1100分de名著 荘子 第3回「自在の境地 “遊”」 2015.05.27


次回は印刷をしながら小野寺さんの「とっておきアルバム」を作っていきたいと思います。
争いや不安に満ちた世で人はどのように生きるべきか。
古代中国の乱世に生まれ現代の私たちにも生きる指針を授けてくれる「荘子」。
そこで説かれた教えはひと言で言えば「遊」。
時間や空間に縛られず何事にもとらわれない自在の境地です。
それは松尾芭蕉や西行など日本の文人たちにも強い影響を与えました。
「100分de名著」。
今週は「荘子」の説く「遊」の境地について読み解いていきます。

(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さて伊集院さん前回は「荘子」…一瞬こう矛盾してる言葉ですけど僕家帰ってすっごい考えたんです。
考えますよね。
芸能においてそれは何だという。
行き着きました?はい。
タモリさんなんですよ。
タモリさんっていわゆる主体的なという司会者じゃ絶対ないんです。
たまたま行った所にたまたま面白いものがあったという事を「面白いね」っていう。
だけどあんな多才な人いないじゃないですか。
なすがままに受け入れながらそれが主体となっていく。
ただねタモリさんになるのは難しい。
相当難しい。
いろんな事を考えさせられております。
本日も指南役はこの方でございます。
(一同)よろしくお願いいたします。
玄侑さん今回は「遊」遊ぶという事なんですがこれいわゆる遊ぶ事でよろしいんでございましょうか?遊ぶという字は白川静先生によれば「神と人が一体になった境地」と言われるんですけども要するに人間的な思惑とか分別を超えた世界に行く事ですね。
例えば砂場で子供が遊んでるじゃないですか。
「何のためにしてるのか」って聞かれても困るし「大変だろうから代わろうか」って言ったって意味がないわけですよね。
何かちょっとこう今糸口が見えているような。
まずはこちらからご覧頂きましょう。
(荘周)さあそろそろ焼けるかな。
またお餅ですか。
たまにはど〜んとお肉とか食べましょうよ。
あんた最近就活どないしたん?まあええか。
せやけど肉いうたら昔庖丁いう肉切らしたら天下一品の料理人がおったな。
ある日王様の前で牛を解体したそうや。
庖丁が牛に刃を入れると肉は骨からすっと離れて落ちていく。
その牛刀さばきはリズムに乗って音楽的とも言えるほど見事なもんやった
(王)見事だ。
ここまで深く技を極めるとは。
庖丁は自分の求めてるんは技やのうて道なんやと次のように語ったんや
(庖丁)最初牛の解体をし始めた頃目に映るのは牛ばかりでした。
しかし3年もたつともう牛の全体は目に入らなくなり近頃では心の目で牛を見るようになりました。
自然の摂理に従うと牛刀は大きな隙間に入り牛の体の筋目に沿って走ります。
だから骨にぶつかる事もありません。
更に庖丁はこれまで数千頭もの牛を解体してきたが自分の牛刀は刃こぼれもせず19年も長もちしてると語った。
王様は「すばらしい!お主の話を聞いて人生を全うするすべを学んだぞ」。
ちょっとちょっと牛と人生とどう関係あるんですか?庖丁は欲望や雑念なくあくまで自然体で牛と向き合い牛と一体になって刀を振るった。
人生も同じで無理せず虚心になって生きていくそんな生き方が人生の達人やいう事や。
すごくよく分かりますね。
ああしてやろうとかこうしてやろうとかそういう目的意識を離れちゃって虚心にそのやってる事に向き合うというか。
相手に向き合うとやるべき事というのはおのずから決まってくるという事なんでしょうね。
何かこの部位がこうでみたいな細かい事をいっぱい覚えるんじゃなくて「もうそういうふうにしか包丁入んないじゃない?」みたいな。
でもこの無意識になるというのは本当に難しいと思うんですけど無意識はどうやったらなれるんでしょうか?まあ意識っていうのは「私」が担当してるわけですよね。
その「私」が無くなるというのが無意識になるという事ですけども現実的にはやっぱり反復練習しかないですよね。
だから「身に付く」って言いますよね。
繰り返し繰り返しやっていると身に付くので忘れていいわけですよ。
それこそかじらせてもらった落語で言えば同じにやってても「お前の話には遊びがない」って言われる。
それは「アドリブをしろ」って意味じゃなくて何だか分かんないけど教わった一字一句間違えないようにしようっていうまだプレッシャーの段階はとてもつまらないと。
