マイケル・サンデルの白熱教室「公共放送の未来を考えよう」 2015.05.31


今月東京で4日間にわたり公共放送の未来について議論する国際会議が開催されました。
世界の公共放送局で働くプロデューサーやディレクターなどが集結。
インターネット時代の今テレビは今後どのような役割を担えばいいのか議論しました。
この国際会議に参加した放送人27人がNHKのスタジオに集まりました。
NHKの職員も加わり新しい時代の公共放送の役割について議論を交わします。
参加者に難問をぶつけるのはおなじみハーバード大学のマイケル・サンデル教授。
公共放送をめぐる白熱の討論です。
(拍手)Thankyou.マイケル・サンデルです。
「白熱教室」へようこそ。
今回私たちが取り上げるテーマは「公共放送の未来」です。
スタジオには国際会議のために来日した世界の公共放送局で働く方々をお招きしました。
皆さんには公共放送が直面している重要な課題についてそれぞれの放送局の代表としてではなくそこで日々働く個人としての立場から自由に意見を語ってもらいます。
更に2人のゲストもお招きしています。
テリー伊藤さんは民放の演出家として数々の娯楽番組をヒットさせてきた経歴を持ちます。
杉本誠司さんは人気の動画共有サイトを開設しインターネットでの双方向サービスを提供しています。
「ニコニコ動画」です。
では始めよう。
最初の質問は今から10年後を想定してのものです。
そのころにはテレビとインターネットの垣根はもうなくなっている。
そう仮定します。
ニュースもバラエティーもどんな番組でも24時間いつでもインターネットで見る事ができる。
テレビとインターネットが融合したこのような変化は公共放送にとって好ましい事だろうか?あるいは好ましくない事なのでしょうか?公共放送にとってこれは歓迎すべき事だと思う人は?では歓迎できない問題があると感じる人は?なるほど。
4〜5人が懸念を感じているようだ。
あなたは何が心配なんだろう?批評的なジャーナリズムや独立した報道にお金を払う人がいなくなってしまうんじゃないでしょうか。
そうなると政治やビジネスの利害にとらわれない情報を伝える場がなくなってしまいます。
どうもありがとう。
あなたもそのような未来に不安を感じているのですか?はい。
公共放送は一部の人でなく社会全体に広く情報を行き渡らせる事が重要です。
もし好きな番組だけを選んで見るようになってしまったら私を含めてみんながバラエティーしか見なくなってしまいます。
あなたも?
(トープ)はい。
公共放送で働いているのに?私だって人間です。
仕事から疲れて帰ってきたら笑ってくつろぎたいんです。
分かりました。
田波さんあなたが担当している番組は必ずしも高視聴率を期待できるものではないですよね。
文化や社会福祉をテーマにしている。
そうした番組はインターネット上の競争の中では圧倒されて埋もれてしまうのではないかという不安を感じますか?私は公共放送の一つの重要性というのはマイノリティーに対する目配り情報だと思うんですけれども。
例えば日本で起きた大震災から4年がたって大震災の被災地や被災者に対する情報というのはかなり薄くなっています。
そういうところにインターネットのように情報があふれる中できちんと社会的な弱い立場にある人たちの声が出続けるかという事については我々の側でいろんな情報の出し方とかを研究し改革をしないとこのままインターネット時代に飲み込まれていったらその力というのはなかなか発揮できないんじゃないかという事を心配しています。
ニュースや娯楽など番組を提供する場が一つになってしまう事を懸念する声がいくつか挙がりました。
一方で多くの人はこれを好ましい変化だと歓迎している。
どうぞ。
好む好まないではなくもう現実に起きている事なのです。
もう避けられない事だと?はい。
未来はもうそこまで来ているんです。
私が働くオーストラリアのABCでもテレビ放送を補完するオンラインサービスを提供しています。
それは国内のオンラインサービスの中で最も成功しています。
成功の秘けつは広告が無い事です。
競争相手となる有料サイトはたくさんありますが私たちは無料でしかもコマーシャルが無い事が強みです。
どうぞ。
私は公共放送がインターネットに進出する事で絶好のチャンスを得られると思います。
要はやり方しだいです。
これまでと同じ発想で視聴者を単なる受け手として扱っていては駄目です。
それでは公共放送を選んでくれる人はいなくなります。
逆に役に立つ公共サービスをみんなで作り上げていくチャンスなのです。
杉本さんが運営するニコニコ動画はユーザーに発言の場を与える一つの方法ですね。
公共放送は将来視聴者にとってもっと身近な存在になれるはずです。
視聴者はこれまでのような受け身ではなくなり新しいやり方でどんどん参加できるようになる。
それは公共放送の使命にとって好ましいという事ですね?杉本さん。
