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【サイパン戦跡】
「戦前も戦後も日本が開発した」 感謝を忘れないチャモロ人
台湾の新高製糖取締役だった松江はサイパン島を調査してサトウキビ栽培に理想的な環境であると確信。日本各地から集めた農業労働者を使って密林を開墾してサトウキビ畑を整地し、全島に運搬用の鉄道を敷設するほどの経済的繁栄をもたらした。鉄道は28両の長大編成で最後の1両は客車になっていたそうだ。
銅像は1934年に従業員たちがお金を集めて建てたもので戦時中に壊されることはなかった。ルイジアナ州立大出身のため米本土から「決して壊すな」という命令があったとされるが真偽は定かではない。
土台を含めれば相当な高さであるにもかかわらず、銅像の顔部分に複数の銃弾跡が痛々しく残る。米兵が遊びで狙い撃ちしたそうだ。当時、公園は彩帆(サイパン)香取神社の境内になっていた。3週間続いた上陸に伴う戦闘ではテントが張られ野戦病院になったという。
内地にいた松江はサイパン陥落の知らせに銅像も当然破壊されたものと思っていた。戦後にサイパンを訪れた息子から銅像が無事だったことを聞き、大変驚いたそうだ。
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戦後70年に合わせてサイパン島を訪問した。激戦地に残る戦跡を紹介する。(産経デジタル 長浜明宏)