続くワンフレーズが浮かんでこない。
小さな広告代理店の仕事を辞めるか辞めないかで悩んでいる若い主人公が、故郷の海を前にして呟くフレーズ……。
気の利いたセリフを考え続けること、三時間半。
そのシーンに広がる、朧な水平線に言葉が逃げていくようで、まったく出てこない。
今日はもう切り上げるか?
いわゆるプラトー状態でとぐろを巻いていても仕方がないじゃないか。
こんな時は、まずは塩気の効いたアンチョビ添えマッシュルームの石窯グリルと、喉ごしのいい生ビールだ。
と、鎌倉雪ノ下の仕事場から飛び出して、小町の蟻塚のような路地奥、馴染みの店にやってきた。
クルベル・キャン。
「酒蔵の妖精」を意味する名前の、レストランバー。
その扉を開けるたびにピートの香りを覚えて体の細胞がリラックスするが、年季の入り始めたL字のカウンターの一番端に席を取れば、艶のいいゼブラウッドのカウンターにさらに肘がしっくりくる。
抑えぎみの温かな照明に、大小様々、林立するウイスキーボトルのきらめき。
ラベルには髭の爺さんが笑い、白い馬が疾駆し、ジョーカーが魔法をかけ、蒸留所が霧に隠れる。
徹底的に磨き抜かれたグラスの反射に目を細めると、オーナーの秋山氏がイケメンのエクボを作って、「原稿、終わりました?」と、灰皿とおしぼりを丁寧に置いてくれる。
カクテル・コンペティションで数々の賞を受けているオーナーは、四十歳手前だが、きっちり着こなしたブラックスーツにネクタイ、バーテンダー協会のバッジを胸元に光らせる落ち着きのある男だ。
カウンターの奥には、やはりコンペティショングランプリまで受賞している馬場氏が、蝶ネクタイを締めた騎士然とした風貌を笑みで煙らせながら、グラスを磨いている。
「まだだよ。ほんの一行が出てこない。何をやってんだか、俺は……」
さっそくの私のオーダーに厨房のシェフが顔を覗かせた。
若きキリストを想起させるシェフは、やはり求道的なのか黙々と絶品のイタリアンを作り上げる。
日ごとの鮮魚のカルパッチョ、鶏レバーのクロスティーニ、ミラノ風カツレツ、牛ホホ肉の赤ワイン煮込み、生ハムとルッコラのピザ、ポルチーニ茸のリゾット……。
その工夫や味へのこだわりはアルチザンでもあって、上質なお酒とともに、このイタリアンを食するために、はるばる遠方から鎌倉の路地奥二階にある、隠れ家的バーを探し当てて来る者も多い。
カウンターの端から店内を見回すと、大きなガラス窓横のテーブル席に三十代くらいのカップル。
その後ろのテーブルにはよく映画やテレビにも出てくる男性人気俳優。
お忍びか、若い可愛らしい女性と小動岬での磯釣りについての話をしている。
入口近くの大きなテーブルには、地元の元ワル、今は好々爺の三人組が楽しそうに笑っていた。
対極のカウンター端には、地元鎌倉で有名な煎餅屋さん・壱番屋の御主人の沼ちゃんが静かな横顔を見せて、ストーン・キャッスルを飲んでいる。
アンチョビ添えマッシュルーム。
目の前に差し出された、白い大皿上の六個の茸。見ただけで耳の根もとが痛くなるほど、唾液が出るのだ。
これを見るたびに、高級カジノのコインを思い出す。アンチョビオイルの染みこんだ熱々のマッシュルームにナイフを入れれば、大小の脂の輪が金色に反射しながら皿に遊ぶ。
即座に口の中に。
茸から染み出たオイルと清新な土の香りが広がり、さらに耳もとが痛くなる。
そこにアンチョビの発酵のコクがからむのだ。
さあ、何を賭ける。
マッシュルームコインを一口やるたびに、私の中でカジノが始まる。
いい一行が浮かんでくるか。
講演料百万円の仕事の依頼が電話で入るか。
それとも、超美女がやってくるか……。
……来た。
クルベル・キャンの扉を開けて入ってきた女性の一人客。
CAか、それとも女子アナとか?