インターネットを選ぶのかテレビを選ぶのかという事以上にもう既に現実として僕らの社会というのは今インターネットのインフラで支えられてるところがあると思うんですね。
ですからそういった中に例えば公共放送的なコンテンツが入ってくるであったりとかテレビ的なコンテンツが入ってくるというような考え方はあってもいいとは思うんですけども僕がちょっとここで皆さんの話を聞いていていわゆる普通のテレビ局的な考え方を結構されてるなと思ったんですね。
公共放送の使命っていうのはより多くの人を集めるという事が使命なのかそれとも正当な政治批判をきちんとやってそれを聞きたいと思う人のためにいつでも見てもらえるような準備をする事が大事なのか。
もちろんより多くの人に見てもらう事は重要だと思いますがそれ以上に公共放送としての使命をキチンと果たすといったところがまずは重要なんじゃないかなというふうには思います。
ニューマンさん。
今の若い世代特に20代の若者は驚くほどインターネットを使いこなし自分が好きなコンテンツ見たいコンテンツをすぐに見つける事ができます。
私たちがやるべき事は魅力的なコンテンツの制作に力を注ぐ事です。
それはもちろん公共放送の使命に沿ったものであるべきです。
その枠組みの中で良いコンテンツを作りさえすれば若者たちはインターネット上できっと見つけてくれるはずです。
彼らが見つけるのは「良い」コンテンツでしょうか?それとも「好きな」コンテンツ?先ほどトープさんは自分でも好きな娯楽番組を選んでしまうと言っていましたが。
公共放送にふさわしいすぐれたコンテンツを制作していればデジタル・ネイティブ世代の今の若い人たちでもその良さに気付いてきっと見てくれるはずです。
どう思いますか?そういう若者もいるかもしれませんが少数派でしょう。
結局公共放送は人口の1割に見てもらえればいいのかそれとも9割を目指すのかをはっきりさせるべきだと思います。
ではあなたの国の公共放送を思い浮かべながら次の質問を考えて下さい。
どちらの意見に賛成するでしょうか?1つ目は「たとえ視聴率は悪くても社会福祉やホームレス文化などをテーマにしたまじめな番組をもっと増やすべきだ」という意見。
2つ目は「大勢の人が見てくれる人気のある娯楽番組をもっと作るべきだ」という意見。
最初の意見に賛成するという人は?視聴率は気にせずまじめな番組を増やすべきですか?これは「公共放送はつまらない」という事が質問の前提になっている気がしますが必ずしもそうだとは思いません。
若い視聴者のニーズに合った番組を開発していかなくてはいけませんがそれは達成可能なはずです。
屋敷さん?例えば政治討論番組で貧困問題だとか格差社会が話題になってるというのを扱う。
でもそれは政治討論番組だけじゃなくて例えば私はドラマを担当してますけどもドラマとかバラエティーとかさまざまな番組でそれをテーマにしたいろいろな番組を作っていくという事である種社会的な問題提起というかそういうのをやっていくというのも僕は公共放送の持つ良さだとは思っています。
BBCのヴァン・クレヴァレンさんは?私たちは長年「人気のある質の高い番組」を作ろうと努力を重ねてきました。
どうすれば両方を達成できるかが大切なのです。
更にデジタル時代にはなるべく多くの人に見てもらう「仕掛け」が必要です。
仕掛けを作り良いコンテンツであれば視聴者はきっと見てくれます。
そうした努力を払わなければ公共放送は必要とされなくなるでしょう。
ではテリー伊藤さんあなたは公共放送ではなく民放出身ですね。
これまでの議論をどう聞いてましたか?まじめな番組だからといって視聴率をとらないっていうのは僕は間違いだと思うんですよ。
それはやはり公共放送をやってるっていう僕はおごりもあると思うんですよね。
今のままですとNHKの番組ですと60代70代80代しか見ないという現状があるわけなんですよ。
どっかカタいです。
例えばミニスカートをはいたかわいい子が司会をやるだけで数字は上がります。
そして番組でも話題になっていくんです。
批判はあるかも分かんないですけどもそれによって若い人がそれを見てくれれば私はそれでまたいいと思うんですよね。
草場さんどうですか?NHKもここにいらっしゃる放送局公共放送の皆さんも全員そうだと思うんですが多分一生懸命まじめな番組をしかもちゃんといっぱい多くの視聴者に見てもらうような努力を相当してると思うんですね。
でそれがミニスカートかどうかは別として僕らも今後続けていかなければいけないと思ってます。
やっぱりネットの普及によって何が変わったかと思うとスマートフォンとかタブレットとかって端末が変わったんじゃなくて視聴者自身が変わってるという事を僕らはもっともっとそこに敏感に気付いてそこはいろんな努力をしていかなきゃいけないと思うんですがそこはおっしゃったようにアイデアによってそこにやっぱり向かっていく努力という事が必要があると思っています。
私はあなたがテリーさんにもっと強く反論するだろうと思っていました。
