2015年06月01日

オールド・セイラーの眼 (27)


遅くなりましたが、バタバタしており十分な時間が取れませんので、今回はごく簡単に。

◎ 第62巻 「那智」

シリーズ第62巻は、「妙高」 型の2番艦 「那智」 で、1941年の設定とされています。

062_Nachi_model_01.jpg

062_Nachi_cover_s.jpg

例によってモデラーさんとしてモニターをされているHN 「おまみ」 氏の評価記事は既に次のURLにUPされております。


“艦橋のリサーチミスがなければ良作だった妙高を超えていました” との評価ですが、“考証に関しては初期から中期にかけては向上が見られましたけど、それ以降は再び下がり調子”と付け加えられています。

これについては、大筋としては私としても全く同意できるところです。


最も肝心なところは、本シリーズでは 「妙高」 型4隻中の2隻しかラインナップされなかったことです。 第17巻の 「妙高」 が1944年設定 (迷彩塗装の1945年設定は避けた?) はよしとして、ならば何故もう一隻が1941年設定の 「那智」 なのか?

1944年ならば公式図が残されていますし、就役後の姿なら写真なども揃っています。 特段のトピックがあるわけでもないし、史料や写真がほとんど無く不明な点の多いこの年代設定には大いに疑問の残るところです。

私がモデル・アドバイザーの一人であった時には、可能な限り年代と艦型にバラエティさを出すように要望してきました。 それが本シリーズの一つのウリにもなっていた筈です。

だとすると、1944年設定の 「妙高」 に対して、就役時の 「那智」 あるいは訪欧時の 「足柄」 でも良かったのではないでしょうか? このことは 「那智」 に限らず、他の巻でもちょっと設定が中途半端過ぎるところが目立つような気がします。


そしてモデルの出来についてですが、これはおまみ氏も指摘されているように、艦橋の形状が誤っている、ということに尽きるでしょう。 なぜこのようなことになってしまったのかちょっと理解に苦しむところです。

艦橋というのはいわば艦船の顔です。 これでは1941年どころか、後の改造後の姿でもありません。

062_Nachi_model_02.jpg

Nachi_photo_1942_01_s.jpg  nachi_bridge_draw_1941_01_s.jpg

企画、考証、モデル・デザインのいずれの段階でも誰も気が付かなかったのでしょうか?

前部マスト、1番砲塔測距儀覆、舷窓、高角砲などなど挙げればキリがありませんが ・・・・ これら全ては艦橋の誤りに比べれば小さいことです。

そして2・4番砲塔上のアンテナの表現などは、まあ好みの問題としても、折角1・2・4番砲塔と3・5番砲塔との天蓋形状の違いさえそれなりに表現されているのに、です。

全体の見栄えとしての製造上のレベル向上が見られているだけにいかにも残念なところと言えます。

さて、いよいよ第63巻は待望の 「瑞鶴」 ですが ・・・・
posted by 桜と錨 at 18:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 世界の軍艦コレクション

2015年05月31日

大空への追想 (263)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

神官の御霊昇天の音声で壮厳な慰霊祭は無事終了し、神官の退場と入れ替えに呉音楽隊が静々と入場して来た。 これから追悼式、献花に入る前の一時をぬって音楽隊長の指揮棒一閃、壮重な軍楽が響き渡り、沈みがちな式場の空気を一変させてくれた。

しかし今日はお祭りではない。 曲目はすべて我が胸を打つものばかり、「予科練の歌」 になると、もう総員の顔がくしゃくしゃになっていた。

追悼式に入り、音楽隊の奏楽裡に一同敬虔な黙祷を捧げる。 あの友、この友の笑顔が浮かんできて涙がとめどなく流れてくるが、拭ういとまもなかった。

最後に “同期の桜” の合唱になった。 神殿から御霊達の歌声も一緒に混じっているような気がしてならない。 こみ上げてくる感情も涙の声もともに合唱の中に皆消されていった。

