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ボンダイ

若者論から国際論まで幅広くテーマに。不寛容より多様性に富んだ世の中の方がいいじゃん!

沖縄は植民地を脱却できるのか

matome.naver.jp

 沖縄県知事はワシントンを訪れている。

 沖米会談を前に同行団はアメリカの市民団体との意見交換会を実施。辺野古のある名護市の稲嶺市長が「植民地政策」にほんろうされる沖縄の窮状を訴えたという。会談には那覇市長らも出席している。

 

 沖縄は植民地であるというのは事実だろう。それは極東の歴史を振り返れば分かることだ。

 戦時中の日本では「貧困」「抑圧」「喪失」という「3つの不幸」を経験している。「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが象徴するように、体制と隣組的な国民の相互監視によって過剰な貧困状態が強いられた歴史がある。政治的な抑圧は言わずもがな。そしてなにより、空襲で街を失ったり、家族や「戦友」が死没するという喪失がいくらでもあったのだ。

 敗戦でマッカーサーがやってくると、7年間のアメリカ統治時代を迎え、日本人はこれらを脱却することになる。ご飯もろくに食べられなかった子どもたちは、ジープに乗った米兵からオヤツをねだったりした。ラジオからは気が滅入るような軍歌の代わりに自由で華やかな洋楽のジャズが流れるようになった。軍国主義者たちは戦勝国によって裁かれ処罰をされることになり、日本国憲法と民主主義を与えられることになった。米軍に国防をアウトソーシングすることになり、自前の軍隊を放棄したため、若い男子が徴兵に駆り出されて家族を失う心配もなくなった。このアメリカによってすべての「戦時中」の不幸を清算した「戦後」の基盤をもとに、そのまま朝鮮戦争特需に端を発する高度成長期により豊かになり、現代に続く右肩上がりの階段を駆け上がることになる。

 日本人の大半は「護憲派在日米軍を肯定する」立場をとっている。右翼の場合「改憲派」で、左翼は「在日米軍」を認めないため、共産党や次世代の党が政権与党になることはないのだが、自民党内に護憲派がいたり、社会党民主党政権でも日米安保は引き継がれたのも、国民がそれを壊すことを許さないからだろう。なぜかというと、それが戦後秩序の基盤であるからだ。3つの不幸で辛酸をなめた戦時中を二度と繰り返したくないというものが、DNAに刻まれているのだ。憲法を変えて国防軍を作ろうとする安倍首相が3年前からやたらと愛国アピールしているのは、そういう表面上の取りつくろいがなければ、やっていることが「壊国」にしか見えないからだろう。小泉首相や橋下市長のように、構造改革に取り組む政治家ほど保守派の振りをするのと同じことだと思う。国民の大半は安倍首相は嫌いだがオバマ大統領には贔屓に見てしまうのは、「日本の歴史修正主義化を警戒するアメリカ」の代表者だからだ。戦時中を排除していったマッカーサーとダブるのである。

 

 

 ただし、ここで日本の立場に矛盾する存在が出てくる。それが沖縄だ。沖縄は日本本土と大きく違い、もとは琉球王国である。琉球処分で藩閥政府に編入させられた植民地的経緯がある。彼らが本土の人間を「ないちゃー」と言うのは「内地」を意味する方言である。戦前の日本では内地(古来からの国土)と外地(植民地)を分けて捉える概念があり、北海道などの後から編入した国土では今も本土を「内地」と呼ぶ方言が根付いている。植民地とは、宗主国(やその国民)に比べ冷遇されるもので、貧困や不自由の問題があるものだ。つまり編入された時点で主権を「喪失」しているわけで、日本本土が1940年代にのみ経験した不幸を、明治時代からずっと経験しているということになる。これは、同じく植民地であった朝鮮半島や台湾などでもそうだ。

 敗戦後、朝鮮半島や台湾は日本から独立した。しかし沖縄はアメリカ統治下に置かれ続けており、本土のような高度成長期を経験できなかったという。マッカーサーを礼賛すらした本土の日本人たちがいた一方、沖縄のアメリカ統治時代は対照的に過酷であったということは「銃剣とブルドーザー」との言葉から察する通りだ。戦後もなお貧困で、アメリカ支配のもとで抑圧状態に置かれ、そして国土も奪われ続け、時に命も失われていたのが沖縄の戦後史である。日本へ返還されてもなお米軍基地が存続し、さらに辺野古に新基地建設を行うのだから、沖縄は極東に残る最後の植民地と言ってもいいだろう。そして今も47都道府県で最も貧困にあるのが沖縄だ。