彼はまじめな討論番組の視聴率を上げたければ若いミニスカートの女性に司会をさせればいいと言ったんですよ。
賛成ですか?いや賛成しません。
駄目だと?賛成しません。
NO.まずそれを見て頂いている視聴者をまず大事にすると。
つまり逆にいうとミニスカートの女性を出す事によって何か違った空気感を与えてしまうという事は逆にマイナスかもしれません。
で一方で…。
ミニスカートがマイナスになるんですか?分かりません。
ただミニスカート自身がマイナスかどうか。
でも大事なのはミニスカートではなくてちゃんとしたミニスカートをはいた女性がちゃんとした議論ができるかどうかが大事であって。
でしょ?テリーさんも草場さんも同じ事を違うキーワードで言っているだけで作り手側の理論というのが強いんですよ。
僕らはネット事業者というのはオーディエンス側の視点から見る事が多いんですけども要はお二人とも言ってらっしゃるのはそのコンテンツに対峙したオーディエンスの人たちにとって自分たちに類似するアイテムがあるかないか。
テリーさんが言ってらっしゃるのは若い人にとってミニスカートの女の子というのは非常に親近感を感じる。
草場さんがおっしゃっているのは従来の視聴者にとって今までどおりのフォーマットを使った方がそれはその人たちにとって親近感があると。
総じて考えなきゃいけないのは僕らは番組の中のアイデアとか企画の中にどうやってオーディエンスにとって非常に近いアイテムを入れていくのかという事をもっと考えなきゃいけないという事だと思うんです。
そうですね。
どうですか?ホントに面白い議論です。
私はこの中ではまだ若手の部類に入るみたいなのでその立場から発言します。
公共放送としてどうやってメッセージを届けるかという事ですが問題はある一つのタイプの番組だけで全ての人に訴えかけるのは無理だという事です。
今はデジタル時代です。
とてもエキサイティングな時代でさまざまなデータが手に入ります。
どんな人が番組を見ているか誰がどんなテーマに関心があるのかミニスカートをはけば本当にウケるのかまで具体的なデータに基づいて番組を制作できます。
画期的な制作プロセスが実現しています。
私たちは大きな新しいチャンスを手にしているのだと思います。
その話題でいえばノルウェーの公共放送ではデジタル化への対応がいち早く進んでいると聞いています。
ある資料では国民の88%が少なくとも1日1回はあなた達のコンテンツに接しているそうですね。
そう10人中9人の割合です。
私たちはネット上で利用できないような番組は作りません。
私たちはもう単なる「テレビ局」ではなく「公共メディアサービス」なんです。
そして私が大切だと思う事は視聴者を侮らない事。
彼らは質の高い番組を求めすぐれた内容のコンテンツを求めています。
更にメディアを通して同じ体験を共有する事も求めています。
私たちの先祖がたき火を囲んで物語を語り合い体験を共有してきたプロセスと似たものです。
面白い例えです。
ニュースや番組や心を捉えるドラマに夢中になっている時に視聴者の中に生まれる一体感。
テレビはその前にはラジオがそういう一体感を生んできました。
しかしいつでも好きな時に見る事ができるメディアに人々がばらばらに接する時同じような一体感を味わう事はできるのでしょうか?たき火やキャンプファイアを囲みながら物語や経験を共有したような事がインターネット時代でも可能なのでしょうか?ネット時代の「たき火」の周りにはいくつかのグループができるようになると思います。
まず1つは従来どおり全国的なニュースが「接着剤」のような役割を果たし人々を結び付けるでしょう。
そこには国民的なグループが形成されるでしょう。
一方で今ネットの世界で見られるようにサブカルチャーで結び付くグループもできるでしょう。
極めてニッチな分野に特定した強い関心を持った人々が国境を越えてつながりコミュニケーションを交わしていきます。
国民を結び付ける「接着剤」。
私がまだ小さい子供の頃ジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されました。
その時全国ネットの放送局が人々を集めるたき火キャンプファイアの役割を果たしました。
私の世代は誰もが同時にテレビにくぎづけになったあの体験を記憶しています。
人類が初めて月に到着した時も同じ体験をしました。
あるいは日本では東日本大震災で津波が東北を襲った時誰もが同時にテレビでその様子を目撃し悲劇を同時体験しました。
このようにテレビ・公共放送は国民を結び付ける接着剤人々のコミュニティーを作り出すような共通体験の場となる役割を果たしてきたといえるようです。
ところがオンデマンドで思いのままの視聴が可能になる将来公共放送はもはやそういう機能を果たせなくなる可能性があるのではないでしょうか。
ヴァン・クレヴァレンさん。
今起きている出来事をどこからでもライブ・ストリーミングで見られる時代になっています。
これは私たちの報道の在り方が変わる事を意味しています。