最後は詫間基地の海に花束を投げて、亡き戦友の冥福を祈ることにした。

1730、飛行艇の第三スベリ跡に集合した。 ここにあった3つのスベリから飛行艇隊は出撃していったのである。 梓特攻隊員も第一スべリから出ていった。 基地の海は青く静かに広がっていた。

263_01.jpg

かつて二式大艇が波を蹴たてていた発着海面には、漁船が数隻操業していた。 3つのスべリの遥かかなたには、水平線がくっきりと浮かび、間もなく日没を迎える西の空にはあかね雲がたなびいて美しい影を基地の海に宿していた。 夕日が既に水平線上にかかって、基地の海はまことに美しかった。

音楽隊の奏でる “海ゆかば” の曲が静かな海面上に流れてゆく。 静かに菊の花を投げて敬度な祈りを捧げた。 あちこちから起こるすすり泣きが耳にしみる。 静かに沈みゆく夕日は、あたかも飛行艇戦没者の御霊にも似て壮厳であった。

“海ゆかば” の曲の余韻が消え、真っ赤な夕日が姿を没するとともに慰霊祭のすべての行事は終了したのである。


この日は総員詫間町に宿泊の計画であり、1800 から憩親会に入った。 式典とは違ってリラックスはしたが、慰霊祭とはまた異なった感情の波に襲われた。

総員が在天の御霊と共に乾杯はしたものの、飲んだり食べたりロに入れることよりも、口から飛び出す思い出話の方が先行した。

本日天候に恵まれ、すべての慰霊行事を壮厳裡に順調に進め得たのは、在天の御霊の加護があったからこそと誰もが感謝した。

今まで民間の慰霊祭において、伝統を引き継ぐ飛行機が慰霊飛行を行い、軍楽隊が奏楽するような壮厳な式典が果たしてあっただろうか、海軍飛行艇隊もって瞑すべしである。

今日一日を振り返って見た時、私は再び31年前の飛行隊長に舞い戻ってしまったような錯覚に陥っていた。 31年目に会ったあの顔、この顔、私の脳裏に残っているのは当時二十五才前後の若鷲の顔だけであった。 白髪を混じえて初老の域に踏み込んでいる今の顔が名前と一致しない。

開戦後間もない17年2月15日、自爆と断定されて戦死公報を受けていた4名の搭乗員 (特別手記第3話) のうち2名もこの慰霊祭で初めて顔を揃えたのである。

私を見つけたとたん 「分隊長ッ」 と一言、わッと泣き出してしまった。 何も語れなかった。 35年間、彼らの心中に秘めていた一切のものが涙で表現されたのである。

あちこちに感激のシーンが展開され、いつ果てるとも分からなかったが、各宿舎でそれぞれの計画があるものと考え、2130 閉会とした。

飛ぶ鳥跡を濁さず、閉会が宣せられたとたん、式場は誰が命令するでもなく見る間に整然と片付けられた。 そして甲板洗いの要領で広い板の間を拭い、見事にあと始末をして市の係員を驚かせてしまった。 海軍躾教育の権化とでも言うか、海軍の伝統は30年後もなお立派に生きていた。


慰霊祭の翌17日、残務整理を済ませてそれぞれ故郷に散っていった。 懇親会終了後詫間の町はさぞ賑わったことだろうと考えていたが、これは私の全くの誤算であった。

前述のように私は30年前の若鷲を考えていた。 飲むほどに、酔うほどに、勇気百倍、特別外出の申し出やら、喧嘩やらの時代を想像していた。

よく考えてみれば今や五十才の峠を越し、慰霊祭中涙の流れ放しというような者がほとんどだったのである。 苦しかった戦の思い出は一夜で語り尽くせるものではなかった。 飲みに出るどころか寸刻を惜しんで語り合っていたのである。

