【寄稿】風水学で読み解く「関西勢力」の野望

 山路が言及した日本の南と北とは、ほかならぬ関西と関東を指している。山路の言葉の通り、関西と関東の地域感情は極めて対照的で、韓半島(朝鮮半島)の嶺南(慶尚道)・湖南(全羅道)の違いにとどまらず、韓国・北朝鮮ほどの違いがあるとまで言う人物もいる。関西地方は、韓国と東海(日本海)・南海を共有し、いわば「同じ井戸」を使っているのに対し、関東地方は太平洋に面しており、韓国との接触はない。

 「同じ井戸」を使っているとなれば、愛憎関係が生ずるのも当然だ。壬辰(じんしん)倭乱(文禄・慶長の役)を起こした勢力は、まさしく豊臣秀吉を中心とする関西の勢力だった。当時、徳川家康を中心とする関東の勢力は朝鮮侵略に参加しなかった。豊臣秀吉の死後、関ケ原の合戦(1600年)で関東の勢力が勝利し、徳川幕府が誕生した。それから260年、朝鮮とは平和共存の時代が続いた。

 関ケ原の合戦で敗れた関西の勢力(秀吉の子孫)は、その後どうなったのだろうか。彼らは日本の西部や南部の辺境に追放され、息を潜めて報復の刃を研いでいた。1860年代に起こった明治維新は、本質的に、徳川の勢力に対する関西勢の反撃だった。その後、権力を奪い取った秀吉の子孫たちは、幕府ではなく首相内閣制によって現在まで権力を握り続けている。その核心の一つが、長州だ。

 初代首相・伊藤博文から、岸信介を経て、現在の安倍晋三首相を輩出した長州。この人々の永遠の師匠が吉田松陰で、松陰も長州の出身だ。安倍首相は、首相になった後、吉田松陰の墓参りをした(2013年)。

 吉田松陰は当時、明治維新の主役たちに「朝鮮をとがめ、かつて盛んだったころのように朝貢させよ」と教え込んだ。後の征韓論の萌芽(ほうが)となったが、この教えは、ほかならぬ260年前の豊臣秀吉の考えだった。いま一度、関東の勢力が新たな「幕府」を立てないかぎり、朝鮮に対する関西勢力の野望がとどまることはないだろう。

キム・ドゥギュ又石大学教養学部教授
前のページ 1 | 2 次のページ
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) The Chosun Ilbo & Chosunonline.com>
関連フォト
1 / 1

left

  • 【寄稿】風水学で読み解く「関西勢力」の野望

right

関連ニュース