雪の夜の話(青空文庫・えあ草紙)
書評サイトの掲示板テーマ「太宰はお好き?」参加書評です。
『ろまん燈籠』で、太宰の陽の面がなんだか好きになってしまい、『文学少女』第一作で触れられていたものを読んでいこうと思って、続けざまに読んでいます。
これも短いお話です。
雪の降ったある日、少女が雪の道を、やや興奮気味に歩いていました。すると、手に持っていたスルメ入りの新聞包を、落としてしまいます。
これは、知り合いから分けてもらったもので、少女が、妊娠中でお腹がすいている兄のお嫁さんにあげようと、ひそかに楽しみにしていた大事なスルメでした。
探しましたが見つからず、がっかりしてしまう少女。
けれどそのかわりに、心揺さぶるような雪景色に出会いました。
少女は、昔兄から聞いた、亡くなった人の目に最後の光景が写し取られていたという、嘘か本当かわからない話を、思い浮かべます。
そして少女は雪景色を目に焼き付けて家に帰り、お嫁さんに、こういいます。
なんだか、泣きたくなるような話ですね。宮沢賢治が得意としているような……。
スルメをお嫁さんにあげようとわくわくしていた少女の心情が簡潔かつ丁寧に書かれていて、少女がスルメをなくしてしまったことが、本当に悲しくなってきます。
また、風景が目の底に映り込むという想像を、信じたいと決めて信じ、せめてそれを持って帰ろうとする少女のけなげな様子に、途方もないやさしさを感じてしまいます。
お嫁さんははじめ、笑いながら対応していたのですが、重ねて少女が言ったあと、
どうして、お嫁さんは、かなしそうな顔をしたのでしょうか。
分かるような気もします。言葉にすれば、あまりにもけなげでやさしい少女の提案に、泣きたくなってしまった、というところでしょうか。でも、言葉にしなくてもいいような気もします。お嫁さんの中にはきっと、言葉以上の強い感情が引き起こされたと思うので……。
追記
何か見落としがあるかもしれない気がして念のため検索しましたが、これが1944年の「少女の友」5月号に掲載されたという短編で、戦時中の食糧難という背景をもっていることを、完全に見落としていました。ますます少女のやさしさが痛いです。
書評サイトの掲示板テーマ「太宰はお好き?」参加書評です。
『ろまん燈籠』で、太宰の陽の面がなんだか好きになってしまい、『文学少女』第一作で触れられていたものを読んでいこうと思って、続けざまに読んでいます。
これも短いお話です。
雪の降ったある日、少女が雪の道を、やや興奮気味に歩いていました。すると、手に持っていたスルメ入りの新聞包を、落としてしまいます。
これは、知り合いから分けてもらったもので、少女が、妊娠中でお腹がすいている兄のお嫁さんにあげようと、ひそかに楽しみにしていた大事なスルメでした。
探しましたが見つからず、がっかりしてしまう少女。
けれどそのかわりに、心揺さぶるような雪景色に出会いました。
少女は、昔兄から聞いた、亡くなった人の目に最後の光景が写し取られていたという、嘘か本当かわからない話を、思い浮かべます。
そして少女は雪景色を目に焼き付けて家に帰り、お嫁さんに、こういいます。
「お嫂さん、あたしの眼を見てよ、あたしの眼の底には、とっても美しい景色が一ぱい写っているのよ」
なんだか、泣きたくなるような話ですね。宮沢賢治が得意としているような……。
スルメをお嫁さんにあげようとわくわくしていた少女の心情が簡潔かつ丁寧に書かれていて、少女がスルメをなくしてしまったことが、本当に悲しくなってきます。
また、風景が目の底に映り込むという想像を、信じたいと決めて信じ、せめてそれを持って帰ろうとする少女のけなげな様子に、途方もないやさしさを感じてしまいます。
お嫁さんははじめ、笑いながら対応していたのですが、重ねて少女が言ったあと、
かなしそうな顔を浮かべました。
どうして、お嫁さんは、かなしそうな顔をしたのでしょうか。
分かるような気もします。言葉にすれば、あまりにもけなげでやさしい少女の提案に、泣きたくなってしまった、というところでしょうか。でも、言葉にしなくてもいいような気もします。お嫁さんの中にはきっと、言葉以上の強い感情が引き起こされたと思うので……。
追記
何か見落としがあるかもしれない気がして念のため検索しましたが、これが1944年の「少女の友」5月号に掲載されたという短編で、戦時中の食糧難という背景をもっていることを、完全に見落としていました。ますます少女のやさしさが痛いです。
ごく短いお話です。
子供のころ、ずっといじめていた女中がいる主人公。彼は、偶然から、その女中・お慶を娶った男と出会う。男は、妻はいつもあなたの噂をしている、今度、妻を連れて挨拶に行くと言う。
これはもう、
けれど、本当に主人公の家に挨拶にやってきたお慶は、主人公を馬鹿にする態度などおくびにもだしません。主人公は家から逃げ出し、あてもなくうろうろしているうちに、影から、夫婦の会話を聞くことになります。そこで主人公に対する陰口、罵詈雑言でもあるのかと思えば、お慶のほうは、本当に感謝している様子。明らかに異常で、する必要がない感謝を、お慶はしています。
