夢の超特急。
夢のマイホーム。
夢の海外旅行。
そして夢の所得倍増。
1960年代日本には夢があふれていました。
敗戦の廃虚から僅か20年余り。
あらゆる夢を実現したこの成長を世界は日本の奇跡と呼びました。
「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
戦後豊かさを求めてきた私たち。
今月は2回にわたってその歩みを見つめます。
今夜は日本を世界2位の経済大国に押し上げた高度成長の時代です。
明日は今日よりも豊かになれる。
日本人の誰もがそう信じる事ができた時代高度成長。
この高度成長はある理論によって導かれました。
その理論を打ち立てたのは一人の大蔵官僚下村治です。
下村は高度成長を振り返りこう語っています。
下村の言う千載一遇の幸運とは何だったのか。
日本は幸運をどう実力に変えたのか。
今夜は高度成長その奇跡の真実を解き明かします。
(2人)こんばんは。
私たちの来し方を見つめこれからを考えようという「シリーズ戦後70年ニッポンの肖像」。
どうすれば一人一人が本当の豊かさを実感する事ができるのか。
今月は暮らしそして人生に直結する経済の歩みを振り返ります。
こちらをご覧下さい。
日本の戦後70年を経済成長率で示しました。
今から時を遡ると本当に高い成長率が続いた時代があったんですね。
1955年から20年近くにわたって平均9.1%。
10%を超える事もありました。
高度成長期です。
当時外国から日本の奇跡と驚きをもって見られました。
なぜこの奇跡を達成する事ができたのか。
今夜はそこを解き明かし明日への指針を探っていきます。
高度成長は1955年にスタートしましたが実はその前終戦直後の廃虚から立ち直る状況の中でその礎は生まれました。
高度成長など誰も想像さえしなかった終戦直後の日本。
闇市でメモを片手にものの値段を書き留める男がいました。
男は大蔵官僚でした。
しかし病気がちで出世コースからは外れていました。
男の名は下村治。
後に高度成長理論を打ち立てる人物です。
闇市で下村はある発見をします。
客は乏しい財布をやりくりしながらも旺盛にものを買い求め店先には粗末ながらもものがあふれていました。
経済成長の最も大切な2つの要素を下村はどん底の日本に見て取りました。
この発見が後の高度成長理論の出発点となりました。
生涯黒子に徹した下村の晩年の貴重なインタビューが残っています。
下村の持論は経済成長の目的は単に数字を追い求める事ではないというものでした。
しかし下村の理論が所得倍増という言葉で日本経済を力強く牽引するまでにはまだ10年以上の時を待たなければなりませんでした。
そのころの日本経済はマッカーサーの占領政策により瀕死の状態に追い詰められていました。
最大の産業だった軍需産業は粉々に破壊されます。
更にマッカーサーは経済の民主化実現のため財閥企業にとどまらずあらゆる大企業の解体の準備を進めていました。
工業生産は戦前の4割にまで落ち込みます。
この容赦ない占領政策に対し待ったをかける人物がアメリカ本国に現れました。
ドレイパーはウォール街の投資銀行の経営者の出身。
関心事は日本の民主化よりもビジネスでした。
アメリカの投資銀行や大企業は戦前日本に巨額の投資を行っていました。
鉄道や電力などのインフラ建設や関東大震災の復興資金です。
その額は5億ドル。
現在の価値で実に80億ドルにも上ります。
何としても資金を回収したいドレイパーは再三マッカーサーに経済政策を見直すよう勧告しましたがマッカーサーは聞く耳を持ちませんでした。
この時瀕死の日本経済を救う幸運が訪れます。
東西冷戦の深刻化でした。
アメリカでは日本を反共の砦にするため懲罰よりも経済復興を優先させる考えが一気に台頭します。
ドレイパーは機を逃さず日本を訪れ占領政策の転換をマッカーサーに強く求めました。
会談から2年後に起こった朝鮮戦争で日本経済は大きく息を吹き返します。
懲罰から復興支援に180度方針を変えたアメリカは日本企業から大量の軍事物資を購入します。
鉄鋼機械などの生産が急拡大。
GNPの伸び率は1950年から3年連続で10%を超えました。
しかしこの好景気は長くは続きませんでした。
朝鮮戦争終結と同時に特需というカンフル剤は切れました。
日本にはまだ自力で成長する力はなかったのです。
一刻も早く国の成長を支える基幹産業を興す事が必要でした。
産業政策を担っていたのは通産省です。
官僚たちは連日議論を重ねていました。
資源のない日本は何かを作って生き残るしかありません。
