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【神奈川】

横浜大空襲70年 500機のB29 昼間に丘陵間狙い短時間爆撃

5カ所の平均弾着点を示す写真。東神奈川駅付近、平沼橋、港橋、吉野橋、大鳥国民学校を中心に半径約1キロの円が描かれていた(米国立公文書館所蔵、工藤洋三氏提供)

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 横浜は一九四四年以降、軍需工場を狙ったB29爆撃機の攻撃を受けたが、当初は四五年三月の東京や名古屋のような大規模空襲は免れていた。「市街地が丘陵で分かれているため、(東京などのような)夜間空襲では十分な効果が出ないと考えた」(今井清一・横浜市立大名誉教授)とみられている。

 米軍資料の研究者らによると、五月二十九日の横浜大空襲では、「平均弾着点」と呼ばれる目標の円が、丘陵や海で仕切られた五カ所にそれぞれ設定された。出撃機に割り振り、次々に焼夷(しょうい)弾を落として焼き尽くす作戦が立てられた。

 横浜は市街地が焼け残っていたため、一時は原爆の目標都市にもリストアップされたが、五月に解除。実行が決まった大空襲は、目標を正確に狙うため、昼間に行われた。直前の東京空襲で迎撃機による被害が大きかったため、戦闘機を護衛に付けた。

 沖縄戦の支援に回っていた部隊も戻り、東京大空襲の約三百機を上回る約五百機のB29が出撃。東京大空襲の半分の約一時間で一・五倍の焼夷弾を投下したため、激しい火災が起き、一酸化炭素中毒や窒息の死者も多かった。横浜大空襲によって、米軍は五大都市すべてに大空襲を行ったことになった。

 横浜の空襲を記録する会の手塚尚さんは「短時間に、味方の被害は少なく、効率的に爆撃しようとした。戦争が起きれば、庶民がこういう形で巻き込まれることを伝え続けなくてはならない」と話している。

 

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