酒井順子を褒めたくて本書2冊を選んだ。千夜千冊で2冊を掲げて案内するのは初めてだが、そうしたくなる。
2冊は呼応しているが、もともとは『ユーミンの罪』が書かれ、1年後に『オリーブの罠』が上梓された。『ユーミンの罪』のとき、ふーん、やったな、酒井も担当編集者もうまいなと思ったが、これに続く『オリーブの罠』がまるで焼肉の網焼きの目のようにクロス模様となって交差したのには、腕ひしぎ十字固めにかけられたようで、うっうっと唸った。そんな関節技をすらりとこなす酒井はかなりの寝技師だ。
あらかじめ断っておくが、ぼくはユーミンにもオリーブ少女にもまったく無頓着で、彼女らが活躍した20年ほどのあいだ、ほぼ没頓着だった。けれども『ユーミンの罪』という現代新書の表紙の文字ヅラを見たとたん、これはぼくの同時代認識の欠如を補うものだと思えた。それでこの2冊をあえて選んだ。酒井の著書からすればもっと出来のいいものがあるのだが、ついついこれにした。
酒井順子をキーワード的にいうと、博報堂、泉麻人の助手、「オリーブ」専属ライター、鉄道女子(宮脇俊三ファン)、『負け犬の遠吠え』大当たり、ほのエロ主義、日ハム・フリーク、結婚疲労宴ってどう? ないものねだり、女の不況という認識、地震でも独身‥‥というふうになる。
ま、これだけ揃えば、そのエディターシップを応援したくなるのだが、とはいえ、いまさらぼくが肩入れしなくともこの人はリッパに書けている。それもたくさん書いている。売れっ子らしくほとんど文庫化されているが、タイトルを並べるだけでその虚を突いたセンスに、われわれオヤジ(オジン)は目が眩む。
たとえば、『お年頃乙女の開花前線』『丸の内の空腹』『テレビってやつは』『東京少女歳時記』『女の旅じまん』『入れたり出したり』『ほのエロ記』(以上が角川文庫)ときて、『自意識過剰!』『ギャルに小判』『世渡り作法術』『おばさん、未満。』(以上が集英社文庫)と続き、さらに『女体崇拝』『女流阿房列車』(新潮文庫)、『その人、独身?』『いつから、中年?』『女も、不況?』『こんなの、はじめて?』『昔は、よかった?』『もう、忘れたの?』(講談社文庫)などなどと、念を押す。
寝技も文才も自在だが、ことにタイトリングは達人級だ。みんなが知っているコトバを組み合わせているだけなのに、女ならではの魔法になっている。『丸の内の空腹』『おばさん、未満。』はなかでも極上だった。
酒井の本にはあきらかな特徴がある。「女」を「女の耳目」が綴っているということだ。女性エッセイストなら桐島洋子から中野香織まで、読ませるものを書く“つわもの”はいくらでも登場していた。香山リカの刊行量など、群を抜いている。「女」を相手にしている女流だって、林真理子・光野桃から辛酸なめ子・蝶々まで、それなりの激戦区だ。
けれども酒井はそんな女々(じょじょ)めく洪水の中で、みごとに「本の女舟」を次々に漕ぎ出した。それでいて、酒井の属する時代社会の観察に徹して、どの本もぶれなかった。よほど“勘察力”がいいのだろう。
それにしてもこんなに酒井本はあるのだから、もっと峻別して案内したほうがよかったかもしれないが、なのにこの2冊なのだ。やはりユーミンとオリーブを追ったというのが、ぼくのようなユーミン音痴でオリーブ無知には有難いのだ。
一読、世の中、そんなにユーミンとオリーブだったのかということに、あらためて驚いた。そもそもユーミンが「欲しいものは奪い取れ」と言っているとか、ユーミンの歌は当時の女の子たちの「進軍ラッパ」だったということを、知らなかった。こんなメッセージを歌い続けていたのだとしたら、これはたいへんなプロパガンディストだが、ユーミンはそんな気もなく女たちにメッセージを送り続けたのだろう。だからユーミンは罪なのだ。
一方、1982年創刊の「オリーブ」が最初はLA感覚のシティ派女子大生向けだったのが、途中からフランス風の「リセエンヌ」を狙いにした女子高生向けになっていたということも、まったく知らなかった。まして「ワードローブの中に、ひとめ見て大きいとわかるシャツやジャケットなど、男物の服がさりげなくまじっていたら、あなたはもう立派なオリーブ少女」というような触れ込みに、そのころの少女たちが背伸びしながらどぎまぎ胸ときめかせていたなんて、そんな少女時代が学園内外で進捗していたなんて、もっと知らなかった。