帰る車中で眺めた瀬戸の島々、美しい海原、私の頭の中に残ったのは、式典の感激と、夕焼けの基地の海に流れていった “海ゆかは” の曲だけであった。

生存者の努めとしてやるべきことは山ほどあるが、31年目になし得た慰霊祭、それは課題の一つを解決したものとして、何か肩の荷がおりた感じを覚えさせる。


“大空への追想” を書き続けることによって、私は戦争の渦中における海軍飛行艇隊の姿を私なりに甦らせて来た。 そしてこの慰霊祭によって一層それを強く心の中に浮かび上がらせることができた。

海軍飛行艇隊の慰霊祭記事をもって “大空への追想” を締めくくることにしたい。

最後にこの慰霊祭を盛り上げていただいた岩国 PS-1 と呉音楽隊の御協力に感謝するとともに、海上自衛隊の限りなき発展をお祈りする次第である。


( 『大空への追想』 完 )


2015年05月25日

大空への追想 (262)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

「 祭文奏上、委員長 」

と告げる司会者の声に、私は夢から覚めたように席を立った。 いよいよその時が来たのである。 一か月前から書きあげ読み直し、6分間で読み終えることにしており、一言一句たりともこれ以上省略できないものになっていた。

“落ち着けよ” と自らを励ましながら神前に進んだ。 会場一杯の人等全く限中に入らなかった。 在天の御霊達が一斉に手を伸ばして私を迎えてくれるような気がする。

262_01.jpg
( 原著より  祭文奏上中の著者 )

静まり返った式場に祭文が流れてゆく。 読んでいるうちに、もう一人の自分がこう叫んでいた。

「 今、神前で亡き戦友に呼びかけているんだ。 平然として続けてゆけ、決して声をつまらせてはならんぞ 」

しかし祭文の中に、これだけは読まなければならないという次の部分があった。

『 詫間基地発進時の光景を思い出すと感無量である。 「気をつけて征けッ」 「征きます」 と交わし合った短い言葉が今生の別れ、「征けッ」 と命じたこの隊長も、 −散る桜、残る桜も、散る桜− の一句を口ずさみながら笑みを浮かべて見送ったのである 』

この段になると何としてもこらえきれなくなった。 涙がとめどなく出て来た。 思わず声がつまってしまった。 式場からもすすり泣きが聞こえていた。

一呼吸して一挙に最後まで読み終えて委員長としての大役の一つは済ますことができた。


〔原著追記〕 : 慰霊の辞 (祭文)

謹んで在天の海軍飛行艇隊搭乗員の御霊に申し上げます。

顧みますれば昭和16年12月8日、太平洋戦争勃発するや、帝国海軍飛行艇隊員として勇躍国防の第一戦に進出し、東はハワイ、西はインド、南は濠州、ソロモンから北はアリユーシャソの全海域にわたり、その長大な機動力を発揮して、飛行艇ならではなし得ない行動をくり広げたのであります。

しかしながら一億国民の死闘も空しく、昭和20年8月遂に無念の終戦となり、それとともに70年間の栄光に輝く帝国海軍も世上からその姿を没し去りました。

国敗れ、海軍消えて廃墟の中にただ茫然自失していた私どもの上に、生活の苦しみは容赦なく襲いかかってまいりました。 のみならず心なき人々は敗戦の責任を我々軍人に帰し、その家族や遺族にまで累を及ぼしたのでありますが、今はただ頭を垂れ、耐え難きに耐え、忍び難きを忍んで生活の再建を図るばかりでありました。

この大戦を通じ、私達は数多くの隊員を失いました。 杖とも柱とも頼むお子様や兄弟、或は夫や父上を失われた御遺族の方々の悲しみや苦しみは、如何ばかりであろうかと、まことに慙愧に耐えないところであります。

さて終戦このかた、年移り月変わってここ三十有余年、お互いにようやく立ち直ることができ、当時未だ幼かった子供達もすでに成人いたしましたが、ふと気がつけば私達もいつの間にか頭には労苦のあとの白髪を見、顔には辛苦を物語るシワを認めるようになりました。