『文学少女』シリーズの第一作で、この作品に一瞬だけ触れている場面があり、その登場人物はこれを「美しい風景」「美しい物語」だと表現しました。それが読んだきっかけです。
けれど、どう考えても美しいとは言えない風景を描いた短編なので、びっくりしてしまいました。「美しい風景」「美しい物語」と書かれた部分の文章を、確認してしまったくらいです。
美しい風景を探して、もう一度最初から読み返す。
まず、主人公がお慶にした仕打ちを整理してみる。
1 リンゴの皮をむいている最中、お慶が二度、三度と、手を休めていると「おい」と声をかけて続きを促す。
2 台所で何もせずに立っているお慶に対して、「おい、お慶、日は短いのだぞ」と叱りつけた。
3 お慶を呼びつけ、絵本のなかの数百人にものぼる人々を、はさみで切り抜かせた。
4 汗っかきのお慶がその紙をびしょびしょにしてしまったことに癇癪を起こし、肩を蹴っ飛ばした。
そのほかにも、様々ないじめを主人公は、子供時代に行った様子。この主人公がよく見えるとしたら、可能性としては、
1 主人公の家族がこの主人公よりもはるかに腐っている。
2 お慶は能力が高くないため、横暴な子供(主人公)の相手役としてのみ居場所があった。
3 前後に勤めていた家で、ひどい扱いを受けた。
1と3は、作中で全く描写されないので除外します。
となると、自分の思いつく範囲では、2ということになりますが……。
これを思いついたのは、お慶が絵本を切り抜かされていた場面、
お慶は女中なのに、なぜ、朝から日暮れまで一切の家事をせずに、絵本を切り取っていられるほどの時間の余裕があるんでしょうか? とくに日暮れどきなんて、晩飯時で一番忙しくなりそうなものですが……。
他にも、なぜお慶はリンゴの皮をむくだけで2回も3回も手を止め、休んでいられたのでしょうか。なぜお慶は台所でぼうっとしていられたのでしょうか。
そのあたりの違和感も考えると、主人公の家は大家(たいか)のようですから、お慶は、女中いじめに精を出す厄介で手の付けられない子供(現在の主人公は、家から追い出されている。子供のころから邪魔に思われていた可能性がある)にあてがわれていた女中だったのかなあと。
ここまで妄想してきてぼんやりと感じるのは、お慶だけが、家で唯一、主人公の存在を受け入れていたんじゃないかということ。
大家の中において、
これをそのまま受け取ると、お慶は、リンゴの皮をむいている途中でぼうっと意識を手放してしまう自分を、台所でぼうっとしている自分を、「おい」、「おい」と引き戻してくる主人公の行動は、お慶にとっては不快なものではなかった。親切に感じて……というよりかは、むしろ、横暴な子供が「甘えてきている」ような、かわいらしさを感じていたのではないでしょうか。
主人公つきの女中だったのなら、そのような愛情があってもおかしくはないと思うんです。
そこまでは納得できそうな気もしますが、一番の違和感の原因は、暴力です。
主人公がついに癇癪を起してお慶の肩を蹴る。するとお慶が右頬を覆ってから泣き伏せ、泣きに泣きながら、
ふと思ったのですが、あれって、お慶の嘘泣きだったんじゃないでしょうか?
お慶は嘘泣きを悟られたくなくて、蹴られた肩ではなく、右頬を覆って「泣き伏し」た。肩を子供に蹴られて「泣き伏す」人間はほとんどいないだろうけれど、顔に蹴りが当たったことにして、顔を押さえながら「泣き伏し」、
では、何故嘘泣きをする必要があるかといえば、あの場面、お慶は、横暴を振るわれたことに泣いたのではなく、いつにもましてひどい横暴を振るった主人公を、咎めようとしたんじゃないでしょうか。
主人公が、絵本の切り抜きをさせたのは、一度きりだと書いてあります。たぶん、蹴ったのもその一度きりなんじゃないでしょうか。ふだんから「暴力を振るう」ことはそんなに多くなかった。また、振るっていたとしても、「お慶が泣いて咎めるほどの暴力を振るう」ということはなかったのかもしれません。でなければ、蹴られたお慶が泣いている様子に
主人公の現在の様子を見ると、今も子供のころの傾向をもってはいますが、昔の知り合いにもそれなりに対応しますし、無制限に粗暴なたちではなさそうです。お慶は、「流石にこれはしてはいけない」という一定のラインを示して、主人公を咎めた。それが結果として、あのままいけばどんどんエスカレートしたかもしれない主人公の暴力性に、歯止めをかけたのではないでしょうか。
そして彼女は、現在は厳しい状況にある主人公の可能性を、いまだに信じている。
その言葉を聞いた主人公が涙をぼろぼろとこぼし、「負けた」と思ったのは、ただお慶がとてつもなく寛容な人間だから、というわけではなかったのではないでしょうか。
あの家で、本当に自分を受け入れてくれていたのが、お慶だけだったということに、家を追い出されたいまさらになって気が付いたから。