だけどこれを完全に自分のものにして自然に出るようになっちゃうといよいよ多分遊びがあるというかその「遊」なんでしょうねきっと。
ですね。
やっぱり…でも私たちこの無意識のところに到達するというのは…。
これが何か僕はね近くて遠いと思うんですよ。
意外にうちのおふくろの作る雑な料理とかは一定の味にできたりとかましてやほら湿度や体調が違うのに一定に感じられる味の境地というのは恐らくその「遊」の世界に行ってないと…。
おふくろの味も。
できないと思うんだよね。
だから無意識の方が敏感ですから今日はこうしてやろうああしてやろうと考えてるよりも無意識でやってる時に例えば今日は何となく湿気が多いので塩味変えるとかそういう事は無意識にやっちゃう事なんじゃないでしょうかね。
そっちの方が実はレシピどおりに作るよりも実はすごくグレードの高いというか。
結局マニュアル化できない事ですよねそうなると「遊」は。
意識的であるとどうしてもその臭みが残ってるって言うんですか。
そういう言い方もするんですけども本当に学者になると学者臭くなくなると。
なるほど。
(伊集院武内)深いな〜。
よく濯ぎができた状態というんですか。
濯ぎができた状態。
洗っただけではまだ石けん臭いっていう。
なるほど。
私アナウンサー臭い?気を付けようはい。
更に「荘子」はこんな事を説いておられます。
あ〜あ…。
おおお隣さん。
ため息ついとるいう事はまた試験落ちたんか?私ってろくな長所っていうかアピールポイントがないんです。
きっと社会からしたら役立たずの人材なんだろうな…。
だろうなっていうか実際役立たずなのかも。
そうかぁ。
とうとうこの話をする時が来たか。
大工の棟りょう石がある土地でクヌギの神木を見かけました。
それはそれは大きな木で高さは山を見下ろすほど。
石がそのまま通り過ぎようとすると…。
(弟子)親方私はいまだかつてこのように見事な木を見た事がありません。
親方はなぜ目もくれないで通り過ぎてしまうのですか?これは役立たずの木だ。
舟を造れば沈むし棺おけを作ればすぐ腐る。
道具なら壊れ門ならヤニがあふれるし柱にしても虫がわく。
とても材料にはできない使い物にならないただの大木だ。
しかしそのあと石の夢の中にクヌギの木が現れました。
(クヌギ)お前は一体私を何と比べているのだ?まさか人間に役立つ木と比べているわけではあるまいな。
梨や柚子の木を見てみろ。
実が熟せばもぎ取られ太い枝は折られてしまうではないか。
私ももし役に立つ木だったらとっくに切り倒されていただろうよ。
なまじ取り柄があるために人や世の中の役に立とうと思ってかえって自分を苦しめる事もある。
それやったら役立たずでおった方がええ。
「役立たずで生きる」か…。
すごく勇気が要る事だけどそんな事本当にできるのかな。
やっぱり何か落ち込んでる時には元気をくれそうな言葉ですね。
ねえ。
まあ役立たずは目指すもんでもないけど。
でも自分がそういう劣等感にさいなまれた時に自分は器用な生き方ができないななんてのが悩みならばこういう事言ってもらうととても…。
だけじゃないってとこですね。
ええ。
だから「荘子」の考えるように命を大事にしていくというふうにすると世間的には役立たずに見えるかもねというところだと思います。
そうか時代背景として戦国時代で言うと何か分かんないけど誰よりも屈強な体で足が速くてみたいな人が前線にどんどん駆り出されていくのと比べたらそれはそれでいいだろうよという。
「老子」も「曲なれば即ち全し」というふうに言うんですが。
それ「老子」の時にこの話確かに出てきた。
この言葉ですね。
曲がってた方がいいというわけです。
今のVTRのように役には立たないんですけどそのおかげで命長らえてこんなに巨木になれたというわけですよね。
世間的に言えば「曲者になれ」という事ですよね。
なるほど。
さっきクヌギの言葉にもありましたけど私たちやっぱり何かと何かを比べてしまうという傾向に絶対的にありますけどでもやっぱり物差しは無くて。
例えば禅の方では「柳は緑花は紅」という言葉があるんですけども柳は葉っぱが美しい。
桃はなんて可憐な花だろうと。
これを比較できる物差しってないわけですよね。
「何で柳には花が咲かないの」って言ってもしょうがないし「桃にもうちょっと流暢さがあればねえ」とか「葉っぱがあればね」って望んでもしょうがないわけですよ。
ですから柳と桃は全く別な物差しで見るしかない。