そういう時代を、今日のぼくのまわりのオトナ女子たちも大小多寡はあるだろうものの、それなりに通過していたことを、酒井は初めて教えてくれたのだ。きっとユーミンはオイルショックやドルショック後の日本の、オリーブはバブルに向かう地上げ日本の、最もポピュラーな感受性の担い手だったのだろう。だとしたら、ぼくは彼女らのプチロマンチックな冒険と、香ばしい失望をすっかり見逃していたということなのである。
八王子の荒井呉服店に生まれ育ったユーミンこと荒井由美が、レコードデビューしたのは1972年である。田中角栄が首相になった年で、山本リンダの『どうにもとまらない』、小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』、森昌子の『せんせい』、郷ひろみの『男の子女の子』がヒットして、まだ一部のファンしか知らなかったはずだが、池田理代子の『ベルばら』と萩尾望都(621夜)の『ポーの一族』の連載が開始していた。ついでにいえばこれは「遊」創刊の翌年のことだ。
こういうときにユーミンの『ひこうき雲』や『ベルベット・イースター』が登場してきたのだった。ニューミュージックなどと呼ばれもしたはずだ。しかし少々我田に水を引いていえば、この1972年前後には角栄やリンダやユーミンや郷ひろみだけではなく、名付けようのないものが次々に誕生していた。たとえば石牟礼道子(985夜)は『苦海浄土』を発表し、山本耀司はY’sを始めたのだが、その狙いなど誰にもわからなかったのだ。加うるに田中泯も踊りだしていた。ユーミンも「遊」(ゆう)も泯(みん)も、名付けようがない現象だったのだ。
ユーミンは1954年生まれだからぼくより10歳年下である。最近になっても見かけはたいへん若いようだが、檀ふみ・林真理子・大友克洋(800夜)・安倍晋三と同い歳である。ちなみに中島みゆきはユーミンの2歳年上、五輪真弓は3歳年上。もっとも中島みゆきが『アザミ嬢のララバイ』や『時代』などでデビューしたのは70年代後半で、五輪真弓の『少女』は早くにリリースされていたが、世間が聴き始めたのはずっとあとだった。
というわけで、ユーミンのデビューアルバム「ひこうき雲」はニュージャンルの歌をもって70年代をリードした。
60年代後半に身近な仲間たちがフォークに熱中し、70年代はほとんどブリティッシュロックかジャーマンロック、あるいは森進一とちあきなおみにはまっていたぼくにとっては、残念ながらユーミンの歌は鮮烈ではなかったが、本書が証してくれたように、それはぼくのような男たちのためではなかったのである。それでも4番目のアルバム「14番目の月」(1976)までの、『海を見ていた午後』『ルージュの伝言』『中央フリーウェイ』などは、ユーミン音痴のぼくの耳にも付きまとっていた。
「小さいころは神さまがいて/不思議に夢をかなえてくれた」「たまにはひとり どこかへ行きたかった/たまには少し 心配させたかった」「二人して流星になったみたい」「つぎの夜から欠ける満月より/14番目の月がいちばん好き」といった歌詞とメロディのくっつきかたも、ほうほう、この手があったのかと思ったおぼえがある。
言葉が板チョコのカット割りのようになっている。歌詞がソーシャルセンスでつくったおいしいキャンディや綺麗なケーキなのである。おまけに口に入れるとすぐほろ苦く溶ける。それでいて「14番目の月」というような言葉のオシャレも随処に盛ってある。ふんふん、新世代のシンガーソングライターとはこういうものかと思った。
しかし、こんな言い方はぼくの無骨が適当に反応したもので、酒井はこうしたユーミンの感覚に「泡沫感」「助手席感」「湿度を抜いている」といった抜群の形容をもって当てていた。「助手席感」というのはイイ男の助手席にいる女のイメージというものらしい。なるほど、なるほど、そういうことか。まだ女たちが車をぶっ飛ばすには早かった時期だったのだ。女たちがぶっ飛ばすには、山口百恵が真っ赤なポルシェに乗って「馬鹿にしないでよ」と啖呵を切った全盛期までかかるのだ。そこにはユーミンではない阿木燿子の詞が必要だった。