目の前にある道は二つでした。
一つは繊維などの軽工業の強化。
軽工業は軍需産業に指定されなかったため戦後すぐに復興。
特に繊維は安い人件費を武器に輸出は好調でした。
もう一つの選択は重工業化です。
しかし自動車や家電など民間産業は戦争で大きく立ち遅れ戦後も工場の操業が制限されたため全く進んでいませんでした。
当時の議論の様子を官僚たちが後に語った貴重な録音が残されています。
官僚たちが選んだのは重工業への道でした。
いばらの道であっても付加価値が高い重工業の方が経済成長の伸びしろが期待でき大量の労働力を吸収できます。
官僚たちに重工業化に踏み切らせたのは戦争の遺産とも言うべき大量の技術者の存在でした。
日本は戦時中技術者の養成に力を注ぎ軍の教育機関や大学の工学部では多くの若者が学んでいました。
戦時中最高のエリートを集め技術者教育を施した組織がこの場所にありました。
僅か9年間だけ存在した学部です。
戦争遂行のために作られたこの学部は戦後間もなく廃止され幻の戦犯学部とも呼ばれました。
教壇には戦闘機の設計者や船舶のエンジニアなどが立ち学生たちは実践的な知識をたたき込まれました。
東京帝国大学第二工学部で学んだ経営者がいます。
91歳になる黒田彰一さんです。
戦争中に家業を継いだ黒田さんは今では海外に9つの拠点を持つ世界的な精密機器メーカーに育て上げました。
大学での専攻は兵器の製造を学ぶ造兵学科。
魚雷や大砲など兵器に使われる機械を精密に作るための理論を学びました。
戦争中はゼロ戦のゲージ精密測定機器の製造を一手に任されていました。
戦後も高い精度を誇るその技術は自動車造りに必要な特殊な金型や精密工作機械の開発に生かされました。
東京大学第二工学部の卒業生たちです。
最高峰の技術者教育は自動車家電造船など後の高度成長を牽引する人材を数多く育てていました。
通産省の官僚たちは戦争が図らずも育てていたこの技術者たちを生かす事で重工業化という困難な道を切り開こうとしたのです。
戦後再出発した国産自動車は…。
通産省が取り組んだのが自動車産業の育成でした。
自動車産業は鉄鋼ガラスゴムなどの裾野が広いため成功すれば重工業全体が拡大しばく大な雇用を生み出せます。
通産省は欧米に負けない車が生産できるまでの時間稼ぎとして徹底的な保護貿易を行いました。
輸入車には40%もの関税をかけました。
日本市場を狙う欧米から激しく関税の引き下げを迫られましたが盾となって自動車産業を守り抜きました。
通産省は後に日本のものづくりを大きく発展させる法律もこのころに制定しました。
最終製品を作るメーカーだけでなく大企業に部品を供給するメーカーも支援しようとしました。
資金繰りが苦しい中小企業でも低い金利で融資を受けられるようになり思い切った設備投資が可能となりました。
精密機器メーカーの黒田さんの会社もこの政策の恩恵を受けました。
当時の金額で2,000万円。
現在の価値で言えば1億2,000万円の融資を受けイギリスなどから最新の研削盤を購入。
海外の機械を徹底的に研究し改良を加えた独自の機械を開発。
更に技を磨きました。
日本の経済成長率は1955年8.8%を記録しました。
これが高度成長の出発点です。
しかし当時は誰もこの成長がこれから20年近くも続くとは考えていませんでした。
ただし一人を除いては。
後に高度成長理論を打ち立てる大蔵官僚下村治はこの好景気は歴史的な経済成長の始まりになる事を見抜いていました。
高度成長前夜終戦からの10年をご覧頂きましたけれどもこの時代に後の高度成長への重要な礎が作られていった感じがありますね。
そうなんですね。
スタジオには作家の五木寛之さん。
そして東京大学第二工学部のご出身で大手自動車部品メーカーデンソーの経営者だった石丸典生さんにお越し頂きました。
よろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
五木さんは当時はどんな気持ちでいらっしゃったでしょうか?戦後ちょうど中学生から高校生になっていくっていうその過程なんですね。
敗戦の詔勅を中学校の校庭で全員集まって聞いた時にそのあとにね校長先生が声涙ともに下る演説をされた訳ですよね。
日本は負けたと。
だけどその負けたのは日本人の魂が負けたんじゃないと。
精神が負けたんじゃないと。
つまり科学技術っていうかアメリカの物質と科学技術に負けたんだと。
だから今後君たちは大人になってアメリカに負けない科学技術の国にしなきゃいけないっていう訓示をなさったんですよね。