いじめていた女中が、本当は、子供のころの自分を唯一受け入れてくれていた人だったことに、いまさら、気づいたからだったのでは。
そう思うと、いつもぼうっとしているようでいて、いつもやさしく主人公を包んでいただろうお慶の心根が、とても素敵で、かけがえのないものに感じられて……。
「美しい物語」という前提の解釈ですが、もしこの解釈が許されるなら、私はこの物語を、美しいと思うことができます。
長々と妄想に付き合って下さり、ありがとうございました。
子供のころ、ずっといじめていた女中がいる主人公。彼は、偶然から、その女中・お慶を娶った男と出会う。男は、妻はいつもあなたの噂をしている、今度、妻を連れて挨拶に行くと言う。
これはもう、
落ちぶれてしまった主人公に幸せを見せつけ、嘲笑いに来たかつての女中、そんな構図以外に考えられません。
けれど、本当に主人公の家に挨拶にやってきたお慶は、主人公を馬鹿にする態度などおくびにもだしません。主人公は家から逃げ出し、あてもなくうろうろしているうちに、影から、夫婦の会話を聞くことになります。そこで主人公に対する陰口、罵詈雑言でもあるのかと思えば、お慶のほうは、本当に感謝している様子。明らかに異常で、する必要がない感謝を、お慶はしています。
『文学少女』シリーズの第一作で、この作品に一瞬だけ触れている場面があり、その登場人物はこれを「美しい風景」「美しい物語」だと表現しました。それが読んだきっかけです。
けれど、どう考えても美しいとは言えない風景を描いた短編なので、びっくりしてしまいました。「美しい風景」「美しい物語」と書かれた部分の文章を、確認してしまったくらいです。
美しい風景を探して、もう一度最初から読み返す。
まず、主人公がお慶にした仕打ちを整理してみる。
1 リンゴの皮をむいている最中、お慶が二度、三度と、手を休めていると「おい」と声をかけて続きを促す。
2 台所で何もせずに立っているお慶に対して、「おい、お慶、日は短いのだぞ」と叱りつけた。
3 お慶を呼びつけ、絵本のなかの数百人にものぼる人々を、はさみで切り抜かせた。
朝から昼飯も食わず日暮れごろまでかかって、やっと三十人くらい切り取ったお慶に対し、
4 汗っかきのお慶がその紙をびしょびしょにしてしまったことに癇癪を起こし、肩を蹴っ飛ばした。
そのほかにも、様々ないじめを主人公は、子供時代に行った様子。この主人公がよく見えるとしたら、可能性としては、
1 主人公の家族がこの主人公よりもはるかに腐っている。
2 お慶は能力が高くないため、横暴な子供(主人公)の相手役としてのみ居場所があった。
3 前後に勤めていた家で、ひどい扱いを受けた。
1と3は、作中で全く描写されないので除外します。
となると、自分の思いつく範囲では、2ということになりますが……。
これを思いついたのは、お慶が絵本を切り抜かされていた場面、
朝から昼飯も食わず日暮れごろまでかかってという文章からです。
お慶は女中なのに、なぜ、朝から日暮れまで一切の家事をせずに、絵本を切り取っていられるほどの時間の余裕があるんでしょうか? とくに日暮れどきなんて、晩飯時で一番忙しくなりそうなものですが……。
他にも、なぜお慶はリンゴの皮をむくだけで2回も3回も手を止め、休んでいられたのでしょうか。なぜお慶は台所でぼうっとしていられたのでしょうか。
そのあたりの違和感も考えると、主人公の家は大家(たいか)のようですから、お慶は、女中いじめに精を出す厄介で手の付けられない子供(現在の主人公は、家から追い出されている。子供のころから邪魔に思われていた可能性がある)にあてがわれていた女中だったのかなあと。
ここまで妄想してきてぼんやりと感じるのは、お慶だけが、家で唯一、主人公の存在を受け入れていたんじゃないかということ。
大家の中において、
「あの方は、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった。」=主人公は変わっていた、家に受け入れられていなかった、他の人は、目下のものになど目もくれなかった。
これをそのまま受け取ると、お慶は、リンゴの皮をむいている途中でぼうっと意識を手放してしまう自分を、台所でぼうっとしている自分を、「おい」、「おい」と引き戻してくる主人公の行動は、お慶にとっては不快なものではなかった。親切に感じて……というよりかは、むしろ、横暴な子供が「甘えてきている」ような、かわいらしさを感じていたのではないでしょうか。
主人公つきの女中だったのなら、そのような愛情があってもおかしくはないと思うんです。
そこまでは納得できそうな気もしますが、一番の違和感の原因は、暴力です。
主人公がついに癇癪を起してお慶の肩を蹴る。するとお慶が右頬を覆ってから泣き伏せ、泣きに泣きながら、
「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」と言うあの場面。主人公でも
「流石にいやな気持がした」、あの場面です。
ふと思ったのですが、あれって、お慶の嘘泣きだったんじゃないでしょうか?
