アルバムに入れるとなにげない日常がキラキラ輝いて見えると思いますよ。
先が見えない現代。
私たちは時に未来への不安に押し潰されそうになります。
しかし「荘子」は先の事に思い悩まず常に変化し続ける状況に身を任せよと説きました。
そこにあるのは「万物はみな斉しい」というとてつもなく大きな思想です。
「100分de名著」。
最終回は「荘子」の教えの根源に迫っていきます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さああの怪しげな動物整体師の周さんにちょっと心はほぐれてきましたか?そうですね…何か前回は遊ぶと書いて「遊」。
自分の心の中に遊びというものはちゃんとあるのかとかいろんな事を考えさせられましたね。
結構今回正面からどんと受け止めてる感じあります。
何かあの簡単なようで難しい事。
しかもいつも感じてるようで忘れてるような事がいっぱいありますんですごく「荘子」は楽しいですはい。
今週も指南役の先生は作家で僧侶の玄侑宗久さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
さて玄侑さん最終回のテーマは「万物斉同」。
ちょっと難しい言葉で。
何だろう。
これはあの「荘子」の根本思想だそうですけどこれはどういうものなんでしょうか?まあ「老子」は例えば「道」を「無為自然」というような言葉で表現しましたけども「荘子」の場合はまあ道というのは自らは安らかでいながら触れあう事でものすごい活発にするというそういう存在として考えていてその在り方を「渾沌」という言葉で表現してるんですね。
こちらでした。
両方さんずいついてますけれども水が激しく渦巻いてるような状態でそこからいろんなものが生まれてくる。
ですから生まれてきた万物というのは元をたどれば渾沌になるわけですよね。
ここから見れば万物は斉同であると。
皆混沌から生まれるという意味においては一緒じゃないかという。
なるほど。
さあそれではまず万物斉同を説いたこんなエピソードをご覧頂きましょう。
学者の東郭子が荘子に尋ねました。
いわゆる「道」というのはどこにあるのでしょう?どこにでもある。
具体的に言ってほしいな。
じゃあ螻蛄や蟻かな。
随分下等なものだな。
いぬ稗にもある。
もっと下等だ。
瓦や甓にだってあるぞ。
まいったなぁ。
屎尿にもある。
おい道はものがあるかぎりどこにでもあるのだからそれを限定してはいけないよ。
なんと道真理を追究していくと屎尿にもあると。
何か人を食ったような答えですけど。
まあまあ道から外れてるものは無い以上はどれにもありますよという。
そこから生まれたものには。
やっぱりその上下で考えてますよね。
これは立派でこれは卑しいというある種の差別ですよね。
それをことごとく否定してるという感じがするんですけども。
何かそのすばらしいものだから当然高級なところにあるんじゃないかみたいな尊いところにあるんじゃないかみたいな先入観があるんでしょうね聞いてる方には。
道ってね。
ところが実際は武内さんといえども現在屎尿を持ってらっしゃるわけですよね。
持ってない人はなかなかいないですよね。
でも持ってるうちは汚くないですよね。
そうですね。
私の外に出てしまうと屎尿も唾も汚いものになりますよね。
ちょっと玄侑さんがこちらを用意して下さいました。
まあ世界のエネルギーを中国人は一番荒々しい状態を「精」という言葉で考えたんですね。
エネルギー精。
はい。
それがもう少し純化されて細かくなると「氣」というものになってこういうものを人間はこの目耳鼻口という感覚器を通して喜怒哀楽を感じたり。
あるいは物というのはこういう感覚器を通して我々の中にできるんだというふうに認識してるんですよ。
この渾沌の話でも出てきましたけども…私の制約を強く受けてるもんですから非常に勝手なものなんですよ。
ですけどもこれを通さないでこれが直接感じられたらば万物は斉同になるでしょうと。
これが。
私を通さなければこれが万物斉同になる。
例えば一杯のカレーライス誰かが作ったと。
その誰かというのを知っていて伊集院さんが好感を持ってる人だったりするじゃないですか。
そうするとおいしくないですか?そうですねはい。