その事をこう何かね…一種の違和感も覚えながらすごく鮮明に覚えてますね。
石丸さんはそのころは大学生で。
そうですね。
第二工学部で技術を学ばれていたと。
その時の教育っていうのはどういう感じだったでしょうか?第一工学部と第二工学部の違いってよく言うんですけど何が違うかっていうとね第一工学部ではやっぱり学者といいますか基礎学を教える事が主眼であって第二工学部は若い先生が来たとか実際に工場で働いてらした先生が先生になったもんですからどちらかといったら実践的な教育が多かったんですよ。
戦後を引っ張っていくような人がたくさん生まれてくるのはそういう教育と関係ありますかね。
あると思うんですよ私は。
東大だけじゃなくて各大学も技術者の養成には戦時中から非常に力を入れておりましたしだからそういう技術者というものがたくさんいた訳ですね。
というのは文系の方は戦争に行って亡くなる方が多かったかもしれませんけど技術者は軍需産業のために戦争には行かない人が多かった訳です。
そうすると是非伺いたいのは兵器に通じていた技術を石丸さんどういう気持ちで新しい時代のものを生み出そうとしておられたんでしょうか?兵器だって平和産業だって基礎にある技術は全く共通したものですからね。
戦後はそのエネルギーは全部民間へ向かったと考えればいいと。
それはねある意味では敗戦と同時に日本という国がリセットされて全く一からスタートしたような錯覚があるんだけども本当はそうではないんじゃないかっていうふうに思うんですね。
戦後の日本の復興っていうのは戦前戦中に育てられた人材と技術と思想とそういうものが戦後に実を結んだっていうそれに尽きると思いますね。
大体技術っていうものは途切れないものなんですよ。
ちょっとそういう意味ではねいわゆる文化とは違うところがありましてね。
文化っていうのは突然変異がいくらでもできるんですけど技術っていうものは積み重ねなんですね。
必ず継続していくんです。
だから戦前のものが必ず引き継がれているんですね。
なるほど。
技術力があると。
しかもその技術力だけじゃ駄目なんで一つの経済をちゃんと立案して遂行していく上でのプログラムというか計画を立ててその計画だけじゃなくて経験が必要なんですね。
そういうものが全部戦後の驚くべき経済発展の礎になっているというふうに僕は見てる。
さあいよいよですね高度成長へ突入します。
復興期の日本がなぜ奇跡と言われるような世界も羨む成長を実現する事ができたのでしょうか。
日本は1955年から2年連続で高成長を記録していました。
しかし日本人の多くがいずれまた大きな落ち込みが来る事を覚悟していました。
大蔵官僚下村治は一刻も早く日本の成長を支える理論を打ち立てようと論文の執筆を急いでいました。
しかし死の病と恐れられた肺結核に倒れていました。
それでも病床で執筆を続けました。
3年間の闘病から奇跡的に回復した下村は論文を完成させました。
この理論を基に下村が導き出した予測は成長率10%。
しかもそれが10年近く続くという途方もないものでした。
しかしこの予測は後に実際に起こった成長と見事に一致しています。
病気で失った時間を取り返すかのように下村はあらゆる雑誌に寄稿し日本経済に潜む成長力の高さを訴え始めました。
1956年の「経済白書」も悲観論を語っていました。
有名な一節「もはや『戦後』ではない」。
この言葉はゼロからの戦後復興が一区切りついたこの時期もう今までのような経済成長は期待できないという意味でした。
当時経済企画庁でこの「白書」の作成に携わった金森久雄さん。
金森さんも下村の高度成長論は荒唐無稽だと感じていました。
(取材者)今日はよろしくお願い致します。
なぜ下村はただ一人日本経済の成長を信じる事ができたのか。
ケインズ理論を学んだ下村はそれを発展させ経済成長の起爆剤は民間企業の設備投資だという結論に至りました。
終戦直後から下村は工場を歩き貧弱な設備でも工夫を凝らし一つでも多くの製品を送り出そうとする生産者の姿を目に焼き付けていました。
生産意欲はあふれている。
あとは企業の設備投資を促す政策を打ち出しさえすれば飛躍的な成長が自然に始まると考えていたのです。
例えば鉄鋼メーカーが設備投資によって質のよい鉄を安く作れるようになれば鉄を使う自動車や家電製品も価格が下がる。
自動車が安くなるとそれを買い求める人々が増え自動車メーカーも増産のために設備投資を行う。
すると今度は鉄の需要が増え鉄鋼メーカーは新たな設備投資に向かう。
この循環があらゆる産業で起これば爆発的に日本の経済は成長する。
これが下村理論の核心です。