帝国海軍飛行艇隊は横浜航空隊に発祥の源をおき、東港航空隊、第十四航空隊、第九〇一航空隊ならびに輸送部隊、教育部隊に分かれてその任を全うしてまいりましたが、最後の戦線縮小の段階にあたり、詫間航空隊飛行艇隊に総力を結集し、その最後を全うしたのであります。

詫間基地における当時の死闘を偲べば、万感胸にみちて言葉では言い表わせません。 指揮所の神棚に拝礼して毎晩出撃する隊員に対し 「気をつけて征け」 「征きます」 と交わし合ったあの短かい言葉が、皆さんとはこの世における最後の別れになったのであります。 「征けッ」 と命じたこの隊長も、

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」

の一句を口ずさみながら、笑みを浮かべて出発してゆく皆さんを見送っていたのであります。

今回最後の一隊となった詫間飛行艇隊の隊員一同が相図り、生き残った者の務めとして、最後の作戦基地となったこの詫間において、厳かに慰霊祭を執り行うことにいたしました。

今ここには、共に戦った戦友達が集まっております。 詫間市民の皆様も集まっておられます。

幽明境を異にされた在天の皆さんに呼びかけ、共にありし日の面影を偲びつつ語り合いたいと念ずるものであります。 何とぞ私どもの志を受けて下さい。

祖国日本は廃墟の中から立ち直り、今や驚異的発展をしつつあります。 祖国の不滅と民族の興隆を祈念しつつ、国家のために身命を投げ出された皆さんの願いはここに実現を見たのであります。

しかしながら発展の陰には国民精神の弛緩、思想の混乱、社会不安の増大等があり、他方日本を取り巻くアジアの情勢は激しく流動を続け、日本に対する諸外国の態度は厳しさを増しております。

この時にあたり、私達はますます結束を固め、御遺族の方々と相携えて祖国の平和と発展に微力をつくし、皆さんの御遺志にこたえる決意であります。

在天の御霊よ、安らかに鎮まりますとともに、御遺族ならびに私どもの行手を護り導かれんことをお祈り申し上げます。

  昭和51年10月16日
           詫間海軍航空隊
           飛行艇隊隊員一同

(続く)

2015年05月24日

『世界の艦船』 7月号


『世界の艦船』 7月号 (通刊813号) の特集は 「ナチス・ドイツの新戦艦」 です。

SoW_No818_cover_s2.jpg

その特集記事について、次の項目を受け持たせていただきました。

「 B 検証! ドイツ新戦艦の砲戦能力を探る 」

当該特集では 「ビスマルク」 級2隻、「シャルンホルスト」 級2隻及びいわゆるポケット戦艦の3隻を採り上げています。

厳密に言うならばポケット戦艦は大型の重巡洋艦に、「シャルンホルスト」 級は巡洋戦艦に分類されるものですが、3者ともに艦容も性格も非常に似たものがありますので、これらを併せて 「新戦艦」 としています。

これらの新戦艦の砲戦能力を、次の3項目に分けて纏めてみました。

  ◎ 砲戦能力の要素
  ◎ 砲戦の実例
  ◎ 砲戦能力の検討

ただ、とてもいただいた紙幅では詳しく述べる余裕はありませんので、3項目ともその要約とせざるを得ませんでした。 特に、砲熕武器などの詳細、及び海戦例については大幅に省略して必要最小限のものとしております。

したがって、一般読者の方々にはちょっと中途半端で判りにくいものになってしまったかもしれません。

もちろんこれでも当初の紙幅を大幅に越えてしまいまして、編集部さんのご厚意により1.5頁増としてようやく収めたのですが (^_^;

とは言っても、従来 『世界の艦船』 ではその誌面の性格上ハードウェアの解説に重点が置かれていましたので、今回のように 「砲術」 というソフトウェア面も含んだ記事は珍しい部類に入るかと思います。

この点は編集部さんより私にご依頼いただいたことをかなり果たせたのではないかと自負しております。

う〜ん、私としては本当はもう少し詳しいお話しにしたかったのですが、そこまでいくとちょっとマニアック過ぎるかと (^_^;

例えば、英海軍の射撃指揮装置と比較してドイツの射撃指揮装置の盤面写真を入れておりますが、これの中身の具体的なことを説明できれば ・・・・

また、ドイツ海軍の艦砲及び弾火薬に対する考え方、あるいは射撃用レーダーについてもう少し突っ込んだことが書ければ ・・・・ etc. etc.

