 しかし、屋敷の輪郭が歪んで見えるほどの熱が、そこを中心に発生していることも同時に分かった。
 何かが起きている。
 何か、とてつもなく悪くて、危険な何かが――。
 その根拠を探るまでもなく、橙はそう直感した。
 仮にその勘が間違いだったとしても、あんな場所に近づけばチルノの体調は間違いなく悪化する。
 橙の脳裏に『ここから退く』という選択肢が浮かび上がり、

「よっしゃぁ! 待ってなさいよ、お空!!」

 口を開く前に、支えていた腕を振り切って、チルノが飛び出していた。
 弱り果てていた体の何処にそんな力が残っていたのか、地霊殿に向かって真っ直ぐに飛んでいってしまった。
 呆気にとられて見上げる橙の顔に、水滴が降り注いだ。
 チルノの体から飛び散ったものだった。

「……汗じゃない?」

 それは氷水のように冷たい液体だった。

「待って、チルノ」

 また別種の嫌な予感が、橙の脳裏を走り抜けていた。

「待って! 何か……何かが起こってるんだ、あんたの体にも!!」

 橙は全速力でチルノを追いかけた。
 赤鬼も慌ててついてくる。
 結果的に、三人はついに目的地である地霊殿に辿り着いていた。
 十階建てを超える巨大な屋敷の前には、広大な土地を利用した庭園が広がっていた。
 それを見て、橙は紅魔館を連想した。
 毎日手入れの行き届いた花壇や噴水で装飾された紅魔館の方が豪奢さでは勝るが、単純な敷地の広さならば地霊殿の方が勝っている。
 その庭園の中心に、佇んでいる者がいた。
 見覚えのある黒い髪と翼を力なく垂らし、瞳はぼんやりと虚空を眺めている。
 何故だか随分と背丈が大きくなっているが、人相までが変化したわけではない。
 一目で誰なのか分かった。

「お空――!!」

 橙の代わりに、チルノがその少女の名前を呼んだ。
 ようやく会うことの出来た友達の姿に、嬉しそうに笑うチルノ。
 しかし、橙は喜ぶことが出来なかった。
 先程も、名前を呼ぶことさえ躊躇っていた。
 チルノの呼び声に反応して、空の瞳がこちらを向いた。
 捉えられた、と思った。
 そして――拙い、と。

「……あれぇ? チルノ?」

 焦点の合っていなかった瞳がチルノの姿を映し、急速に意識を取り戻す。
 何の感情も浮かんでいなかった空の顔に、ゆっくりと笑みが形作られていった。

「チルノだっ! 橙もいるぅー!」

 二人の姿を認めて、空は嬉しそうに笑った。
 その瞬間、凄まじい熱風がチルノ達を襲った。
 肌を焼く程の熱さだった。
 橙と赤鬼が思わず顔を背け、チルノが苦悶の声を洩らす。

「……おい、何だあいつ?」

 空の無邪気な笑顔を見て、赤鬼は戦慄した。
 おそらく同じ心境である橙に、震える声で訊ねる。

「本当に、あれで間違いねぇのかよ? あれが、お前らの探してた『友達』だってのか? あんな――」

 あの熱風を起こしたのは、間違いなく目の前の空だった。
 状況からして、異常な温度の上昇の原因となっているのも、やはり空だ。

「化け物が」

 橙は答えることが出来なかった。
 鬼が『熱い』と感じるほどの熱風を、彼女はただ意識を向けるだけで発生させたのだ

「アチチ……ッ! こらぁ、お空! 何すんのよ!?」
「あっ、ごめんごめん」

 怒鳴るチルノに対して、頭を掻きながら空が謝る。
 二人のやりとりを眺めながら、橙は強烈な違和感を感じていた。

「まだまだ力が不安定で、上手く扱えないのよね」

 困ったように笑いながら、空が説明する。
 それを、苦悶の表情を浮かべたチルノが睨みつける。
 喧嘩するほど仲が良い――橙がこれまで見てきた限り、二人はそんな関係のはずだった。
 しかし、視界に映る現在の二人の関係が、酷く歪んで見える。
 何故、空は笑っているのだろう?
 一見平気に見えるチルノの態度がただの強がりで、実際は本当に苦しんでいることくらい分かるはずだ。
 冗談で済ませていい状況ではない。
 それなのに、空の謝罪には真剣さがない。大人が子供の癇癪に対してそうするような、上からの目線であしらうような態度だった。
 さとりを助ける為に必死でチルノを頼ってきた、あの時の彼女とはまるで雰囲気が違う。
 今の空には、悪い意味での余裕があるように思えた。
 橙は改めて変わり果てた空の姿を見つめた。
 全身から無意識に発している強烈な熱気は、おそらく彼女の内包する力が溢れ出たものだ。
 もちろん、こんなに強大な力は、以前の彼女には備わっていなかった。
 チルノや自分と同じくらいだった身長は倍以上に伸び、視線は自然と見下ろす形になっている。
 右足には溶けた鉄のような物が纏わりつき、左足には二重の輪が重なって絡み付いていた。
 右腕は今まさに変化の最中であるかのように、皮膚が炭化して罅割れ、内側で溶岩に似た赤い光が脈動していた。
 しかし、最も眼を引くのは、胸の中心で開いた巨大な一つ眼だ。
 両足と右手は、まだ『変化』と呼べるものだった。
 だが、この目玉は違う。
 元々、彼女に無かった物。
 手に入れた物。
 与えられた物。
 あの目玉こそが彼女の変貌の原因であり、本来持ち得るべきではないこの異常な力の源だと橙は察した。

