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【神奈川】

焦土の中で 横浜大空襲70年(3) 焼き付いた光景、絵に

横浜大空襲で自宅に向かう際に見た風景の絵を手にする増田さん=横浜市戸塚区で

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 真っ赤に燃える地面と澄んだ青空、しかし上空は真っ黒い煙が覆い尽くす−。

 一九四五年五月二十九日の横浜大空襲の日、家族を案じた増田成之(しげゆき)さん(89)=横浜市戸塚区=は仕事先の鉄工所がある鶴見区から、自宅のある西区戸部に向かった。逃げる人とは逆の方向だ。強くなる熱風。立っているだけで靴が溶けてしまうほど熱した地面。焦げ臭いにおい。増田さんは、目に焼き付いた光景を絵画に描き続けている。

 「良く晴れた日なのに、横浜の上だけ真っ黒。どしゃぶりの雨が降っているように見えた」。自転車をこぎながら見上げると、何かが光って見えた。紙吹雪かと思い見ていると、真っすぐ落下し、目の前の地面に突き刺さった。火災で巻き上げられた金属片で、「当たったら死んでいた」と肝を冷やした。

 増田さんはこれより前にも、空襲の怖さを身近に感じていた。三月十日の東京大空襲で、都内に住んでいたおい=当時(3つ)=が亡くなった。バケツリレーで消火する防空演習の無意味さを知り、「みんな死ぬんだ」と悲観的になった。せめて遠くにいる親族に会っておこうと、長崎県に滞在していた四月中旬には、父と経営していた鶴見区の鉄工所が空襲に遭い、全焼した。

 大空襲に見舞われたのは、焼け跡の鉄工所を一人で整理しに行ったとき。東京大空襲の経験から「昼間の空襲はないと思っていた」が、「バサバサ」「バリバリ」という音が聞こえた。振り返ると「黒い空」が目に入り、自宅を目指して自転車で走りだした。

 「行っても無駄だ」「死にに行くつもりか」。顔がすすで黒くなり、洋服もぼろぼろの人たちが声をかけてきたが、無視してこぎ続けた。

 道中、側溝で子どもを背負ったまま息絶えた女性や、炭化して男女の区別がつかない遺体もあった。生麦(鶴見区)の辺りから火の手がますます激しくなった。遠回りして夜に自宅に戻ると、全焼していたが、家族は近くの山に避難して無事だった。防空壕(ごう)で、隣人の母子が寄り添うように亡くなっていた。

 三日後、鉄工所の片付けに通い始めたものの、終戦まで何度も命の危険にさらされた。突如として米軍の戦闘機が現れ、機銃掃射で狙い撃ちされる。そのたびに防空壕に入り、入り口を鉄板でふさいで銃弾を防いだ。

 通勤途中の横浜駅東口付近では、多くの遺体が折り重なるように置かれ、火葬されていた。「三日三晩、ずっと火葬していた」。遺体を見ることに何とも思わなくなっていた。

 戦後、増田さんは「死」に慣れさせる戦争の怖さに向き合うとともに、自身の心の傷も自覚した。探し求めていたおいの墓は二十年前、谷中墓地(東京都台東区)にあると分かり、体の調子が良かった数年前まで参拝を続けた。

 絵画で伝えるようになったのは十年前から。旧日本軍を扱った映画やドラマが人気を博すことに違和感を覚え、興味本位で見たら「寒けがして」直視できなかった。ドラマが人気なのは、「戦争に現実味を感じる人が少なくなっているから」だと思った。現実感を伝えるため、「生きている限り、体験を伝えたい」とこれからも制作を続ける。 (志村彰太)

◆空襲の絵画作品は貴重

 増田さんの作品は5月31日まで横浜市神奈川区で開かれた「平和のための戦争展inよこはま」で展示された。戦争展では写真などの史料も展示されたが、絵画を手掛けたのは増田さんのみ。空襲中に地上で撮影された写真はほとんどなく横浜大空襲を伝える絵画は貴重なものとなっている。

 「横浜の空襲と戦災」(1975〜77年、全6巻)には、横浜大空襲体験者によるスケッチが10枚ほど掲載されている。しかし、空襲の記録を所蔵する市史資料室は、これ以外に空襲の絵画作品を確認していない。

 東京大空襲や原爆については、地元の資料館などが体験者の絵を収集し、分析している。横浜市史資料室の担当者は「東京や広島の取り組みと比べて、絵画を残して収集しようという活動は低調になっている」と語っている。

 

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