 この沖縄の立場で地域の理想を考えれば、3つの不幸を脱するためには米軍基地の撤退と、自己決定権の確立が必要不可欠だろう。貧困については、すでに基地経済依存を脱却しつつあり、たとえば那覇空港から日本本土やアジアをむすんだ観光業や物流の促進に注目が寄せられている現状がある。つまり地域に見合った収益モデルを確立することができさえすればいいのだが、現状の日本の中央集権体制において地方の「親離れ」は不可能だ。この歯がゆい現状を、仲井眞時代には沖縄振興バラマキで何とかつなぎとめられていたが、それが翁長県政になって減額されてしまったら、独立機運が高まるのは必然だろう。

 

 私の住んでいる神奈川県も米軍基地だらけで、家の真上を毎日戦闘機がバンバン飛び交っている。

 しかし、神奈川が沖縄のように反米化せず、むしろアメリカびいきが多いのは、先述したような戦時中のトラウマがあり、基地をめぐる印象が沖縄と正反対になっているのではないかと考えている。米軍基地はどれもみな銃剣とブルドーザーで作ったものではなく、忌まわしき軍国主義の象徴だった旧日本軍基地がアメリカに接収され、富と自由をひっさげてマッカーサーがパイプをくわえて降り立ったという印象がある。湘南の海岸文化も、横浜のハイカラな文化もだいたいみんな米軍に由来しているのである。そういう華やかで自由で満たされた文化の存在が、戦後多くの人が上京して神奈川県に家を求めた理由に繋がっているんじゃないか。基地開放祭があれば、あの朝日新聞だって地域面で楽しそうに行事を伝えたがるものだ。

 ちなみに首都圏の米軍基地は神奈川と東京にしかない。埼玉や千葉は基地をめぐる騒音問題や軍規を逸脱した米兵の不祥事やテロのリスクなどは存在しないものの、ブランド力も人口も低いのである。

 

 だから、日本国と沖縄県はモメるのである。

 首都圏の人間にとって米軍基地撤去は現実的な話ではない。それがなくなれば、東京の防衛力は激減してしまうことになるからだ。もっといえばそれは日本本土の都合そのものであり、沖縄の基地は防波堤としてとらえられている。それを無くすということはあまりにありえないことで、週刊金曜日的な団塊世代の左翼などにしか理解されないものだ。

 しかしそれは日本の都合であって、沖縄からすれば、そもそも基地が地元にあることがおかしいという認識が一般論なのではないだろうか。左翼文化の全盛世代でアメリカ統治時代に青年期を過ごしている翁長知事だけのことではなく、それ以下の若い世代であっても、概ねの本音は同じなのだろう。ただし、米軍絡みの商売をしている人もそこらじゅうにいるため、基地問題の話はタブーになり、我々本土の人間からすれば「オール沖縄と言うわりには一般県民の民意が見えないじゃないか」とつい言ってしまうような現状につながるのだろう。

matome.naver.jp

 「朝生」の沖縄特集以降、SNS上で基地問題などを理由に沖縄県をバッシングする書き込みが相次いでいる。どれもパッと見た感じ政治系ゴシップくらいしか話題のないような「寂しい本土のオッサンがくさしている」投稿のようだ。

 だが、それに反論している沖縄県民の若者たちがいるのだ。自分のプリクラや、友だちとの集合写真をプロフィールにあげたようなごくフツーの若者が、フツーのくだけた話し言葉で、理路整然と、あるいは人によってはユーモアまじりに、一つ一つ「それは違う」と伝え続けている。リア友同級生コミュニティを通じ、悪質な書き込みは見つけ次第「拡散」されているようだ。多いものでは500近いRTもある。こうしたネット沖縄差別について問題提起するような投稿も盛んになっている。

 この若者たちのツイッターを見るだけでも「オール沖縄」の民意が確かなことは明らかではないだろうか。これを見ても「こんなの普通の若者じゃない!活動家の工作アカウントだ!」と言うのだったら重症だろう。

 たとえば石原慎太郎がリベサヨに叩かれたり、舛添要一ネトウヨにバッシングされることはいくらでもあるが、「それを選んだ東京都民がいかにひどいか」などと話題にされたところで、沖縄より遥かに人口が多いはずの東京の若者が絡んでくることは全くあり得ないことだ。だが、沖縄の場合は違うのである。

 

 この勢いでは本当に沖縄が独立しかねないので、日本政府としては、どこかで望ましい妥協点を見つけ、決着をつける必要があるんじゃないかと思う。改憲保守の面々にしか通じない狭くて内向きな「基地反対派は一部の左翼活動家だけだから」論に終始していれば、どこかで痛い目をみてしまうだろう。