酒井の指摘で感心したのは、7番目のアルバム「悲しいほどお天気」(1979)あたりから、ユーミンは「外は革新、中は保守」をやってのけたというふうに見ていることだった。その意図が「どうしてなの 今日にかぎって/安いサンダルをはいてた」という歌詞にあらわれているとも見た。
エレガントでカッコいいそぶりはする。一応はお嬢さまっぽくもする。できればカルヴィン・トムキンスの『優雅な生活が最高の復讐である』のようにする。そうでないなら茶髪にも金髪にもしてみせる。ところがついつい今日にかぎっては、うっかり安物のサンダルだったのだ。『気ままな朝帰り』の「北風のベンチでキスしながら 心では門限を気にしていた」も似たような気分の歌らしい。
ぼくは女子の諸君がこれほど表面の完璧を装いつつも、それが綻びることを怖れているとは思わなかった。男はユーミンにくらべれば矛盾まるだしの、綻びばかりのドーブツなのである。
ところで「外は革新、中は保守」は、ユーミンだけが向かったコンセプトではなかった。1975年に創刊された光文社の女子大生雑誌「JJ」もめざしていた。
米澤泉(1319夜)の『私に萌える女たち』(講談社)などによると、「JJ」はフランス仕込みの「アンアン」、自立女性路線の「ノンノ」という二人の姉に対して、お嬢さま志向の妹雑誌としてスタートした。それとともに「女性自身」の妹でもあったので「JJ」なのである。むろん本物のお嬢さまではない。ママ譲りのブランド志向やニュートラやハマトラが遊べればよかった。そこもまた「外は革新、中は保守」なのだ。
この「JJ」に対して、「アンアン」の卒業先になったのが「クロワッサン」(1977)で、「アンアン」の妹分になったのが「オリーブ」(1982)だった。酒井は『オリーブの罠』でその変遷を追った。
ちなみに「JJ」を追った対抗雑誌「CanCan」(小学館)や「ViVi」(講談社)などを、雑誌ギョーカイでは「赤文字系」という。いずれも赤い題字だったからだ。ところが「オリーブ」はそこを白ヌキにした。マガジンハウスの多くの雑誌をデザインした堀内誠一(102夜)の図抜けたセンスだった。堀内は早逝したが、「anan」も「BRUTUS」も「POPEYE」も「Olive」もみんな自分で手描きしてみせたのだ。
さて、『ユーミンの罪』にはアルバムごとにチャプターが割ってあって、ひとつずつに時代社会のコンセプチュアル・コピーが付けてある。ユーミンの歌とともに時代社会が手短かにミラーリングされ、巧みにヘッドライン化されているので、ユーミン音痴でも十分に読める。
80年代のヘッドラインなら、こんなふうだ。サーフィンとスキーが急激なブームになっていた8「SURF&SNOW」(1980)は「“つれてって文化”隆盛へ」、10「PEARL PIERCE」(1982)は「ブスと嫉妬の調理法」、12「VOYAGER」(1983)は「女に好かれる女」、ラグビーな男の子の肉体を意識した13「NO SIDE」(1984)は「恋愛格差と上から目線」というふうに。
「ブス・嫉妬・恋愛格差・上から目線」といったキーワードを強めに前面に出し、女ならではのユーミンの”女に好かれる芸風”を、酒井は時代社会を剥ぎ取って解釈してみせたのだ。うまいもんだ。
ユーミンが10枚目のアルバム「PEARL PIERCE」をリリースした1982年、平凡出版(のちのマガジンハウス)が「オリーブ」(Olive)を創刊した。その5年前に創刊していた男子大学生向けマガジン「ポパイ」の女子大生版で、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を受けた“savvy”な感覚を女子大生に向けたものだった。
“savvy”は「~に精通した」という意味で、これを「オリーブ」は「もののわかった子」というふうに設定した。まあまあいい訳だ。ところがサヴィな子というのは何かというと、バレイガールだというのである。ロスの谷間のサンフェルナンド・バレイに住んでいるような子で、日本でいうなら青学・学習院・慶応・上智・成城・立教にいるような女の子、それが「サヴィでバレイな子」だというのだ。いったい何のこと?