髪をぴっちりとまとめて、睫毛の影と横顔のラインがじつに上品である。
私はビールから、少しだけソーダで割ったストラスアイラを頼む。
二十代後半の女性はカウンターにしなやかに座って、凛と背筋を伸ばすものだから、ついでに胸のふくよかなラインも露わになって、じつにいい。
「オフィーリアを……」
秋山オーナー、カクテル・コンペティション金賞の、レモンフレーバード・ウォッカベースのオリジナルカクテル。
趣味がいいじゃないか。
アルコールも手伝って、こちらも、いい歳をしてアバンチュールの妄想がふくらむというものだ。
「お一人ですか?」
「よくいらっしゃる?」
「今流れている曲は、タック&パティですよね」……。
次のマッシュルーム・カジノコインで何を賭けるか、と思っていたら、もう一人客が入ってきた。
薄墨色の作務衣に坊主頭の四十代前半の男。
明らかに、地元鎌倉の禅寺にいる坊さんだろう。
しかも、年齢からして、寺では修行僧たちのリーダー役をやる首座あたりと見た。
その僧が、「ここ、いいかな」などと無雑作に言って、私のCAの隣に座りやがった。
おいおい、葷酒山門に入るを禁ず、じゃないのか?
「たまには、般若湯をね」
「……いいですね」
そんな二人の声が聞こえてきた。
となると、こちらも、アイラが進む。
秋山氏はまた新しいどっしりとしたグラスを選んでくれた。
カットが美しいグラスだ。
見事なアイスピックさばきで、水晶のようにした丸氷が濡れ光る。
グラスにぴったりおさめて、ステア。融けた少量の水を捨て、丁寧にアイラ。
ゆっくりとステア。最高の酒を作ってくれる。
「あなたは毎日忙しい? 忙しいですよね? どんな仕事をされているか分からないけれども、己の本分をおさえておくというのが、秘訣なんですよね。
下の若い者たちによく言うんですけど。
ほら、すぐに仕事辞めるだの、辞めないだの、言うじゃないですか、若い人たち……」
私の小説の主人公じゃないか。
「禅宗では……、ああ、私の寺は臨済宗ですけれども、北鎌倉の。禅の言葉に……水、急なれども月を流さず、というのがあって」
水急不流月……? なかなか好いことを言う。
「どんなに急な流れの中にも、月の光は流されることはない。そこに映っている。
周りは様々に動き、ざわめき、惑わすものだけれども、自らの光を自らのままに放っているものは、動じない。そこにある。ここにある」
「素敵、ですね」
だが、そんなに安易に、「素敵」なんて言ってはいけない。
騙されるな、俺のオフィーリア。
「見たところ、あなたは……自分というものを持ってらっしゃる。光があります。ここは一杯、奢らせてもらおうかな」
私はカウンターの中にいる秋山氏、馬場氏の顔に短い視線を投げる。
「これは、いわゆるナンパというやつだな? ええ?」と。
だが、二人とも動じず。水急不流月、だ
ふと見上げると、ボトルの並ぶ棚の上にある『BAR RULES』というブリキ製のパネルが目に入る。
『RULE#1 BARTENDER IS ALWAYS RIGHT
RULE#2 IF BARTENDER IS WRONG.SEE RULE#1』
秋山氏も馬場氏も、元々、動じる男たちではないのである。
大きなテーブルの翁三人組が帰れば、鎌倉八幡宮の剣道場で教える七段の剣士が防具を持って現れ、カップルが帰ったと思えば、パソコンをいきなりテーブルの上に置いてタッピングするサラリーマンも来る。
だが、禅坊主とCAの美女はずっと話を弾ませていた。
そんな時だ。
扉の開く気配があって視線をやると、鎌倉でも古い塔頭の住職のお姿が見えた。
鎌倉で知らない者はいないだろう。
そんなに歳はいってないが、地元の人々とよく交流する気さくな坊さんだ。