これまでは出来事をただ伝えるだけでしたが今は双方向のコミュニケーションが可能です。
双方向にする事で人々の関心を高めより積極的な参加が可能です。
視聴者が意見を述べ質問もできます。
人々のつながりは強化され公共放送の役割もますます重要になると私は考えます。
「国民の接着剤」としての機能は強まるというわけですね。
視聴者が一方的な受け身ではなく参加して交流が増える事でその接着力が増すと。
そのとおりです。
人々はニュースが自分にも関係のある事だと感じるようになります。
質問や意見を交わし共有したいと思うようになるでしょう。
どうもありがとう。
草場さん。
そういった意味では私もやっぱり市民の参加から共に作っていくというぐらいの覚悟で公共放送も作り方を変えていく必要があると思ってます。
やっぱキャンプファイアっていうのは小さい子供からお年寄りまで趣味も違えば出身地も違うし考え方も違う。
でもそういう人たちがキャンプファイアの周りに集まってくる事によっておっしゃってたような一体感が生まれる。
そこを公共放送は目指すべきだってそこが一番大事なとこだと思ってます。
それではこのように国民全体に共同体としての意識を作り出し共同体意識を育むという事も公共放送の使命の一つなのでしょうか?どう思いますか?あなたは反対ですね。
賛成という人は?では反対だという人は?この問題については意見が分かれました。
あなたは賛成派ですね?
(チチェスター)はい当然だと思います。
例えば私たちの局には毎週月曜夜に生放送する人気番組があります。
政治家をはじめさまざまな人が出演しその時々の時事問題をテーマにします。
この番組には視聴者がツイッターで意見を投稿し動画も送り私たちは生放送で紹介します。
その経過を今度は私たちがツイッターに流し対話が生まれます。
まさに先ほど草場さんが言っていた市民と公共放送で共に議論の場を作るような仕掛けの番組です。
若者も巻き込み視聴者と一緒に国民的議論ができる場を作っています。
皆木さんあなたは国民の共同体意識を強化するという公共放送の役割についてどのように考えますか?公共放送という考え方は民主主義を発展させる事も大きな役割であってその民主主義ってじゃあ一体何かっていうと国民全体がある一定の知識なり情報を等しく手に入れたうえで国民が主権となって国を動かしていく。
情報をみんなが入手して社会が運営していくためにはその基本となる情報を与えるインフラストラクチャーというかそういうベースが必要でそれが公共放送が一つ果たすべき役割だと思うんですよね。
あなたは今民主的な市民社会に必要な情報を提供するという公共放送の役割を強調してくれました。
ところが「国民的なたき火」の比喩は更に難しい問いを投げかけています。
民主的な市民社会にとって必要な情報を届けるだけでなく更に国民としてのアイデンティティーを共有させ国家への帰属意識や絆を作り上げる事も公共放送が果たすべき役割なのでしょうか?その役割を誤って解釈するとナショナリズムに走る危険があります。
多元的な文化ではなくある同質的な文化に沿って共同体を作ろうとすると問題です。
一つの在り方しか提示しないとなると多様な意見を持つ人たちで国が構成されている事を無視してしまう事になります。
「国民の接着剤」となる事を公共放送は目指すべきでないと思います。
面白い議論になってきました。
「国民を結び付ける接着剤」あるいは「国民的なたき火」として帰属意識や共通のアイデンティティーを築いていく。
こうした役割を公共放送は果たすべきだと多くの人が考えました。
ただしそれは多元的なものでなくてはいけない。
単一の押しつけのアイデンティティーでは駄目だという事です。
こうした微妙で難しい問題は公共放送としてある特定のニュースをどう報道するかその報道の姿勢について決断を迫られた時に問われる事になります。
ここからいくつか架空の事例を想定しながら皆さんに質問していきます。
あなたはアメリカの公共放送局の重役だと仮定しましょう。
時はベトナム戦争の真っただ中。
アメリカ政府は勝利は目前だと主張しています。
ところがあなたは最も信頼する記者をベトナムに送り取材させたところ政府の言う事は事実ではないという事が分かったとします。
アメリカは恐らくこの戦争に勝つ事はできない。
政府や軍の公式見解とは矛盾する結論が得られました。
その記者を番組に出演させ取材内容を報道するかどうかあなたにその決定権があります。
もし放送すれば大統領や軍の怒りを買い国民の反戦ムードを高めたとあなたの放送局は非難を受ける事になるでしょう。
放送の決定権を持つ責任者としてあなたはこのリポートを放送しますか?放送するという人は?当然放送すると。
今の事例では意見に違いはありませんでしたね。
では少し違った架空のシナリオに変えてみます。
今度はあなたはイギリスのBBCのニュース番組の責任者です。
イラク戦争が目前だとしましょう。