こんなマーケティングでは狙いがさっぱりわからない。そこで創刊1年後、泉麻人のオリーブ・コラムに酒井順子が“助手のアシカガ”として起用され、東京の女子大生を「アオガク(青学)系・セイシン(聖心)系・ケーオー(慶応)系・オーツマ(大妻)系・トキワマツ(常盤松)系」というふうにマッピングしてみせた。酒井も勘でマッピングしたと告白しているが、この程度で「なんクリ・サヴィ」ができあがるとは思えない。それに東京の女子大だけでは全国区にならない。
結局、この女子大生シティ感覚路線は当たらなかった。そこで方針を転向することになったのが、その後の「オリーブ」の定番となったリセエンヌ女子高生路線だったようだ。
フランスのリセにいるような女の子を、ニッポン女子も真似っ子しようという路線だ。リセは後期中等教育機関のことで、日本の高校にあたる。3年制の学業コースと2年制の職能コースになっている。
こんな歯が浮くようなことが「オリーブ」の誌面で進行しているとは想像だにしなかったけれど、もともとがおフランスな「アンアン」の妹なら、むしろこちらのほうがぴったりだったのだろう。みごと爆発的に当たったのである。しかしその「オリーブ」も、バブルの渦中になるとまたまた転換し、ナチュラル&カルチャー志向になっていった。
1985年にコキン法が制定された。男女雇用機会均等法だ。そのころ上野千鶴子(875夜)から、「まあセイゴオさんに言う必要はないかもしれないけれど、念のために言っておくと、このコキンの年のことを忘れないでね。女を見る目も変えなさいよ」と言われた。はいはい、むろん従いました。
当時、酒井順子は大学1年だったそうで、漠然と「これからやっと男女が平等なのか。いままで何だったのかな」と思ったらしい。コキン法のせいではないだろうけれど、ユーミンもアルバム「DA・DI・DA」(1985)で「待つ女」を歌った『シンデレラ・エクスプレス』を最後に、だんだん「自立な女」のほうに舵を切っていったようだった。『たとえあなたが去って行っても』では、「捨てられなかった最後の手紙 4月の空に窓を開いて吹雪にした」となり、「自分から溢れるものを生きてみるわ」になっていく。
1987年のアルバム「ダイヤモンドダストが消えぬまに」では、OLたちにも引導を突きつけたのだそうだ。『月曜日のロボット』は「パスを見せて ブザー鳴って 階段おりて/わからないのよ どこに向かってるのか」「カード押して おじぎをして ファックス受けて/いつか愛するあなたとめぐり逢うまで」と迫ったのでありました。うん、これでよくわかった。まさしく、いよいよもっての「女の軍歌」なのである。しかしユーミン自身は結婚して、荒井由美からさっさと松任谷由美になっていった。
こうして世相はあのバブルの狂騒に向かっていく。お金や土地のバブルだけではない。感覚や恋愛もバブル化していった。「ワンレン・ボディコン・ジュリ扇」は女たちの“地上げ”でもあったわけである。
酒井はユーミンの歌も「恋愛のゲーム性」の揶揄に向かったと見た。たしかに当時の女子たちは、合コンをやるごとにアッシー、メッシーたちを従えて、みんながみんな中森明菜チックになっていったのだ。
バブル日本に何がおこったかといえば、勝ち組・負け組がはっきりしてきた。1990年、ユーミンは36歳になっていた。伊丹十三(682夜)は『あげまん』を映画化し、二谷友里恵は郷ひろみと派手な結婚式を挙げて『愛される理由』をベストセラーにした。ドリカムだって『決戦は金曜日』(1992)なのである。女たちの鼻息が荒くなっていた。これではかつてのユーミンの歌は通用しない。