 ――あれは、自分達の知っているお空じゃない。

 空と真正面から向き合うチルノに、橙は警告しようとした。

「チルノ、離れて……っ」

 しかし、絞り出した声は自分でも驚くほど小さかった。
 喉が引き攣っている。
 全身が、恐怖によって竦んでいるのだ。

「なんか、随分と変わったわね。お空」
「うん。実はね、私、神を喰らったんだ」

 空は笑顔で答えた。

「紙? 紙なんて食べてどーすんのよ?」

 見当違いの反応に、空はほんの少し眉を顰めた。

「紙じゃなくて、神様のことだよ。チルノは相変わらず馬鹿だなぁ」

 遠慮のない空の言葉に、チルノは眉間に皺を寄せた。

「なにぃ……?」
「神様の力をね、貰ったんだよ。黒い太陽、八咫烏(やたがらす)様の力。この熱は、偉大な太陽が放つ力のほんの一端に過ぎない」
「へぇ、難しいことは分かんないけど、強くなったってわけね?」
「あははっ、本当に分かってないなぁ。手に入れたのは強さだけじゃない。多くの知恵と、何よりも高みから事象を見通す精神性を手に入れた。私は、新しい世界を開いたんだ!」
「ふーん。まあ、あんたが元気になったんなら何でもいいや」
「……本当に、チルノは馬鹿だなぁ」
「うがーっ! さっきから一体何なのよ!? バカって言う方がバカなのよ、バーカ!」
「違うよ、チルノ」

 空の声は、押し殺したように低く、静かだった。
 浮かんでいた笑みの形が、少しずつ小さくなっていく。

「チルノは、本物の馬鹿だよ」

 憐れむように言った。

「頭が悪いんだ。今の私には良く分かる、チルノの愚かさが。嫌というほど分かる」
「あんた、ケンカ売ってんの!?」
「そういうところが目に付いちゃうようになっちゃったんだよ。目に付いて、嫌になるっていうか、苛立つっていうかさ。以前は気にならなかったのに」
「怒ってるのはあたいの方だぞ!」
「ほら。そういう所がさ、馬鹿だから分かってないんだよ。どうして、そういう態度を取るの?」
「はあ?」
「今の私が、チルノよりもずっと強くて、賢くなったって分かってないんでしょ」

 空は肩を竦めた。

「これまでと同じ接し方をしないで欲しいんだ。私はもうチルノと同じレベルの存在じゃない」

 既に、二人の顔から笑みは消えていた。
 睨みつけるチルノに対して、空も眉を顰めながら見下ろしている。
 橙にはチルノが怒る気持ちが理解出来た。
 傍で聞いていた自分でも、空の言葉の一つ一つが癇に障る。
 最初に違和感を感じた時から、彼女の言動の端々には相手を見下した態度が隠れていたのだ。

「喧嘩なんて成立しないよ。急な変化に慣れないのかもしれないけどさ、これからは実力差を弁えるようにして欲しいんだ。大丈夫、立場が変わっても私達は友達だよ。今度は私がチルノを助けてあげるから」
「……分かったわ、お空」
「うん、よかった」
「一つだけ、あんたのことで分かったわ」
「うん?」
「あんたがね、何か知らないけど、調子こいてるって分かった」
「……は?」
「お空、あたいと勝負だ」

 チルノがスペルカードを突きつけて、言った。

「フランの所へ連れてく前に、まずはあんたをぶっ飛ばすことにした!」
「……チルノ」

 空は、苛立たしげな手つきで髪を掻き上げた。

「あたいと弾幕ごっこで勝負よ!」
「分かってよ、チルノ。今更付き合ってられないんだ。苛々するんだよ、その馬鹿な言動に同調してた昔の自分を思い出すから」
「昔の自分の何がそんなに嫌なのか知らないけど、今のあんたも大して変わっちゃいないわよ」
「私はね、強くなったんだ」
「サイキョーのあたいほどじゃないわ」
「……賢くなったんだ」
「勉強すれば、誰だって賢くなれるわよ。けーねが言ってたわ」
「……神と同じ視点を手に入れたんだ」
「それってそんなに凄いことなの?」

 その一言で、ついに堪えていたものが噴き出したかのように、空の顔付きが変貌した。

「だから私をイラつかせるのをやめろって言ってるんだよチルノォォォッ!!」

 怒号と共に、空を中心に再び熱風が吹き荒れた。
 それは、もはや高熱の竜巻だった。
 赤鬼の巨体が盾となり、かろうじて橙はその場に踏み止まった。
 そして、チルノはスペルカードを片手に竜巻の中心へと飛び込んでいった。

「チルノ!」

 橙の悲痛な呼びかけは、吹き荒ぶ風の音に飲み込まれて、消えた。
 空中で、空とチルノが対峙する。

「いいよ、やってやるよ! 弾幕ごっこで勝負だ、チルノ! そうすれば嫌でも理解するでしょう? 私がもう昔の私とは違うってことをさぁ――!」

 もはやかつての幼い面影など欠片も残っていない、凄まじい形相で叫ぶ空に対して、

「あたいが勝ったら、あたいをバカにしたことを謝ってもらうからね! そんで、フランの所へ一緒に来てもらうわ!」

 チルノはいつものように力強く言い放った。



<元ネタ解説>

・「てめぇで勝手に想像しろ」

本来は「(スーパー)べジータ」に対する説明。
何、超べジータとはどういう意味だと?
知るか。てめぇで勝手に想像しろ。