イギリス政府もアメリカ政府もサダム・フセインが大量破壊兵器を保有しているという信頼できる確実な証拠があり武力介入すべきだと主張している。
しかしあなたは政府の主張と相反する報道をしようとしている。
「実はサダム・フセインが大量破壊兵器を保有しているという証拠はない」という内容の報道です。
先ほどの例と同じです。
皆さんは報道すべきだと言うでしょう。
しかし放送した結果あなたの放送局の重役が政府の委員会か何かに呼び出され報道内容について追及を受ける事になったとしたらどうでしょうか?もしそのような事が起きた場合その後も同じように政府にとって不利な情報を得た時あなたやあなたの同僚は報道に踏み切るのを躊躇するでしょうか?もしも仮に放送局の幹部が政府の委員会に呼び出されて抗議を受けたりしたら次は同じ事をするのをためらいますか?ためらうという人は?あまりいないようですね。
(マルチンス)この話は現実にBBCで起きた事件が元になっていますよね。
ではBBCの人に実際の顛末を教えてもらいましょう。
BBCは事実を尊重し権力に立ち向かい圧力に屈しないという事が原則です。
しかしこの実際の事件の時BBCの報道にはいくつかの問題がありました。
おおむね事実ですが100%ではない報道を出してしまったのです。
そのため政府の追及をかわしきれず結果的には会長らが辞任する事になりました。
しかし大事なのは原則はあくまでも揺るがないという事です。
視聴者が知るべき事を伝える。
政府の糾弾や圧力には屈しないというものです。
いいでしょう。
ではもう少し答えづらい仮定に変えてみましょう。
例えばこのような状況を想像して下さい。
政府の方針に反する報道をした結果放送局の幹部エグゼクティブが政府に呼び出しを受け追及を受けるところまでは先ほどの架空のケースと同じです。
ではその報道機関が次にまた物議を醸しそうなテーマを扱う事になった場合いわゆる「自主規制」が働く事が考えられるでしょうか。
どう思いますか?田波さん。
それはエグゼクティブたちの覚悟しだいだと思います。
つまり政府に呼び出されて政府の追及を受けたそのオーガニゼーションのトップたちがそれに対してきちんと対抗する対立を恐れないという空気を作り出すのであればそのオーガニゼーションは多分その後もリポートを続けられると思いますけれどもその意思が統一されないとお話にあったように次にニュースリポートを出す時にヘジテイトしてしまったりとかという事が起こりうるとは思います。
どうぞ。
サンデル先生が指摘するように自主規制というものは存在します。
公共放送にはしがらみもあるんです。
資金がどこから出ているかどんな圧力を受けやすいか国営放送に近いのかそれとも公共なのかという問題です。
ここにいる参加者はみんな出身国が違います。
置かれた状況も国によって全然違います。
答えも違ってきます。
どうぞ。
例えばフランスでの例をお話しすると以前起きたシャルリ・エブドの襲撃事件があります。
あの時には報道機関の間で問題が生じました。
事件の全貌が明らかになる前からさまざまな情報が生放送で伝えられました。
その後メディア各社は報道倫理を監督する委員会に呼び出され警告を受けました。
このような非常事態の時はもっと慎重に報道するようにという事でした。
いかがですか?事実関係をより確実に脇を締めてほんとに正しい事実であるかどうかを確認するという作業はより行うと思いますが事実である事を確認できたらばそれによって躊躇したり自己検閲を行って報道しないという事はないと思います。
報道機関が自分たちが取材した事実に自信を持っていればたとえ政府がそういう形で圧力を加えても自主規制に走るおそれはないと?はいそのとおりです。
他の国の皆さんはいかがですか?私たちの国で自主規制や検閲といえば宗教をめぐる問題がまず例に挙がります。
今のフランスの場合は公共の利益のために責任ある報道をどのようにするかという問題でした。
私の国あるいはヨーロッパでは特に宗教に対して何らかの追及を行う事に対しては強い自主規制が働く事が多いのではないでしょうか。
どうぞ。
昨年私たちKBSでは大きな事件が起こりました。
それはある船が転覆して多くの高校生が犠牲になった事件が引き金でした。
セウォル号の沈没。
(リュ)そうです。
あの時韓国の人々の多くが私たちが放送するニュース番組に不信感を抱くようになりました。
なぜテレビはインターネットで出回っている事実を報道しないのかという事です。
そして人々はテレビ番組よりもインターネットの情報を信用するようになりました。
そんな中KBSの幹部が突然内部告発を行ったのです。
政府にとって都合の悪い情報を流さないようKBSの社長が指示を受け社長が報道現場に圧力をかけてきたという告発です。
この一連の騒動で社長は辞任しました。
あれ以来KBSの記者たちはとにかく事実を報道し政府の圧力に屈しない努力をしています。
信頼の回復を目指して努力を重ねています。
でもそれは簡単な事ではありません。
信頼を取り戻すのは難しいと?