この2つは比較できないまんまそのまんまでいいんだという言葉なんですけども。
分かります。
意外に世の中一辺倒になりますよね何か。
役立つ役立たないみたいなところになりますもんね。
特に今はお金に換金しますから。
東日本大震災が起こって間もない頃におよそいくらいくらの損害だという数字が出た時にはほんとにびっくりしましたね。
ああなるほどなるほど。
死者一人いくらで計算してんの?という話ですよね。
お金でしか測れないのかっていうなにかと…。
でね「役に立たない」という価値これを「無用の用」と言うんですね。
ちょっとこちらをご覧下さい。
まあ有用であるという言葉は役に立つっていう事ですよね。
その有用の用はみんな知ってるけれども私が言いたい無用の用という事を知ってる人はいないなあと。
これもねほんとにかみさんにこれ見せなきゃ駄目だわ。
今何と何がつながってるんですか?そういうガラクタを僕買ってくるじゃないですか。
「それは価値があるの?」って話にやっぱなるわけですよ。
なるんだけどその時に「こんなもん価値があったら趣味じゃないよ投資だよ」という。
「投資」と見てくれればまだいいですけど普通は「浪費」と見る。
浪費ってええ。
ただの無駄。
こっちはもうほんとにこれは全く俺以外役に立たないって事に意味があるんだっていう。
そこに無用の用を訴えたい。
それも俺が言ってると言い訳に聞こえるけど「荘子」が言ってるなら大丈夫だろうという。
だからそれを持つ事が伊集院さんの生きる事にとってどうなのかっていう観点で多分「荘子」は見るわけですよね。
だからこれほんとに思うんですよね。
おっしゃってた震災で失ったものに関して不動産の価値としてはいくらですという事じゃないじゃないですか。
同じ額面の土地に住みたいわけじゃ私はないですって事だし。
その失ったものの中で例えば金の延べ棒だったらいくらですって分かるけどそうじゃない何でもない穴のあいたパンツ一枚だってそれじゃなきゃ駄目だという事は絶対あるじゃないですか。
私らの修行って座禅するじゃないですか。
座禅というのもはたから見ても何の役にも立ってないですよね。
GDPはゼロだし食べるだけは食べてるし。
でもそういう世間的な価値と別な在り方がむしろ命にとっては大事じゃないかと。
それは世間的には無用と見えるかもしれないけれども実はそこに大きな用があるんじゃないですかと「荘子」は言いたいんだと思います。
どないした悲壮な顔して。
また面接か。
はい。
もう私ここが駄目だったら田舎に帰る覚悟です。
周さん最後に何かアドバイスないですか。
そやな…自分の「もちまえ」を受け入れたら自在になれるちゅう事かな。
もちまえ?ああ。
まあ昔こういう話があった。
ある日孔子は魚やスッポンでも泳げないほど激しい水流の滝つぼで泳いでいる男を見つけました。
慌てて弟子たちが助けようとしましたが男はすいすい泳いでひょいっと上がってくると鼻歌を歌っています。
驚いた孔子が…。
(孔子)ちょっと伺いたいのだがこんな激しい水流を御するには何か秘けつでもあるのかね?いや別に秘けつなんかありません。
私はただ渦巻いたらその水と共に沈み水と共に浮かび上がり水自身の法則に従って私を差し挟まない…。
それが秘けつと言えば秘けつですかね。
それでもちまえは一体どこへ?つまり男には自分なりの生き方が自然の流れに逆らわずにできてる。
それで初めてもちまえが発揮されるいう事や。
自分なりの生き方か…。
いつかできるといいな。
いってきます!もちまえ。
もちまえ。
難しいですね。
そうですね。
泳ぎの名人謎の言葉を言っておられましたが。
「故に始まり性に長じ命に成る」。
まあ生まれついた…そのどこに生まれて幼い頃を過ごしたのかというのは人間にとって大きいですよね。
その上にもちまえと読ませている「性」というのが来るんですが。
これが「もちまえ」。
ここがもちまえ。
そうなんです。
生まれついてのものじゃないんですけれどももう慣れ親しんで習慣化してくると無意識でそういうふうにするようになってる事ってありますよね。
それがその人のもちまえになっていくという事なんですね。
故の上に性が来てそういう存在として全体の流れに逆らえないものというのはありますからこの中で生きていくと。
これが生き方の秘けつだという事なんでしょうね。
でもその生まれつきのものとこのもちまえというのは例えばどういう違い…?猫で言いますと猫は例えば伸び一つで凝りをなくして足を上げて顔を洗うとかですねあらかたは「故」でいけるんですけども。