これらがあれば、更にドイツ海軍の艦砲射撃についての考え方が判っていただけたとのでしょうが ・・・・

これらは機会があればいずれまたお話ししたい内容と思っています。


本書が書店に並びましたら、是非一度手にとってご覧下さい。

posted by 桜と錨 at 11:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 気ままに

2015年05月23日

大空への追想 (261)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ (承前)

明けて10月15日は快晴、早朝から会員が続々と集まって来た。 いずれも30年ぶりの対面であり、何本手があっても間に合わないくらいの握手攻めにあった。

1430、約束の時刻どおり PS-1 が爆音を押し殺すように静かに式場上空に進入して来た。

二十五才の若鷲の面影こそないが、白髪を混えた旧搭乗員達は一斉に上空を見上げ感涙にむせびながら手を振った。 30年前の昔、かの二式大艇の姿を見覚えている詫間市民も一緒に拍手を送ってくれた。

低速低空で慰霊飛行にふさわしいこの日の PS-1 は、かつて二式大艇を駆使した老鷲達の頭の中に、詫間の海を蹴立てて飛び回った想い出を呼び起こさせてくれた。

同時に新しい時代の国防の任を背負って羽ばたく岩国隊員に対し “あとは頼むぞ” と声なき声援を送ったのである。

PS-1は数回にわたり、いろいろの姿勢で飛んでくれたが、やがて翼を振りながら西の空に消えていった。 しばしの興奮にかり立てられながら一同着席し、開式を待った。

神殿は垂れ幕で覆われ、新明和から特別飾られた二式大艇と九七式大艇の大型模型が、飛行艇隊の慰霊祭にふさわしい雰囲気を醸し出していた。

1500 開式宣言とともに幕があげられ、白木の祭壇の中央には “大艇隊の御神霊” が飾られていた。 この御神霊こそ、あの大戦中飛行隊指揮所の神棚に祀られていたものである。

部隊解散の時、私は涙の別辞の中で

「 出撃ごとに搭乗員が拝礼していたこの御神霊は、再び諸君と相まみえるまで、この隊長が預かっておく 」

と固く約束したものである。

あれから31年間、私は大切に我が家の宝物として保管してきた。 私が自書した銘牌を、湊川神社に持参して入魂していただいた由緒あるものなのである。

それが今日初めて慰霊祭の神殿に飾られた。 まことに感無量の一言に尽きる。

式が始まってからの私の頭には、三十余年前の激戦の場面が次から次へと浮かんで来て、とても冷静を保ち得なかった。

神官の祝詞が神々しく式場の隅々まで響き渡った。 祝詞の内容は一般的のものとは異なり、飛行艇隊督戦の模様がこと細かに盛り込まれており、12分間も続く名文であった。
(続く)

2015年05月22日

別冊宝島 「戦艦大和と武蔵」


既に書店に並んでいるものと思いますが、宝島社から別冊宝島 「戦艦大和と武蔵」 が出版されました。

takarajima_yamatomusashi_h2705_cover_s.jpg

内容はビジュアルを前面に出した入門解説書の、いわゆるムック本ですが、もちろん何と言っても目玉は先日発見されたシブヤン海の水深1000メートルの海底に眠る 「武蔵」 で、ポール・アレン氏のチームにより撮影された各部の映像です。

3時間に及ぶ動画の中から主要な場面を選んで、それらの映像に簡単な説明を加えたものが8頁の記事として纏められています。

この解説については私もアドバイスをさせていただきました。 従来から知られていることが再確認できる個所、そして今回新発見されたものなどなど、艦船ファンの方々には興味が尽きないものであろうかと思います。