しかしかんたんに勝ち組になれるわけがなかった。そもそも日本中がバブルだったのである。まことにバカバカしい「浮かれ世」だった。トレンディドラマのようなヒロインが次々に生まれるわけがないし、負け組がダメであるはずもない。ところが日本中が勝ち組幻想をもち、何がなんでも負け組になりなくないなどという最悪のポピュラー選択に陥ったのだ。谷村志穂はさっそく『結婚しないかも症候群』を書いた。案の定、バブルはあっけなく潰れ、銀行は一斉に「貸し渋り」になった。それなら恋愛だって「貸し渋り」なのだ。
その後、日本は新格差社会に突入し、小泉劇場が新保守主義や新自由主義を煽れば煽るほど、少数の勝ち組と大多数の負け組の分層がおこっていった。
山田昌弘はそれを「希望格差社会」と名付け、負け組の居直りが事態を歪めていると見た。鈴木謙介はそれを「カーニヴァル化する社会」と名付け、大量の分衆が短時間のカーニヴァルを日々消費しつづけていると指摘した。三浦展はこれらをまとめて「下流社会」の進行と見て、その第2章に「なぜ男は女に負けたのか」とタイトリングした。男たちがニート、フリーター、ヤンキーに後ずさりしていったのだ。
ユーミンはどうしたか。初めてユーチューブでこの時期のアルバム「天国のドア」「DAWN PURPLE」を聴いてみたが、なんとも中途半端だった。
何かに向かっての「脱出」を暗示したいようなのだが、ぼくが聴くかぎりは、どうにも志操がはっきりしない。『SAVE OUR SHIP』では「永遠に漂流する魂だから せめて今は強く抱いて 見えぬ未来を乗り越える/SAVE OUR SHIP/それぞれの光めざし」と歌っているのだが、「それぞれの光をめざす」と言っても「見えぬ未来」では迷うしかないだろう。いや、ユーミンだけではない。かくして日本の船の全体が「失われた10年」後に沈んでいった。
話を佳き日々の女たちに戻すと、「ユーミンの罪」と「オリーブの罠」とは、さて、いったい何だったのか。わかるようで、わからない。わかるのは女子高校生や短大生や女子大生たちが、この罪と罠とを存分におもしろがり、平気で駆け抜けていったということだ。
わからないのは、これほどの綿密でロマンチックな仕掛けも、21世紀に入るとすべてが「ガーリー」で「かわいい」に席巻され、総じてはユーミンもオリーブも、モーニング娘やAKBらの「成長しない少女」の軍門に下ってしまったことだ。なぜ、こんな体たらくになったのか。その理由がどこにあるのかということが、わからない。
酒井は、大意、こう書いている。ひょっとしたらユーミンは救ってくれすぎたのである、と。また、どんなときも「自分だけではない」と思わせてくれすぎたのである、と。なるほど、これがユーミンの罪だったのだ。実際にはユーミンはけっこう「無常」を歌っていたはずなのだが、そのユーミンを受け取る女たちのほうに「熟聴」する力がなかったのだろう。
一方、また、こうも書いている。オリーブ・エディトリアルに通底していたのは「異性のために装わない」ということではなかったのか、と。けれども「オリーブ」終刊後、少女たちは出会い系に走り、ヴァーチャルキャラのコスプレにはまり、結局は大人たちのビジネスに奉仕してしまったのだ。ようするにみんなでモームスしたりAKBすることになったのだ。日本全国津々浦々、異性のためにかわいく争う日本少女時代になってしまったのだ。それにしても、これがオリーブの「罠」だったとは。
ならばぼくとしては、何をか言わんやだ。せめて本格的なオトナ女向けの雑誌が登場してほしいと思うばかりだ。嗚呼、「マリー・クレール」のころが懐かしい。