1958年夏。
孤軍奮闘を続けていた下村は一人の政治家と運命的な出会いを果たします。
政策の勉強会にブレーンとして招かれたのです。
待っていたのは衆議院議員池田勇人でした。
池田勇人は大蔵大臣や通産大臣を歴任するなど将来を嘱望された政治家でした。
しかし相次ぐ失言で次第に総理大臣の器ではないと見られるようになっていました。
総理の座を目指すため目玉となる経済政策を探していた池田は下村の高度成長論に飛びつきました。
池田は数式が並ぶ難解な下村の理論を完全には理解できなかったといいます。
しかし日本には高い成長力が潜んでいるという下村の考えには強く共感しました。
難解な下村の理論を誰にでも理解できる言葉に置き換えます。
所得倍増でした。
1960年7月。
所得倍増論を掲げた池田は総理大臣に就任しました。
池田は下村の理論どおり企業の設備投資を促すための政策を次々に打ち出していきます。
税収の6%にもあたる1,000億円という法人税と所得税の大減税を断行。
更に銀行の貸し出し金利も引き下げ企業が融資を受けやすい環境を作りました。
資金が生まれた企業はこぞって強気の設備投資に走りだしました。
精密機器メーカーの黒田さんの会社もこの時期大きな設備投資に踏み切りました。
2億円余りを投じて最新の工作機械を並べた工場を相次いで建設します。
自動車や家電用のモーターに必要な金型の量産態勢を整えました。
池田の政策から僅か1年で設備投資の額は全産業で28%自動車では35%増えました。
そしてこの時日本経済にとって最大の幸運が訪れようとしていました。
人口ボーナスという現象です。
終戦直後のベビーブームの世代が働く年齢に達していました。
しかも子どもは少なく高齢化も進んでいませんでした。
上と下の世代が少なく働く世代が極めて多いという人口構造の出現。
これが人口ボーナスです。
人口ボーナスは途上国が先進国に生まれ変わる過程でたった一度だけ起こる現象だといわれます。
働く世代は子どもにお金がかからず高齢者向けの負担も少なく収入の多くを消費と貯蓄に回す事ができました。
人々の旺盛な消費は大量生産される製品をのみ込み貯蓄は銀行を通じて企業の設備投資の資金に変わります。
企業の大増産と巨大な国内市場。
いよいよ高度成長が本格的に始まります。
企業は欧米から猿まねとバカにされようとたゆまぬ技術革新で大量生産とコストダウンを実現。
消費者は毎年重さが増す給料袋を手に次は何を買おうか悩むのが喜びでした。
2軒に1軒しかなかったテレビはほぼ全ての家庭に行き渡り高根の花だった自動車も3/3の家庭が持つようになりました。
豊かさを求めて走りだした国民を池田のだみ声は鼓舞し続けます。
高度成長真っただ中の1964年。
東京オリンピックが開催されました。
この開会式への出席が池田の総理大臣としての最後の仕事となりました。
がんに侵されていた池田はこのあと辞任を表明し翌年息を引き取りました。
池田の死から3年後の1968年。
日本のGNPは52兆円を突破し所得倍増を達成。
世界2位の経済大国に躍り出ました。
一人の天才の理論が日本が蓄えてきた実力を引き出し一瞬の好機を捉えました。
実力と幸運がこれ以上ないタイミングで結び付いて成し遂げられた日本の奇跡でした。
1960年代を中心に高度成長期の日本をご覧頂きました。
所得倍増の時代想像つかないんですけれどもどういう時代だったんでしょうか。
とにかく皆さんが欲しいものがたくさんあったといいますかまたそのたくさん欲しいものを企業が提供できたっていうのがやっぱりその最大の原因だと思うんですよ。
とにかく需要があれば企業はものを必死になって作りますからね。
今伺ってて戦争中のスローガンの一つに「欲しがりません勝つまでは」。
あったあった。
もう嫌っていうぐらいね。
…で戦争は勝てなかったでしょ。
そのかわり経済的な復興を成し遂げて一応再び立ち上がったっていう実感があったからさあこれで欲しいものは買っていいんだっていうそういう感じになったんじゃないですか。
いやもうそれは欲しいものは山ほどありましたよ。
いろんなものがどんどん出てくるし。
物質的な刺激されるものが多すぎて本当に夢にまでいろいろ見ましたもの。
データがあるんですけれども乗用車は60年から70年の10年間で生産台数が19倍輸出が100倍に…。
100倍!すごいですよね。
どうしてここまで強い産業になる事ができたと…。
需要だと思いますねみんなの自動車に乗りたい。
ガールフレンドでも隣に乗せて湘南の海岸を音楽流しながら走りたいとかねエアコンがついてりゃ最高とかってあるじゃないですか。