(リュ)はい。
今のポイントで…いいですか?どうしても僕すいませんオーディエンス側の意見になるんですけどもオーディエンスに対しての説明を怠ってる部分があると思います。
皆さんが取捨選択したものというのを要するに情報として提供しているっていう事は正しいとは思うんですけれどもそうでない事実もたくさんあるという事があるよという事を伝えてない。
インターネットで起きている事というのは個人レベルの方がそれとは違う情報を例えば出して僕はウィキリークスがいいと思えないんですけどもああいったものによって新しい事実がインターネット上で個人レベルで発表されてそれが世の中をひっくり返しちゃうようなそういった時代になった時に局の検閲うんぬんみたいな話をする時代ではもはやないんですけどもそこに対して皆さんやっぱり揺らぎがあるんですよね。
要するに視聴者であったりとかオーディエンスからするとそれが果たして信用に値するものなのかどうなのかっていうのが現代のものすごい課題になってると思うんですよね。
ではもう一つBBCに関する例を挙げます。
別にBBCをいじめるつもりはないんですが。
(笑い)1982年にフォークランド紛争が起きた。
この時イギリスのサッチャー首相はBBCの報道に激怒しました。
サッチャー首相はBBCが戦争に反対する立場の主張ばかり取り上げていると非難し更にBBCがイギリス軍の事を「わが軍」あるいは「わが国の兵士」と呼ばないように決めた事について異議を唱えました。
実際当時BBCの記者やリポーターが守っていたBBCの公式ガイドラインにはこのように書かれていました。
「イギリスを指す時に『わが』という表現は避けるべきだ」。
そしてガイドラインは次のように続きます。
「私たちWeとはイギリスの事ではない。
WeとはBBCである」と。
このようにBBCは「わが軍」という表現を避け「イギリス軍」と報道すべきだという原則を示しました。
では皆さんはBBCが掲げたこの原則に賛成しますか?公共放送が自国の戦争に際してとるべき報道のスタンスとして賛成しますか?分かりました。
このようにBBCでは「わが軍」「わが国」という表現を避けるという原則があったわけですがではもしもこれが戦争ではなくオリンピックを報道する場合にはどう考えますか?公共放送は「わが国の」選手たちという表現も避けるべきなのでしょうか?あるいはオリンピックのような場合は「わが国」と言っても問題ないのでしょうか?オリンピックの場合は公共放送が「わが国の選手」と表現してもかまわないと思う人は?
(チチェスター)さっきと矛盾してませんか!?確かに。
多くの人がさっきと逆の立場に手を挙げているようです。
あなたはこれは矛盾だと?矛盾だと思います。
報道の原則は戦争でもスポーツでも同じく適用すべきです。
オーストラリアでオリンピックがあった時私たちは「オーストラリアの選手が」というような表現を報道で使ったはずです。
スポーツであっても報道の原則を変えるべきではないと思います。
なるほど。
スポーツと政治とは同じには語れません。
私も報道の原則には賛成ですが現実にそのとおりに行うのは難しい。
例えばワールドカップを報道する時私はブラジル人ですよ。
自分の国を応援しなかったらどうなると思います?火星人のふりをして「みんなとは違うんだ」なんて振る舞う事はできません。
分かるでしょ?