お慶は嘘泣きを悟られたくなくて、蹴られた肩ではなく、右頬を覆って「泣き伏し」た。肩を子供に蹴られて「泣き伏す」人間はほとんどいないだろうけれど、顔に蹴りが当たったことにして、顔を押さえながら「泣き伏し」、
「親にさえ顔を踏まれたことはない。一生おぼえております」と泣くのならば自然ですから。
では、何故嘘泣きをする必要があるかといえば、あの場面、お慶は、横暴を振るわれたことに泣いたのではなく、いつにもましてひどい横暴を振るった主人公を、咎めようとしたんじゃないでしょうか。
主人公が、絵本の切り抜きをさせたのは、一度きりだと書いてあります。たぶん、蹴ったのもその一度きりなんじゃないでしょうか。ふだんから「暴力を振るう」ことはそんなに多くなかった。また、振るっていたとしても、「お慶が泣いて咎めるほどの暴力を振るう」ということはなかったのかもしれません。でなければ、蹴られたお慶が泣いている様子に
「私は、流石にいやな気持がした」とはならないと思うんですよね。
主人公の現在の様子を見ると、今も子供のころの傾向をもってはいますが、昔の知り合いにもそれなりに対応しますし、無制限に粗暴なたちではなさそうです。お慶は、「流石にこれはしてはいけない」という一定のラインを示して、主人公を咎めた。それが結果として、あのままいけばどんどんエスカレートしたかもしれない主人公の暴力性に、歯止めをかけたのではないでしょうか。
そして彼女は、現在は厳しい状況にある主人公の可能性を、いまだに信じている。
「なかなか」そう言った夫に対して、誇らしげに答えるんです。
「頭の良さそうな方じゃないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ」
「そうですとも、そうですとも」
「あの方は、お小さいときからひとり変って居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すった」
その言葉を聞いた主人公が涙をぼろぼろとこぼし、「負けた」と思ったのは、ただお慶がとてつもなく寛容な人間だから、というわけではなかったのではないでしょうか。
あの家で、本当に自分を受け入れてくれていたのが、お慶だけだったということに、家を追い出されたいまさらになって気が付いたから。
いじめていた女中が、本当は、子供のころの自分を唯一受け入れてくれていた人だったことに、いまさら、気づいたからだったのでは。
そう思うと、いつもぼうっとしているようでいて、いつもやさしく主人公を包んでいただろうお慶の心根が、とても素敵で、かけがえのないものに感じられて……。
「美しい物語」という前提の解釈ですが、もしこの解釈が許されるなら、私はこの物語を、美しいと思うことができます。
長々と妄想に付き合って下さり、ありがとうございました。
私は作品至上主義というほどではないのですが、作家そのものに対する興味があまりなく、太宰治という人についてもよく知りません。にもかかわらず、その代表作の『人間失格』の評判に引きずられて、なんだか読むのが怖い作家だというイメージが子どものころからありました。そのため、数年前にようやく2冊を読んだきりでした。
けれど、掲示板テーマ「太宰はお好き?」でかもめ通信さんにおすすめされたので、おそるおそる読んでみると、抱いていたイメージが、きれいさっぱり吹き飛んでしまいました。
簡単にまとめると、仲の良い五人きょうだいとその家族たちについての話、です。
長男・長女・次男・次女・三男、母・祖父・祖母・女中の紹介が、初めにだいたいされるのですが、そこからしてすでに面白いんです。それぞれの性格がユーモラスに描写されていき、その書き方がなんだか自分には合ったようで、何度も笑いながら読み進めることが出来ました。短編の中に九人もいれば読み分けに苦労しそうなものなのに、まったくそういうことがない。
きょうだい五人はリレー小説を行うのが趣味で、途中からはそのリレー小説と、現実のことが行き来して語られます。
三男が見栄を張ってトップバッターを引き受けいろいろな作品から設定を盗んできてしまうところ、長女がそんな三男の文章を引き継いで読み応えのある恋愛小説にもっていくところ、次男が唐突に知り合いの作家の悪口を混ぜ込んでしまうところ、次女が長女をむやみやたらと持ち上げていながらぜんぜん敬っていそうにないところ、生真面目な長男が説教するような文章になっているところ……。
リレー小説の文章すらも、きょうだいそれぞれの性格が反映された内容になっていて、楽しく読めるんです。
途中で、ラプンツェル(三男がグリム童話から盗ってきた)が魔法使いの老婆に、赤ん坊を産んだあと、醜い顔になっても生き長らえるか、それとも美しいままで死ぬかという選択を迫られる場面があります。
性格もいいがその中心には美しさがある(と、少なくとも妻は思っている)状態で、夫にとても深い愛情を向けられてきた妻が、子を持つこと、
読者は、そんな普遍性を感じ取り、老婆の言うとおりにラプンツェルが醜い顔になったあとのことが気になってどきどきしています。
ですが、長男は、どうしても醜くなったラプンツェルを書けずに、その流れをぶった切ってしまう。隠し切れない性格が出てしまっています。才能はないかもしれないけど、あの長男なら、これでいいんですよね。
この入江一家が
魅力的なキャラクターがたくさん登場するこの小説、未読の方はぜひ手に取ってみてください。
リンク
・ろまん燈籠 (えあ草紙)