だからそういうおいしいとかきれいだとかそういうものは好き嫌いに大きく左右されるしそれまで積み重ねてきた価値観にも左右されますからこの私というのは実に信用の置けないものなのでだから私の中に発生している心も物も信用できないのでこちらに直に通じられないかと。
私をなくすために例えば座禅をしたり道教は道教の修行法があったり瞑想したりっていう行をする事でこれがですね…。
こういう字を書いて「こころ」と読むのですが。
「こころ」と読みますか。
ほう。
この「精」「氣」と来ましたけどもこれが更に純化されてもっとエッセンシャルなエネルギーになったものが「神」なんですね。
私で止めるなって事ですよね。
私というある意味変なフィルターにかかっちゃった状態を正しいと思うなよというその先まで行く。
という事はもうここまで行ったら万物斉同という。
そうですね。
なるほど。
そこに序列がない。
すごいのはそれが人にじゃなくて全てにないって事ですね。
そうですねいぬ稗にも。
おしっこにも。
もうみんな一緒だと。
それが道であり渾沌であり。
万物斉同なんですね。
では「荘子」の中でも一番有名なエピソードをご覧頂きましょう。
(いびき)「いつの事だったか荘周つまりこの私は夢の中で一匹の胡蝶になっていた。
ひらひらと空を舞う胡蝶である。
心行くばかりに空に遊んで自分が荘周である事ももはや忘れ果てていた。
ところがふと目が覚めてみれば紛れもなく私自身。
荘周以外の何者でもない。
一体荘周が夢で胡蝶になったのかそれとも胡蝶が夢を見て荘周になっていたのであろうか。
世の常識では両者は明らかに別のもの。
だがそれは万物の変化のありさまなのではないか」。
周さん周さん。
周さん。
ああ夢か…。
この話僕すごい好きな話で「荘子」について唯一知ってる知識だったんですけど。
「胡蝶の夢」。
はい。
でも今日この順番で聞くとこの話のすごさってまあすごいと思うのはまあ分かんないけど「人に上下はありません」までは分かります。
「みんな一緒です。
人なんてみんな一緒ですから」ってとこは分かります。
理解しやすいです。
その先に「物も一緒だおしっこも一緒だ」ってなってくるとうわすごいなこれっていう。
じゃあ分かりました。
これの夢と現実が一緒だって話ですよ。
もうこうなってくると物でもなく私という概念。
何ていうの伊集院光僕っていう。
ある意味それ無くなっちゃって大丈夫なのかというとこですよね。
これは夢かも?そこも一緒にしてくるって。
これはどういうふうに解釈すればいい?蝶々になってひらひら遊んでる夢を見ていて覚めた。
それはあれ夢だったんだなと思うのが普通ですよね。
でも覚めた現実がもしかすると蝶々が見ている夢じゃないかというこの思い方がすごいなと思います。
すごいです。
今現実だと思っている事も全く現実の様子が変わると夢のようだったと思う事があるじゃないですか。
そうすると夢のようだった夢だったというふうに現実というのはなり続けるんじゃないかとそういう見方をしたんですね「荘子」は。
これって何かすごくロマンチックなような怖いような話じゃないですか。
そうですね。
ここに多分壁一つあると思うんですよ。
これをちゃんと理解してただの物語として面白いねじゃなくて一つの思想として一つのものの考え方として自分に容れるという事は僕は結構な事だなと思うんですよ。
…という表現が出てくるんですね。
覚めたらそれがずっと続くわけじゃなくて気付き続けていくわけじゃないですか人は。
新しい事に一つ気付くと気付かなかった時の見方というのは夢のようなものですよね。
それも新しい考え方だな。
まさにそうですね。
あのVTRの中で「物化」。
「物化」という言葉が出てまいりました。
この言葉。
物が際限なく変化し続けていくと。
ですからこの場合で言ったら蝶々が周さんに変化した。
周さんが蝶々に変化したという事もありうるでしょうと。
すごいでも飛んでるんだよな。
それがものすごいすっ飛んでるんだよな。
今が夢だったと思える時が必ず来るというわけですからそういう目覚めがあるという事ですよね。
そうすると今非常に苦しい時だとすると「いや〜そんな時もあったな」って笑える時がきっと来ますよね。
「荘子」はねやっぱり徹底的に翻弄される人々の味方なんで苦しい目に遭ってる人々の考え方として提供してるんだと思いますね。