生まれつき持ってるもの。
生まれつきなんですね。
ネズミを捕るという事だけは親に習わないとできないらしいんです。
だから親も最初半殺しでネズミを連れてきてあんまり動けないようにしてだんだん元気なやつをそろえていってそういう訓練させるんですね。
最終的にネズミを捕るようになるっていう。
無意識の領域になって。
そうです。
それはトレーニングでもちまえになった部分ですよね。
人間はこれが非常に多いんで習慣によってもちまえになっちゃうというのが多いんで生きるのが大変だと言えば大変なんですけどね。
これはでも自分のもちまえは何なんだろうなみたいな事を考える事がないじゃないですか。
今会社で求められてる事とか自分が稼ぐためにやらなきゃならない事の方を優先にどうしても考えちゃうから。
でもその自分のもちまえは何だ自分はもともと何だを考えてちょっと修正する事はできると思うんですね。
いや「個性」という言葉が今はやっていますけどもあの方がやっかいですよ。
自分の個性は何なんだろうというのはもう何というかスパイラルに入っちゃうっていうか。
でももちまえというのは習慣によって無意識化したものは全部含むわけですから…なるほど。
後天的に私たちが身につけたものであってもそれはもちまえという事ですね。
そうですそうです。
いつも気がつかないうちにこうしてきていた事というのもそうだし今後こうしようかなというのがもう続けばもちまえに入っていくという事ですから。
きっとこのもちまえというのは自分にもう染みついているまあ特殊能力というか他の人からしたら特殊かもしれないけども俺にとってはもう普通の能力。
その人しかないものですね。
もう無意識化したものですね。
しゃべり続ける事に関して何とも思ってないという事とかが例えば僕のもちまえだとするならば名目上は仕事となってても僕がラジオでしゃべってる事というのはかなり遊というか遊んでる事ですよね。
きっとそれをやってる事に関してストレスもたまらないしまあある意味その「命」であるというかこうなる事は逆らえない仕事の一つ僕の役割の一つみたいな。
何かもう道が見えてますね今何か遊までの。
遊の境地。
いいなどうして。
いや〜ちょっと今日は無用の用それからもちまえというキーワードから「遊」遊ぶという「遊」というところに行きましたけど。
多分またこれ帰っていろいろ考えると思いますけど。
これ「荘子」は考えますね何か。
多分その考えても考えても駄目だなってあたりにやっと多分分かるというよりも何か身についたりするんでしょうね。
マニュアルじゃないんですよね。
人に代わってもらえない事って全部遊なんですよね。
遊にしていかないと。
だからそうやって楽しんでいくっていうのがすごく大事だと思いますね。
そもそも好きだったじゃんという事を何でこんなに苦しんでんだって考える時あるからだからその辺をみんなでちょっと探したりとか。
私が生きるのを誰かに代わってもらうわけにいかないんで生きる事を遊にしたいですね。
ほんとだ。
さあ次回はついに最終回。
「荘子」の根本思想について学んでいきたいと思います。
玄侑さん今日もどうもありがとうございました。
2015/05/27(水) 12:00〜12:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 荘子 第3回「自在の境地 “遊”」[解][字]

「荘子」では自在に躍動する生き方の極意が説かれている。それは、世間的な価値でははかれない「遊」の境地だ。伸びやかに生を謳(おう)歌する極意を読み解く。

詳細情報
番組内容
「荘子」では、自在に躍動する生き方の極意が説かれている。「無用の用」などのエピソードで世間的な価値でははかれない「遊」の境地を教える。「遊」の立場に立てば全てが「大用」に転換するという。それは「人の役に立つことで却って自分の身を苦しめる」状況からの解放だ。第四回は、何物にもとらわれない自在の境地の素晴らしさ、伸びやかに生を謳(おう)歌する極意を読み解く。
出演者
【講師】作家、僧侶、芥川賞受賞…玄侑宗久,【出演】古舘寛治,安藤輪子,【司会】伊集院光,武内陶子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格

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