けれど、掲示板テーマ「太宰はお好き?」でかもめ通信さんにおすすめされたので、おそるおそる読んでみると、抱いていたイメージが、きれいさっぱり吹き飛んでしまいました。
簡単にまとめると、仲の良い五人きょうだいとその家族たちについての話、です。
長男・長女・次男・次女・三男、母・祖父・祖母・女中の紹介が、初めにだいたいされるのですが、そこからしてすでに面白いんです。それぞれの性格がユーモラスに描写されていき、その書き方がなんだか自分には合ったようで、何度も笑いながら読み進めることが出来ました。短編の中に九人もいれば読み分けに苦労しそうなものなのに、まったくそういうことがない。
きょうだい五人はリレー小説を行うのが趣味で、途中からはそのリレー小説と、現実のことが行き来して語られます。
三男が見栄を張ってトップバッターを引き受けいろいろな作品から設定を盗んできてしまうところ、長女がそんな三男の文章を引き継いで読み応えのある恋愛小説にもっていくところ、次男が唐突に知り合いの作家の悪口を混ぜ込んでしまうところ、次女が長女をむやみやたらと持ち上げていながらぜんぜん敬っていそうにないところ、生真面目な長男が説教するような文章になっているところ……。
リレー小説の文章すらも、きょうだいそれぞれの性格が反映された内容になっていて、楽しく読めるんです。
途中で、ラプンツェル(三男がグリム童話から盗ってきた)が魔法使いの老婆に、赤ん坊を産んだあと、醜い顔になっても生き長らえるか、それとも美しいままで死ぬかという選択を迫られる場面があります。
お前は、もう赤ちゃんを産んだのだよ。お母ちゃんになったのだよ。
性格もいいがその中心には美しさがある(と、少なくとも妻は思っている)状態で、夫にとても深い愛情を向けられてきた妻が、子を持つこと、
お母ちゃんになるということへの恐怖というのは、普遍性がありそうですね。
読者は、そんな普遍性を感じ取り、老婆の言うとおりにラプンツェルが醜い顔になったあとのことが気になってどきどきしています。
ですが、長男は、どうしても醜くなったラプンツェルを書けずに、その流れをぶった切ってしまう。隠し切れない性格が出てしまっています。才能はないかもしれないけど、あの長男なら、これでいいんですよね。
この入江一家が
以前にくらべて、いささか暗くなっているようであるという文章が途中にあったので、この空気は失われてしまったものなのかと思うと、少し寂しいですね。
魅力的なキャラクターがたくさん登場するこの小説、未読の方はぜひ手に取ってみてください。
リンク
・ろまん燈籠 (えあ草紙)
絆されない自由と、絆されない孤独
電子辞書の広辞苑第5版をひくと、絆という言葉の第一の意味は、『馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱』となっています。
そうした絆を徹底して拒絶し、けっして絆(ほだ)されないのが、この物語の主人公のクヌルプです。
この話は三つの章に分かれていて、「早春」では、いっときある街に滞在する美しい青年・クヌルプが、どういう人間なのか書かれています。
「クヌルプの思い出」では、いっときクヌルプの友人だった「私」から見たクヌルプが、決してつなぎとめておけない存在として書かれています。
「最期」でもやはり、いっときクヌルプの世話をすることになった、かつての同級生とのかかわりから、クヌルプに訪れる最期までが書かれています。
いっとき、なんですよね。明日が自由でないことに我慢が出来ず、しっかりと生活を持つ人々のあいだを行き来して、息継ぎでもするかのようにふらりと立ち寄っては厚意にあずかり、誰の綱にもつながれずにまた別の場所を目指していく。誰も彼をつなぎとめておくことが出来ない。
ただ、そのような、絆に縛りつけられない生き方は、孤独であることと、おもて裏の関係です。「クヌルプの思い出」では、まだ若いクヌルプが、すでに孤独について深く考えている様子が描かれています。
クルヌプはそこで、人間の魂を花にたとえ、それぞれ根を張った花同士が、話したり寄り添っていたりすることはできるけれど、根を引き抜いてまで近づくことはできないと語ります。本当は、誰もが、誰にも縛られていない。また、誰もが、誰と一緒に居ようと、孤独な部分をもっている。
クヌルプの最期には、孤独が待ち受けています。
死を悟り郷里に戻ってきたものの、そこに自分の居場所はすでにない。それでも名残惜しく、病に侵された体で、郷里の周辺をぐるぐると歩き回る。
クヌルプのその様子を読んでいると、クヌルプほど詩的、物語的でなくとも、田舎のしがらみに辟易して都会へ出て、幾十年と都会に住み、病気になって郷里が恋しくなり、クヌルプと似たようなことを実行したり、似たような寄る辺なさを感じたりする方も、いらっしゃるんじゃないかなあと想像させられました。
絆というのはあれば厄介、なければないで、少し寂しい。
どういった生き方を選ぶのが正しいか、それは誰にもわかりません。ですが、こういう生き方もあるよと示してくれたクヌルプが、長年の間、想像上で、実際上で、あらゆる人々の支えになってきたことは、疑いようもありません。
ヘッセ感想一覧
『クヌルプ』は、本が好きで一時期話題になっていたので、手に取ってみました。他の方々の先行書評も、ぜひ読んでみてください。
タイトル買い。