(笑い声)
(チチェスター)ニュースには客観性が必要です。
「わが国の」と言った途端中立ではなくなります。
戦争だろうがスポーツだろうが中立でなくてはならないと。
中立だから自主自立でいられるんです。
スポーツの場合はBBCだって中立的ではありません。
イギリス人の金メダリストを他の国のメダリストよりもはるかに大きく取り上げます。
メダルのランキングにしてもイギリスのメダルの数を他の国よりも見やすく表示します。
そうしないと変だからです。
だって誰もが見たい情報なんですから。
スポーツは政治や戦争とは全然違います。
視聴者もそう思っていますよ。
いかがですか?多分ポイントは国民の中でも議論があるかないかというのは一つの大きな判断基準になるような気がします。
今武力行使が議論になっていますが例えば外交交渉なんかでも頻繁にニュースの中で扱われるわけですけどもそれに対して「イギリス政府は」「日本政府は」という事で「私たちの政府は」という言い方は多分しないと思うんですね。
だからスポーツとかあるいは例えば映画の賞を取ったとかというような時には多分多くの国民全体が同じような気持ちになってくれるだろうという想定に立ってるんだと思います。
よってオリンピックに関してはついどうしてもやっぱり「私たちの」というふうに言ってしまうしサッカーを応援する時にはキャスターが自国の選手のサッカーのシャツを着てしまうと。
つまり国民の大多数が同じ気持ちを共有している時は「わが国の」と言ってもいいわけですね?ただそうなると例えば武力行使にあたっても99.9%の人が賛成したらつい「私たちの軍は」と言っていいのかというとそうではないと思います。
そう今まさにその事を聞こうとしていたところです。
どう考えればよいのでしょう。
仮に国民の圧倒的多数が賛同する戦争があったとします。
これまで例に挙げてきたベトナム戦争やイラク戦争フォークランド紛争は国民の賛否が分かれるものでした。
でも先ほどあなたが99%の人が賛成と仮定したように圧倒的多数の人が戦争を支持している時公共放送は「わが国の軍隊」と言ってもかまわないのでしょうか?いえそういう場合もやっぱり「わが」と言うべきではないと思います。
ではオリンピックの場合と戦争の場合では何が違うんでしょう?まず武力の行使によるとこれは大きな公権力の発動であり放送機関としては必ずそこに何らかの正当性があるのかというのを常に追求していく客観的な目で常に見ていかなきゃいけないという事を前提になっていると思うんですがオリンピックの場合…。
そうですね…。
あとついつい…。
(チチェスター)ほらやっぱり。
戦争とスポーツで原則を変えようとするからややこしくなっちゃうんです。
あなたはどう思いますか?
(林)私が台湾で感じるのは多くの人が「公共放送」と「国営放送」の違いをよく分かってくれていない事です。
本当にそうなんです。
「公共」とはどういう事なのかほとんど理解されていません。
私がここで強調したいのは公共放送は政府ではなく一般の人々のために報道すべきだという事です。
私たち自らも問い直すべきなんです。
「自分の報道は人々の利益を代表しているのか?」「それとも政府の意見を代弁しているのか?」と。
あなたの答えは?もちろん私たちは政府ではなく一般の人々の代表であるべきです。
あなたが「一般の人々を代表する」と言う時それは国民の意見を反映するという意味でしょうか?しかし国民の圧倒的多数が戦争を支持している場合では戦争を支持するような報道が国民の意見を反映しているとも言えるのではないでしょうか?それでいいんですか?それは…その問題についてはまだ自分でも迷っています。
答えが出ません。
公共のための報道とはどういう事なのでしょう。
それは国民世論に沿った形で報道する事なのでしょうか?そもそも公共の利益を代表したり代弁したりするとはどういう事なのでしょうか?これもまた難しい問題ですね。
これは私たち公共放送は人々の要求に応えるメディアなのか人々に提供するメディアなのかという問題だと思います。
つまり人々が求めるものだけを放送すればよいのかそれとも人々が求めているものとは違っても知らせるべきものを放送するのかという事です。
国民が望んでいないあるいは要求していないものも提供すべきだという理由は公共放送には人々を啓蒙し人々が要求する以上のものを提供する使命があるからだという事でしょうか?はいそう言えると思います。
公共放送の役割で一番重要で欠かせない事は力を持った人々に対して批評的なジャーナリズムを行う事だと思います。
そして公共放送にはそれが許されているんです。
相手が政治家であろうと大企業であろうと詐欺や脱税だろうとどんな社会問題でも私たちは追及する事ができます。
これは私たちの特権です。
例えば民放だったらスポンサーがいて利益をあげないといけません。
しがらみがあります。
分かりました。
先ほど公共放送は中立を保ち続けるべきだという意見がありました。
ところが一方で公共放送には政治権力や企業に挑む役割があるというのが今の意見です。
それでは皆さんに聞きます。
公共放送の重要な使命の一つは政府やあらゆる権力を監視する事でもあるのでしょうか?