ちょっと同じような話ですけどね60年代は日本の住宅は非常に貧弱だったんです。
クーラーはないし家庭用には。
ところが自動車にはちゃんとヒーターもあればエアコンもあるんですよ。
立派なオーディオがあってうちの奥さんに邪魔されずに一人楽しむ事ができる。
そのような事でも自動車は売れたと思いますよ。
単なる足じゃなくて。
人がいて欲しいというのがありそれに応えるという事でこう…。
そうですね。
人間に欲望があってそれに対する応えるだけの能力があったと。
だから高度成長ができたんです。
池田さんは所得倍増って言いましたよね。
政治生命懸かってる訳ですよ。
相当無理して国民の実質賃金を上げたと思うんですよ。
実質賃金が上がるという事は企業の利益をある程度圧縮しなきゃいけないんです。
つまりそこはね労働者にたくさん払って会社のもうけとか剰余金とかを積み立てたりしないで苦しくても頑張っていこうと。
そこには今最近強欲な資本主義とかっていうふうにいわれてますけどある健全なモラルがあったと思うんですよね。
それは働く人たちの方が大事だっていう形で。
下村治さんは「千載一遇の幸運を生かす事ができた」とおっしゃってましたけれども…。
戦争中に神風が吹かずに戦後に吹いたっていう感じがありますね。
運というのはひとりでに来るもんじゃなしにねこちらからつかみに行かなきゃないと私は考えとるんですよ。
運も確かにありますよ。
だけど幸運はできるだけ自分でつかむように努力をしなくちゃいけない。
その努力はどうしてできるかっていうとふだんからの実力による訳ですよ。
実力がなければ幸運だってつかめないですよね。
これからは幸運は来るんでしょうか?いつまでももう一度成長期が来るっていうふうに考えるのは間違ってると思います。
今私たちは戦後70年と言いますけど70歳になってるっていうふうに思いたいんですよ。
この国全体が。
70歳というのは人生の円熟期に入っていくところですよね。
若い人と同じように体力を駆使しようとしてもそれは無理ですし円熟した人間ができる事っていうのがあるんです。
それは20歳の青年には無理な事なんです。
その事をちゃんとやった方がいいなというふうに思いますね。
お二人どうもありがとうございました。
高度成長のあまりに速いスピードは社会にゆがみも生んでいました。
「くたばれGNP」という言葉も生まれ成長自体を否定する声が出てきます。
所得倍増という目標を達成しもはや経済で人々の心を一つにする事は難しくなってきました。
陰りが見え始めた高度成長に引導を渡したのが1973年の石油ショックでした。
戦後初めてマイナス成長を記録しました。
かつて誰よりも強く日本の成長力を信じた下村治。
一転してもはや経済成長は望めないと主張し始めました。
企業の生産性はピークに達したと見ていました。
しかし下村の予測は外れました。
予期せぬ巨大な力が出現したのです。
石油ショック後企業体質を強化し再び成長軌道に乗った日本経済に世界からマネーが押し寄せます。
地道なものづくりをあざ笑うほどの力を持つマネーの誘惑に日本は駆られていきました。
そして今度はマネーが日本の右肩上がりの数字を支えていく事になるのです。
「戦後70年ニッポンの肖像」。
2015/05/30(土) 21:30〜22:19
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて「第1回」[字]
敗戦からわずか20年余りで世界第二位の経済大国に上り詰めた日本。奇跡と称賛された復活劇は時代の産物なのか、真の実力なのか。高度成長の実像と今に生かせる教訓を探る
詳細情報
番組内容
第二次世界大戦の敗戦からわずか20年余りで世界第二位の経済大国に上り詰めた日本。世界史上、類を見ないスピードで復興し高度成長を成し遂げたその復活劇は日本の奇跡と称賛された。あの奇跡はなぜ起きたのか。日本人の実力だったのか、それとも時代の産物という幸運に過ぎなかったのか。高度成長論を打ち立てた大蔵官僚の下村治を始め、膨大な記録や資料をひもとくことで高度成長の真の姿を明らかにし今に生かせる教訓を探る。
出演者
【ゲスト】デンソー顧問…石丸典生,作家…五木寛之,【キャスター】三宅民夫,首藤奈知子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ニュース/報道 – 報道特番
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