女性の美しい心と暮しを育てるというコンセプトで、ファッションデザイナー中原淳一によって刊行され、戦後の少女たちの夢を育てた。雑誌『オリーブ』のファンの間で『オリーブ』は「現代版それいゆ」とも言われていた。
2013年にリリースされたアルバム「POP CLASSICO」収録曲
⊕ 『ユーミンの罪』 ⊕
∈ 著者:酒井 順子
∈ 発行者:鈴木 哲
∈ 発行所:株式会社講談社
∈ 装幀者:中島英樹
∈ 印刷所:大日本印刷株式会社
∈ 製本所:株式会社大進堂
⊂ 2013年11月20日発行
⊗目次情報⊗
∈ 1 開けられたパンドラの箱 「ひこうき雲」(1973年)
∈ 2 ダサいから泣かない 「MISSLIM」(1974年)
∈ 3 近過去への郷愁 「COBALT HOUR」(1975年)
∈ 4 女性の自立と助手席と 「14番目の月」(1976年)
∈ 5 恋愛と自己愛のあいだ 「流線型‘80」(1978年)
∈ 6 除湿機能とポップ 「OLIVE」(1979年)
∈ 7 外は革新、中は保守 「悲しいほどお天気」(1979年)
∈ 8 “つれてって文化”隆盛へ 「SURF&SNOW」(1980年)
∈ 9 祭の終わり 「昨晩お会いしましょう」(1981年)
∈ 10 ブスと嫉妬の調理法 「PEARL PIERCE」(1982年)
∈ 11 時を超越したい 「REINCARNATION」(1983年)
∈ 12 女に好かれる女 「VOYAGER」(1983年)
∈ 13 恋愛格差と上から目線 「NO SIDE」(1984年)
∈ 14 負け犬の源流 「DA・DI・DA」(1985年)
∈ 15 1980年代の“軽み” 「ALARM a la mode」(1986年)
∈ 16 結婚という最終目的
「ダイアモンドダストが消えぬまに」(1987年)
∈ 17 恋愛のゲーム化 「Delight Slight Light KISS」(1988年)
∈ 18 欲しいものは奪い取れ 「LOVE WARS」(1989年)
∈ 19 永遠と刹那、聖と俗 「天国のドア」(1990年)
∈ 20 終わりと始まり 「DAWN PURPLE」(1991年)
∈∈ あとがき
⊕ 『オリーブの罠』 ⊕
∈ 著者:酒井 順子
∈ 発行者:鈴木 哲
∈ 発行所:株式会社講談社
∈ 装幀者:中島英樹
∈ 印刷所:大日本印刷株式会社
∈ 製本所:株式会社大進堂
⊂ 2014年11月20日発行
⊗目次情報⊗
∈ 序章 『オリーブ』誕生
∈ 第一章 オリーブ伝説の始まり
∈∈ 1 一九八三年の大転換
∈∈ 2 ターゲットは女子高生
∈ 第二章 リセエンヌ登場
∈∈ 1 オリーブ少女とツッパリ少女
∈∈ 2 リセエンヌ宣言
∈ 第三章 『オリーブ』と格差社会
∈∈ 1 付属校カルチャー
∈∈ 2 八〇年代の格差
∈∈ 3 アイコン、栗尾美恵子さん
∈ 第四章 『オリーブ』とファッション
∈∈ 1 おしゃれ中毒
∈∈ 2 コスプレおめかし
∈ 第五章 オリーブ少女の恋愛能力
∈∈ 1 非モテの源流『アンアン』
∈∈ 2「聖少女」願望
∈∈ 3 オリーブ少女の男女交際
∈ 第六章 オリーブ少女の未来=現在
∈∈ 1 『オリーブ』の教え
∈∈ 2 オリーブ少女の職業観
∈∈ 3 オリーブチルドレン
∈ 終章 オリーブの罠
⊗ 著者略歴 ⊗
酒井順子
エッセイスト。1966年東京都生まれ。立教大学卒業。2004年『負け犬の遠吠え』で講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。『そんなに、変わった?』(講談社)、『泡沫日記』(集英社)、『下に見る人』(角川書店)など著書多数。