結婚恋愛「マイとボク」
芸能人シリーズ-5 翁長孝雄さん。坂上次郎さん。
10/07/16
By 千里一歩さん
昭和63年、日本はバブル景気に湧いていた。が、零細企業のボクのところでは、まったく関係がなかった。それどころか、毎月100万円以上の負債を増やしながら、ボクはマイに「最後の勝負だ。協力してくれ」といって、経理のやりくりをまかせていた。
ボクは「こんな時こそ積極的に」と、木造立ての3階から、千代田区内神田の和光ビルという立派なオフイス3階に事務所を構えていた。家賃も前の3倍である。見かけはよいが、毎月の支払いは恐怖であった。それに、せっかく見栄えのよいビルへ移転したのに、ボクは、ほとんど練馬区の町を歩き回る日々であった。自宅も練馬区に移っていたから、いま思えば、神田でオフイスを借る必要はなかったのである。
ボクのタウン誌づくりは、少しずつ地元の評価を得ていた。毎月、2件平均「広告を出したい」という電話が入る。「スポンサーを紹介するよ」という人が現われる。保守的な町に、これまでにない新鮮な情報誌を出すことに共鳴する人が出てきたのである。その誌つくりで当時、評判だったのが、ほかならぬ「芸能人シリーズ」であった。「練馬区に、こんなに芸能人が住んでいたの」という人々の驚きがある。行政も掌握していなかった本田博太郎さんや、タカラジェンヌのにしき愛さん、NHK大化ドラマ「武蔵坊弁慶」で女忍者を演じた岡安由美子さんを、つぎつぎと取材した。
昭和63年4月は、東映㈱取締役、東映東京撮影所所長、東映美術センター社長、㈱東映テレビプロダクション社長をしていた翁長孝雄さんをインタビューした。前任は京都撮影所所長代理だから超エリート。少年時代、映画「七つの顔」(片岡千恵蔵主演)を見たと話すと、当時の製作課長は岡田茂社長(当時)だったと教えてもらった。
「武士道残酷物語」「宮本武蔵」など萬屋錦之助や美空ひばりの映画製作をプロデュースした大物である。その後、座談会に出席してもらい「照姫まつり」の東映参加が決定的になるなど、何度かお会いすることになった。この実績が、芸能人取材を容易にしたことはいうまでもない。練馬区内在住だけでなく、同撮影所で撮影する人気俳優も、映画の宣伝という名目でできるようになった。それでもボクは、地元にこだわった。タウン誌の編集方針が変わってはいけない。
同じ昭和63年4月、マイが調べてアポをとった坂上二郎さんをインタビューした。「税金の仕組みや使い道がわからない」と思わぬ政治批判をする二郎さんに驚いたことを覚えている。「日曜日の国会討論会をテレビを見てると、自分が正しくて他党がどうだとかいっている。じつにちいちゃい。うん。日本をよくしようという気持ちはわかるんですが、政治がちいちゃくなる。日本を豊かにするには、どうすれがいいかという身近かな問題からいかなきゃ」「私達も税金で苦しんでいますからね。(中略)そのために税理士がいるのですが、こんなものは要らないようにすればいいんです。私より収入の少ない人がベンツに乗っている。税理士は、「坂上さんはベンツに乗れません」という」と。とどまるところがなかった。
(写真はボクの撮影)坂上次郎さん