弟子にあたるナンパ僧と待ち合わせしていたのだろう。
これで彼女も解放されると、私も遠くから軽く住職に挨拶をした。
めったにないが、厳しい修行の息抜きに、お酒とまではいかないが、食事をしに来たり、ソフトドリンクを呑みに来る、休暇中の修行僧の姿を見かけることがある。
今日は雨安居という坐禅の特別期間に備えての打ち合わせか……。
「ざまあみやがれ、ナンパ僧」と心の中で毒づいていると、その若い僧の方がいきなり、「お勘定」などとカウンターの中の馬場氏に言っているのだ。
CA的美女の方を見ると、わずかに口元を緩めて、笑いをこらえている感じだった。
珍しくジャケットを着てやって来た住職はといえば、作務衣姿の若い坊主を見て、禿頭の下の眉をなにやら不審そうにねじり上げていた。
「それでは失礼いたしまして……」
月を流さずの僧は、逃げるようにして店を出ていくのである。
一体、何事かと、しばしカウンターの地平線を眺めていたら、秋山氏が「気づかれてました?」と女性に聞いている。
「ええ。……お線香のにおいじゃなくて、コロンのにおいでした。それも、ちょっと……安物の……」と、彼女は肩を少しすくめて優しく笑みを浮かべた。
Bartender is always right.
そういうことか。ならば、今度は俺の番だ。
「こちらは正真正銘、本物の偉い御住職さんです」と馬場氏。
「え? 私、ここ、座っていいのかね」と住職。
ついでに、「どうぞ、是非。今日は御利益ありそう」と笑う彼女。
それはないだろう?
「シェフ、カルボナーラ。特別にコクのあるやつをね」は私。
意気消沈した時は、あの卵とチーズとクリームを贅沢に使った濃厚パスタがいい。
塩漬けされたパンチェッタの香ばしさ。
くるくるとフォークで巻けば、これでもかというほど、黒胡椒の効いた元気の素がふんだんにからんでくるのだ。
カウンターからガラス窓を通して、夜の鎌倉の路地を歩く人々を見る。
酔客の足取り。
早々と暖簾をしまう焼き鳥屋の女将。
これからアフターか、スナックの綺麗なお姉さん。
鎧を着た落ち武者の霊も誘われて歩いているかも知れず……。
と、さっきまでクルベル・キャンにいたニセ修行僧の作務衣姿が、ほの暗いネオンに照らし出された。
ひしめいて立ち並ぶバーやスナックを覗いては、説教甲斐のある美女を探しているのか……。面白いヤツだな。
「お待たせしました。カルボナーラでございます」
美しいCAよりも、甘さに深みのあるパスタの方に鼻息を荒くする夜もあるのだ。
ちなみに、気の利いたフレーズはまだ出てこないが。
(『明日、カウンターの地平線で』第一回 了)
photos by Yasuko Yagi
小説の舞台となったお店
クルベル・キャン
住所:神奈川県鎌倉市小町2-9-14植山ビル20B
アクセス:鎌倉駅東口徒歩3分
TEL:0467-23-7737
http://www.clobhair-ceann.com/
著者
藤沢周(ふじさわ・しゅう)
1959年、新潟県生まれ。法政大学文学部卒業。
書評紙「図書新聞」編集者などを経て、93年「ゾーンを左に曲がれ」で作家デビュー。
98年「ブエノスアイレス午前零時」で第119回芥川賞受賞。
『死亡遊戯』『刺青』『ソロ』『境界』『陽炎の。』『礫』『オレンジ・アンド・タール』『愛人』『さだめ』『紫の領分』『雨月』『焦痕』『ダローガ』『箱崎ジャンクション』『第二列の男』『幻夢』『心中抄』『キルリアン』『波羅蜜』など著書多数。
最新刊は『武曲』(文春文庫)、『界』(文芸春秋)。
藤沢周出演イベント
中村文則×藤沢周 純文学をめぐるトークショー&サイン会
日時:6月12日(金)19:00~20:30
会場:湘南蔦屋書店
定員:60名
問い合わせ:0466-31-1510