2000年代に大ヒットしたライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』のハルヒは、自分がいてほしいと願った「未来人、超能力者、宇宙人」を、その超常的能力(本人は無自覚)で同じクラスにかき集めてしまうようなヒロインです。
そのことから、ハルヒのいない(=普通の人しかいない)教室で繰り広げられる、青春ライトノベル……みたいな想像をしてました。
実際は、アニメの脚本家や人気声優と出会った主人公が、そういった人たちとかかわっていく様子が描かれます。周りの人がいわゆる「普通」ではないので、タイトルはあんまり合ってないですね。
この作品はたぶん、開始時点ではそこまで親しい友達のいない高校生の主人公が、(男登場人物にサブヒロインを「とられる」状況をなくしたうえで)ヒロインやサブヒロインたちといろいろ喋ったり遊んだりするという、最近のライトノベルの定型通りに作られています。
型通りで、ライトノベル独特の文体も薄めで、特におかしなところもなく、読むに堪えない作品ではないです。ただ、どうという展開もなく、特に目新しい要素もないため、ひたすら会話を読んでいるだけになり、これを読むなら素直に、型通りでヒットしている作品を読んだ方がよかったなと思わされました。
『ハルヒ』と同じ角川スニーカー文庫で、いろんな作品も実名で登場するので、あえてジャンル分けするなら販促ライトノベル。
私みたいにタイトルにつられて読む人もいると思うので、悪意をもって表現すれば、「『ハルヒ』の最後の一滴まで絞り尽くそう!」って感じですね。
最近小説がうまく読めなくなっていたので、何の感情の動きももたらさず、面白くもなく、極端につまらなくもなく、淡々と読み切るのにはちょうどいい作品でした。同じような状態の方にはおすすめできそうです。
『ゲド戦記』の著者によるエッセイ集。ファンタジー小説は子供が読むもの、そんな偏見をときほぐす。
hackerさんが書かれた『一九八四年』『すばらしい新世界』の書評を読んでいると、本文の引用として
反旗を翻す気が毛ほども無ければ、現行とは異なる別個の世界が有るという事実を把握する力もないのだ(『一九八四年』)という言葉が出てきました。
この『ファンタジーと言葉』の中でも、無力感や諦め、少数の支配者に対して圧倒的多数を占める被支配者が「反抗」はできても「反乱」できないのはなぜか、ということについて考察されています。私もきっと、身の危険が徐々に迫ってきていても、「反乱」はせず、その現実に従属してしまうだろうという予感があります。それは、どうしてなのでしょうか。
著者は、「終わりのない戦い」において、
何世紀もの間、劣位のステータスに置かれているほとんどの人々は、自分の知っている以外の社会秩序のあり方が存在した、あるいは存在しうる――つまり、それを変えることが出来る――ことを知るチャンスが全くなかった。(231ページ)
わたしたちが注意深く、静かにして、ボートを揺らさないようにするのには十分な理由がある。たくさんの平安と安寧がかかっているのだ。不公平の否定から不公平の自覚へと向かう精神的、倫理的移行は、しばしば非常に大きな犠牲を伴う。わたしの満足、安定、安全、個人的愛着などが、みんなにとっての善という夢、わたしの限られた命では共有できないかもしれない自由の概念、だれも達成できないかもしれない公平さという理想のために犠牲になるかもしれないのだから。(236ページ)と書き、端的に、私たちが「反乱」しにくい理由を示しています。
ここまで読み、どこが『ファンタジーと言葉』なのか疑問に持たれた方もいるかもしれません。けれどここにしっかりとファンタジー小説を絡めてきます。
イギリスやアメリカの文学史において長年、ファンタジー小説が「子供向けのもの」として無視されてきたと感じている著者は、容易に「反乱」できない現実に対する処方箋として、
想像力の生み出した物語(243ページ)を提示します。
わたしにとって大切なのは、何か具体的な改善策を提供することではなく、想像上のものではあっても十分説得力のある、もう一つの可能な現実を提供することによって、わたしの心を、ひいては読者の心を、怠惰で小心な思考回路から解き放ち、わたしたちの今の生き方が唯一可能な生き方だと考えるのをやめさせることなのである。(241ページ)
もしわたしたちが公平さというものを想像できないとしたら、わたしたち自身の抱えている不公平さを知ることはできないだろう。わたしたちが自由を想像しないなら、自由にはならないだろう。公平さと自由が獲得できると想像するチャンスのなかった人間に、公平さと自由を獲得しろと要求することはできない。(243ページ)
そして
アウシュビッツで一年を過ごし(243ページ)たプリーモ・レーヴィの言葉を最後に引用して、この章を締めくくっています。
「ラーゲルだけでなく、すべての人間社会で、特権がさらに特権を得る事には、不安をおぼえざるを得ないが、それは避け難くもある。そうしたことがないのはユートピアだけだ。ふさわしくない特権に戦いを挑むのは、正しい人間の任務だが、それが終わりのない戦いであることは忘れてはならない」(244ページ)
エッセイはこの章だけではないので、他にも、さまざまなことについての考えが述べられています。