夢っていうとすごくドリームの方の夢を思い描いちゃって今つらい事がああ夢だったと思える時も来る。
その気付きがきっと来るという。
状況は必ず変わるし…ほんとだ。
何かほんと元気にしてくれる。
何か現実の事ってそれぐらい不安定なというかず〜っところころころころ変わってくもんだと思えば今はやり過ごせたりとか。
思い詰めなくてもいいという。
頑張れたりとかする。
そう思えない人がもう自分は生きてても一生いい事はないだろうって思い込んで死んだりするわけですよね。
でも必ず変わりますから。
これ禅にも同じ考えがあるという事でこちらをご覧頂きましょう。
これは玄侑さん「だいむ」?「たいむ」?大夢ですね。
人生の事を大夢と言うんですね。
人生の事を大夢?ええ。
人が亡くなったというのを「大夢にわかに遷る」というふうに表現するんですが。
夢から覚めたわけですよ。
死ぬという事が死んだ瞬間今までの俺の人生は夢だったという事ですか。
そうです。
…というふうに感ずるほどの目覚めが死後にあったはずだと。
これはすごい事になってきた。
さっきの段階で言うと人は皆同じ動物も皆同じ。
生きてる生物皆同じ物も同じ。
それがもう夢も現実も同じ。
生と死に関しても。
そうです。
うわ〜。
何なんだろうこの「荘子」の話を聞く度にすごくでかいものを感じるっていうか。
そうなんですよね。
どんどん心が広がっていきますよね。
何かもうね宇宙とか以上の感じっていう。
万物斉同という事自体が「隔てがない」という事ですよね。
確かに隔てがない。
何か我々は隔てる事の方が知識を得る事な感じがしてきた気がするんです。
漠然と虫って思ってたのがこれはカブトムシでこのカブトムシの中では何々カブトムシとはこれは違うんだって分けてく事が知識が高いという事だと思ってたし僕自身が進歩してるって事だと思ってたんだけどそういうものをわ〜ってされるような気持ちよさだったりとかスケール感みたいなのありますね。
そうですね。
さあ最後にそれではその「荘子」の思想全てを包み込んだこんなお話をご覧下さい。
「北の果ての海に魚がいてその名を鯤という。
鯤の大きさは一体何千里あるのか見当もつかない。
鵬の大きさこれも何千里あるのか分からない。
やがて激しく羽ばたいて飛び立つとその翼は空に広がる雲のようであった」。
何をごちゃごちゃ言っとんや。
いや私も周さんの教えをもっと学んで別の生き方したいなと思って頭のとこから読み始めてるんです。
何か気恥ずかしいな。
まあせやけどそろそろここも追い出される頃やし…。
よ〜し!何してるんですか?行くぞ。
よう見とけ。
えっ…なになに?周さん!・
(荘周)また会おうな!周さん何もかもが青一色に見える!
(荘周)そや万物斉同皆ひとしい。
周さんこれなんですね!
(荘周)そうや何もかんも小さい小さい…。
何かすごい話になっちゃいましたけど。
これが「荘子」のエンディングなんですか?いやエンディングじゃなくていきなりこれが冒頭なんです。
一番最初の話?はい。
あの魚と鳥の話ですか?そうです。
あれが最初にやったらばあまりにもちょっと理解不能だと思ったんで最後へ持ってきたんです。
は〜。
そうですね。
「100分de名著」的には第1回から「これはついてけないからもう見ない」ってなるかもしれないですね。
本だとつかみとしてすごいですね。
鯤というのはもともと魚の卵の意味なのでちっちゃいはずなんですよ。
ところがそれが大きくなってしかも魚が鳥になって飛び立ったらばその高さや大きさが尋常じゃない。
そのどんなふうに変化したっておかしくないんだよというのをいきなり最初に示されちゃったんですね。
ここでこのような言葉を玄侑さんが…。
これは?「荘子」のものの考え方の特徴で物事は360度に変化するんだと。
この字はですね「とぼそ」って読むんですが。
これ2つ合わせると「道枢」でいいですか。
「とぼそ」というのは回転ドアの軸がですね天と地の穴に入ってますよね。
あの軸の部分をとぼそと言うんです。
真ん中の軸ですからどんなに回転しても動かないわけですよ。
安定してるわけです。
そこにいて道は全てを見渡してるわけですね。
そういうふうに考えると鳥が…魚が鳥になろうとちっちゃいものが大きくなろうとどう変化したっておかしくないだろうというそういう話がいきなり冒頭にあるわけです。