(チチェスター)私たちの使命は「公共の利益のための報道をする事」に尽きます。
それは政府や権力と衝突する事もあるという事です。
いいでしょう。
やっぱり問題提起をするっていうのと幅広い意見をできるだけ伝える。
いろいろな考え方があるいろいろな考え方をお持ちの方がいるっていうのをまずできるだけ細かい意見も拾っていくっていうのが私たちの使命なんじゃないかと思います。
分かりました。
最後に公共放送を外から見る立場にあるテリー伊藤さんの意見を聞いてみましょう。
公共放送としては何としても国民にたくさんの情報を教えていくこれが大きなポイントだと思いますね。
インターネットをやっている方というのはどうしても自分の興味のある事をずっとネットサーフィンしていくわけですよね。
すると食べ物で言うと好きな食べ物を食べていくわけです。
実は好きな食べ物以外にも世の中にはたくさんおいしいものがある。
そのおいしいものを公共放送はどんどんどんどん紹介していく。
まあいろんなチャレンジもできると思うんですよね。
そんなに成功するとは思いません。
失敗してもいいからどんどんそういう事をやっていく事それがやはり公共放送のこれからの生きる道だと思います。
私たちは公共放送の使命や目的とは何かその未来はどうなるのかという問題について実に多くの議論を交わしてきました。
まじめな番組と視聴率との関わりや公共放送として「わが軍の」「わが国の」という表現が適切かどうかという問題まで。
今日私たちが交わした全ての議論の根底にあったのは「公共」というものは本質的に何を指すのかどういう意味なのかという問いでした。
公共に対して責任を負うあるいは公共の利益のために尽くすとはどういう事なのかさまざまな考えが明らかになりました。
一つの考え方は公共のために尽くすとは人々の要求に応え人々が望むものを与えるという事でした。
しかし議論を進めるうちにそう単純な話ではない事が分かってきました。
公共放送には単に人々の要望に応える以上の目的があるのではないかという指摘がありました。
それは公共放送にとって視聴者とは単なる消費者ではないはずだという考えです。
視聴者は社会で起きているさまざまな事について時には衝突しながらも対話を重ねる参加者であるつまり単なる情報の消費者ではないという事です。
「公共」という言葉に深く考えを巡らせるうち公共放送のそのような役割についても理解を深めていく事ができました。
ではどうすれば公の対話の場を作り参加者と議論を深めていく事ができるのか。
このデジタル時代における「たき火」「キャンプファイア」のようなものつまり人々がその周りを取り囲みお互いのストーリーを共有し合う場をどう作ればいいのか。
更にそうした場でどうすれば社会の多元性を反映し異なる意見をも包み込む事ができるのか。
これは公共放送にとって難しいけれど挑戦しがいのある使命だと言えるでしょう。
新たなテクノロジーを使いこなしながらこれまでは受け身だった視聴者を民主主義の市民として参加を促していくのですから。
今日議論に参加して下さった皆さんが公共放送の使命に向かって日々格闘している姿に深い敬意を感じずにはいられません。
どうもありがとうございました。
(拍手)2015/05/31(日) 02:28〜03:17
NHK総合1・神戸
マイケル・サンデルの白熱教室「公共放送の未来を考えよう」[二][字][再]

今月世界の公共放送の担い手が東京に集まり、その課題について話し合った。番組では14の国と地域の制作者がサンデル教授と向き合い、公共放送の未来について議論する

詳細情報
番組内容
インターネットが急激な進化を遂げ、ニュースも映像コンテンツも、手軽に、好きなときに好きなように見られるようになった現在。情報を取り巻く環境が激変、多様化するこの時代に、公共放送は、どんな情報をどんな手段で発信する必要があるのか?  「メディアの“公共”」ってなんだろう!? 公共放送の未来をテーマにマイケル・サンデル教授が世界から集まる一流制作者たちと、本音トークで語り合う。
出演者
【出演】ハーバード大学教授…マイケル・サンデル,テレビプロデューサー…テリー伊藤,株式会社ニワンゴ代表取締役社長…杉本誠司

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – その他

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
英語
サンプリングレート : 48kHz

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