ヴァージニア・ウルフが友人との手紙のやりとりで遺した言葉に対する激しい共感。マーク・トゥエインの作品への愛情と批判。インターネットという無責任で新しい電子的文書は、それ自身の美学と倫理を確立すべきだという提言。E・O・ウィルソンの遺伝決定論に対する論理的な反論。どうせ絶対の客観性は誰も持ちえないのだからと最初から諦め、客観的であろうとすることすらやめてしまう、近年のノンフィクションに対する苦言。
引用文が多くなってしまいましたが、こういった、「子供向け」で「現実逃避の得意」なファンタジー作家「らしくない」、随所に光る著者の洞察が、現実をもとに新しい世界を創りだすファンタジー小説の本質を、自然と物語っています。
原題:THE WAVE IN THE MIND(ヴァージニア・ウルフの言葉からとられたタイトル)
青木由紀子(訳) 334ページ 2400円+税 岩波書店
初版 2006年5月
わたしは第二次世界大戦から戻ってきたとき、ダンおじさんに背中をたたかれて、こう言われた。「おまえもこれでようやく男になったな」 わたしはおじさんを殺した。実際に殺したわけじゃないが、殺したい、と確かに思った。
(139ページ)
『タイタンの妖女』などの著作をもつ作家、カート・ヴォネガットが、82歳で刊行したエッセイ。亡くなる2年前に出されたこの本が、最後の作品だそうです。
著者はドイツ系アメリカ人で、2005年にベストセラーになったというこの本には、イラク戦争をはじめとした諸々についてのユーモラスかつ、痛烈な皮肉が満載されています。
序盤はジョークやニコチン依存症の自分のことについて語ったり、昔話とシェイクスピアの比較をしたり、ユーモアの強い文章がおどります。
しかし、
さあ、そろそろ楽しい話をしよう
という言葉で始まる58ページから、ユーモアを残しつつも、一気にブッシュ批判の色が強くなります。いまのアメリカは火星人に乗っ取られている、いや、乗っ取られていたならいいのになあ、などと比喩的につぶやいたと思えば、『ニューヨーク・タイムズ』紙を、大量破壊兵器があると断じた新聞として怒る、ブッシュやその取り巻きは良心が欠如した人間だとなじる。
こんな文章を書いたり、
貧乏人はどこかで間違いを犯している。そうでなければ、貧乏になるはずがない。したがって、貧乏人の子どもはそのつけを払わなくてはならない。
その通りだ。
アメリカ合衆国は国民の面倒をみる必要はない。
その通りだ。
自由競争がそれをやってくれる。
その通りだ。
自由競争に任せておけば、すべては必然的に正しい方向に進む。
その通りだ。
(92~93ページ)
質問に答える形式でこんな文章を書いたり。
(前略)
しかし、イラクの脅威はそんなものとは比べものにならないくらい大きいといえます。われわれはなんの手出しもせず、幼い子どものようにおびえて、ただ待つしかないのでしょうか?
返事。
では、われわれすべてのために、ショットガンを買って――できれば12口径の二連式(ダブルバレル)がいい――隣の家に飛びこんで、その家の人たち(警官を除く)の頭を吹き飛ばしてください。みんな、武装しているかもしれないのですから。
(118ページ)
こうした、晩年になってなお衰えない批判精神が、『国のない男』というタイトルに現れているんでしょうね。
行きつく先はろくでもない場所だとわかっている、わかっているけど誰にも止められない、誰も降車を許可されない。
ジョージ・バーナード・ショーの言葉
月に人間がいるかどうかは知らないが、もしいるとしたら、彼らは地球を精神病院代わりに使ってるんだろうなを引用するなど、徹底した人間への不信をあらわにしているのに、なぜかどこかに諦めていない様子を感じ取れます。
じぶんだけで面白いことをしつくして 人生が砂っ原だなんていふにせ教師(宮沢賢治/サキノハカといふ黒い花といっしょに)になる手前できちんと立ち止まっているような、不思議なさじ加減の文章たちでした。
異国の生活にわけいってゆく詩集
解釈は一筋縄ではいかず、難しいです。特に一周目は、抽象的でわからない部分も多いのですが、ひとまずはわからないことを楽しもうと割り切って読みました。
割り切って読み、最後まで辿り着くと、アジアを中心とした異国の雑踏の高揚と、生活の倦怠感が全体を覆っている様子がぼんやり掴めてきます。そのことを踏まえてまた最初から読み直せば、おぼろげながらも、それぞれの詩の意味が捉えられ始める気がします。
砂糖きびを売る男、ブドウ畑を歩く裸の男、橋の欄干を背に座っている老人、天秤棒を使って荷を担いでいく人、水を使ってアスファルトに字を書く人。
切り取られた風景の中に、ぽつりぽつりと人が映り込む。そこにはただ「砂糖黍を売る男」としか書かれていていないのに、その人の周りにある物やその人を包む空気、視点者の感慨をごく短く文章でつづることで、あざやかに、その風景を読者の目の前に引き出してみせてくれます。
でも、そうやって引き出されたものは、
じぶんにないものが出てくることはない(「銅版画」)とあるように、きっと読者によって違っているはずで、そして同じ「じぶん」でも、いつ、どういったときに、どんな体験を経た後に読むかによっても、違っているはずで……。それを他の分野よりも色濃く出せるところが、詩の、面白いところなのかもしれないですね。
とりあえずいまの時点で気に入ったフレーズがいくつかあるので、最後にちょっとずつ抜き出してみます。
1段目「泥の男」より、2段目「聖家族」より、3段目「それは消える字」より、4・5段目「麗江(リージャン)」よりそれぞれ抜粋。
泥に頭をなぐられ
伏せている男が
薄目をあけてわたしを見た
腕いちめんの入れ墨
引きちぎれた心