すごいな。
つかみとしてものすごいダイナミックというか。
ですから万物斉同という見方がいかに何というかとてつもない見方かという事が示されてると思うんですけども。
自由な状態で我々の心を置いておけばこんなふうに遊べるんだというそういう表現でもあると思うんですね。
背中に乗ったお隣さんが「わ〜周さんみんな青に見える。
青一色に見える」と言ってたのはあれはどういう意味なんですか?私はねガガーリンの言葉かと思いましたけどね。
ガガーリンの言葉。
「地球は青かった」。
何をおっしゃってるんですか。
でもまるで地球を遠くから見た時の色を知ってたかのごとくですよね。
本当ですね。
そうですね。
すごいですよね。
それも何かつながってるような気がするんですよ。
細かいあなたの感覚で捉えた彩なんかは割ともう関係ないですよという。
一色ですよっていう感じにも全部勉強したあと今見してもらってるから捉えられますね。
これ最後に用意してもらってよかったです。
本の順番で一番最初第1夜の頭だったら全く理解できないけど。
大鳥になって飛んでいったその大鵬がねいきなり双葉山と対戦して負けるかもしれないですね。
我々がふだん暮らしている時の常識というのをあざ笑っているかのごとくですね。
常識であり人間の固定観念とかこざかしいルールみたいなものを一旦忘れろっていう感じはしますね。
本当に不思議な感じの「荘子」を4回にわたって見てきましたけれど玄侑さんが今私たちが「荘子」を読むところの意味というのは?常識というしがらみというか桎梏ですよねそれがいかに自分を苦しめて…そういう事を知らせてくれるし今の世の中で「進歩する」という考え方に相当翻弄されてますけども「荘子」の中には「退歩」という考え方が出てくるんですが進歩ではなくてちょっと行き過ぎたんじゃないのと。
…という事をこう考えさせてくれますね。
一歩下がってみる。
退歩。
はい。
僕だから今の時代の特徴の一つだと思うんですけど真面目にやってて報われなかった人のストレスとか行き場のないものとかが「真面目に言うとおりやったよ。
ルールも守ったよ。
でも誰も守ってくれないしこの報われなさは何だ」という人が犯罪にまで行っちゃう事が結構多い気がしてて。
でもそういう人のちょっとたがを緩めてみましょうよというのに一旦自分たちがとらわれてきた常識と今も抜けられないルール苦しんでるルールに関して何だって思うのにいいきっかけになるんじゃないかというのはちょっと思うんです。
世の中を運営するルールというのはやっぱり儒家的な考え方が必要ですよね。
でもその同じ理屈で個人を運営するというのはつらすぎるんですよ。
僕らが学校やその他で習ってきた授業で習った道徳とまた別のその道をブレンドした方がいいような気が。
「もちまえ」を発揮して。
「もちまえ」を発揮して。
ありがとうございました。
本当に楽しゅうございました。
2015/05/27(水) 22:00〜22:25
NHKEテレ1大阪
100分de名著 荘子[終] 第4回「万物はみなひとしい」[解][字]
万物を生み出しその働きを支配する「道」を根本原理ととらえた「荘子」。「道」からみれば万物は一体。世間の価値観は全て相対的だ。「荘子」の「万物斉同」の思想に迫る。
詳細情報
番組内容
万物を生み出しその働きを支配する「道」を根本原理ととらえた「荘子」。「道」からみれば万物は一体であり、人間世界の価値は全て相対的で優劣などない。「万物斉同」と呼ばれるこの思想は、世俗的な価値にとらわれ、つまらないことで争いを続ける人間の愚かさを笑い飛ばす。第4回では、これまで展開してきた全ての思想を支える「荘子」の要、「万物斉同」の思想を明らかにする。
出演者
【講師】作家、僧侶、芥川賞受賞…玄侑宗久,【出演】古舘寛治,安藤輪子,【司会】伊集院光,武内陶子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
趣味/教育 – 生涯教育・資格
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32721(0x7FD1)
TransportStreamID:32721(0x7FD1)
ServiceID:2056(0x0808)
EventID:9699(0x25E3)