どうしろと言うのだ
……
知っているもので
はじめられない
人は
自分でもわからなくなって
蜘蛛もあしなが蜂もしない錯綜を形成し
それを成長させる
……
望みは
思い現れること
消え 没することのうちにあるのか
……
何ということか
母はひと握りの
灰になられた
……
母に浮き草の白い花を見せてあげる
この花は食べられるのよ
甥のロジャーにそそがれるカーソンの優しいまなざしから、この本は始まります。読者はカーソンに連れられて、ロジャーといっしょに、海へ、森へ。そこに描き出される自然の風景は、同じ光景を見たことはないはずなのに、なぜか懐かしさをもって迫ってきます。
懐かしさを感じる理由は、きっと、そういった自然に触れて芽生えた感情が、幼い頃からあまり更新されていないからなんでしょうね。ふだんの生活の中で、美しい星空に見入ったり、虫たちの鳴き声に耳を澄ませたりするようなことはほとんどありません。暗くなったらカーテンを閉めて電気をつけ、虫の鳴き声はただのノイズとして処理してしまいます。
これを読んでいる最中にふとよぎったのは、ここにカーソンが描いた世界が、同じくカーソンが著した『沈黙の春』において、容赦なく破壊されている情景です。
リスのクリスマスツリーや、小さな音楽家たちや、月を横切る渡り鳥や、そういったものがすべて消え去った世界、むしろそちらのほうが想像しやすいと気づいたとき、何とも言えない気持ちになりました。
ただ、今もまだ破壊は続いているけれど、カーソンが記した『沈黙の春』がひとつのきっかけとなり、際限のない破壊にはそれなりの歯止めがかかったと信じたいですね。病に侵されながら書き上げた『沈黙の春』でカーソンが守ろうとしたのは、『センス・オブ・ワンダー』に描かれている風景だったのではないでしょうか。
短い本ですが、木々に囲まれたときのにおいや潮のにおい、自分の体験と照らしあわせながら読んで、とても楽しい時間を過ごせました。読めてよかったです。
懐かしさを感じる理由は、きっと、そういった自然に触れて芽生えた感情が、幼い頃からあまり更新されていないからなんでしょうね。ふだんの生活の中で、美しい星空に見入ったり、虫たちの鳴き声に耳を澄ませたりするようなことはほとんどありません。暗くなったらカーテンを閉めて電気をつけ、虫の鳴き声はただのノイズとして処理してしまいます。
これを読んでいる最中にふとよぎったのは、ここにカーソンが描いた世界が、同じくカーソンが著した『沈黙の春』において、容赦なく破壊されている情景です。
リスのクリスマスツリーや、小さな音楽家たちや、月を横切る渡り鳥や、そういったものがすべて消え去った世界、むしろそちらのほうが想像しやすいと気づいたとき、何とも言えない気持ちになりました。
ただ、今もまだ破壊は続いているけれど、カーソンが記した『沈黙の春』がひとつのきっかけとなり、際限のない破壊にはそれなりの歯止めがかかったと信じたいですね。病に侵されながら書き上げた『沈黙の春』でカーソンが守ろうとしたのは、『センス・オブ・ワンダー』に描かれている風景だったのではないでしょうか。
短い本ですが、木々に囲まれたときのにおいや潮のにおい、自分の体験と照らしあわせながら読んで、とても楽しい時間を過ごせました。読めてよかったです。
| 沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 上(集英社文庫) (2011/07/20) 佐野 眞一 |
タイトルと写真に引きつけられ、沖縄戦や基地問題の被害者としての、大文字の、聖者化された沖縄でなく、小文字の、現実にある沖縄を描き出すというコンセプトが気になって手に取ってみました。
この上巻は戦後沖縄の暗部が中心に描かれています。小文字の、とある通り、歴史の上辺を見ていくのではなく、それぞれの立場にある、戦後沖縄を生き抜いてきた人々に取材を行い、そこから浮かび上がってきた各人各様の生き様にまつわるキーワードを語る。そういう構成です。
米軍の物資を盗んで横流しする「戦果アギャー」、混乱の中で生まれた沖縄裏社会と独特の経済、琉球出兵以来日本人に差別されてきた沖縄人による、奄美出身者への差別など、上巻の大部分は血なまぐさいことに踏み込んで書いてあります。話に出てくる人物には、道を引き返してでもすれ違うのを避けたい人たちも多いのですが、著者には卓越した取材能力があるようで、どんな人が相手でも平然と話をしているように見えます。そう言った意味で、おそらくこれは、著者にしか書けなかった本です。
私は基本的に暴力の世界とは縁遠い……というか、暴力に接する場合はおそらく徹頭徹尾振るわれる側の人間です。尼崎の事件など暴力が絡む事件はなるべく情報を入れないようにしているくらいです。小説で読む分には作り事と割り切って読むから楽しめますが、実際にあったことだと思うと、著者のようにそれらの人生を「痛快な」「気持ちのいい」とはさすがに思えません。こんな世界が実際に戦中や戦後すぐにはあったのだと思うと、恐ろしい気持ちになります。
けれど現在の倫理観に沿わない行為を声高に批判するでもなく肯定するでもなく、取材した内容をまるでエンターテイメント作品のように描出する著者の手法によって、沖縄にまつわるさまざまなことに、身構えず思いを巡らせるきっかけになる本だと思います。
ところどころで見せる大仰な語り口には何度も違和感を覚えましたし、やっぱりこういう裏の話は怖くて苦手なんですが……。