ところで、ちょっと小さな画像なのが残念ですが、同記事の2頁目に海底に散乱する 「武蔵」 の全体像を示すスキャナーのモニター画面が掲載されています。

これをご覧いただけば、「大和」 に比べていかに 「武蔵」 が文字通りバラバラになっているかがお判りいただけると思います。

今回のポール・アレン氏の発見は、戦後70年にして初めてその所在が確認されたことはもちろんですが、併せてこの世界最大の戦艦がかくも粉々になっていることが判明したことも大きな成果ではないでしょうか。

そして、誌面ではちょっと判らないのですが、このスキャナー画像を詳細に見ますと、実は無人探査機は今回の捜索の最後に船体部分から少し離れた位置にある主砲塔も調査していることが判ります。

ところが、今回公開された動画の中にはこの部分はありません。 今後機会があれば (お金次第で?) 別途出てくるということなのでしょうか ・・・・?


本書は専門的なマニアックなものではありませんので、私はこの映像解説以外の記事には全くタッチしておりませんが、彩色写真などを始めとして、初心者向けとしては良く纏められていると思います。

書店で目にされた時には、是非一度手にとってご覧下さい。

posted by 桜と錨 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 海軍のこと

2015年05月20日

大空への追想 (260)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第8章 海軍飛行艇隊の霊よ安らかなれ

「 ただ今から海軍飛行艇隊搭乗員戦没者の慰霊祭を挙行いたします。」

司会者の開式宣言が重々しく響き渡った。

遂に実現した。 宿願成就である。 3年間にわたって、練り抜いた計画が本日ここに実を結んだのである。

260_01.jpg
( 原著より 詫間における慰霊祭式場 )

昭和51年10月16日1500、香川県詫間町福祉会館の式場は、詫間航空隊飛行艇搭乗員の生存者で埋められていた。 この日は秋晴れの快晴で、詫間の海は静かに青々とした美観を呈していた。

詫間海軍飛行艇隊、それは海軍飛行艇最後の一隊である。 全国の飛行艇隊を詫間に結集した日本海軍最後の飛行艇集団なのであった。

既述のとおり、開戦当初から勇戦激闘を続けて来たものの、20年8月15日、詫間の基地 (注) において終戦を迎えることになったのである。

あれから31年の歳月が流れた。 戦争以上の苦難の道を歩み続けて来た生存者達の心の中に、絶えず残されていたものは、いずれの日にか全員が顔を揃えて、最後の作戦基地詫間において、今次大戦で散華していった飛行艇隊員の霊を慰めたいという悲願であった。

今日その悲願がやっとかなえられたのである。 詫間町民の暖かい支援と、香川地方連絡部の協力を得て実現の運びとなった。

私の保管していた終戦時の飛行隊編成表を唯一のたよりとして、約3年間にわたる調査の結果、218名の生存隊員中180名の住所を掴むことができた。 当日の出席隊員150名。

何より嬉しかったことは、呉総監、三十一航空群司令の取り計らいにより、音楽隊とPS-1が参加していただけたことである。

15年間も海自勤務をしておりながら、自衛隊が部隊としては民間の宗教的行事に参加することができないということを、この慰霊祭において初めて知った次第である。 呉監から、

「 当日の慰霊祭においては、神官による行事が終了し、神官退場後追悼式に移行してから音楽隊を入場させて欲しい 」

という御親切な通知を待て、新たに式次第を変更する等、委員長を引き受けた私は前日から心の休まる時がなかった。
(続く)

-------------------------------------------------------------

(注) : 詫間航空基地については本家サイトの次の記事でご紹介しておりますので、ご参考にして下さい。


2015年05月17日

本家サイトの修正


今週は本家サイトの新たなコンテンツの追加はありませんが、既存の 「射撃理論」 の 「超入門編」 及び 「初級編」 の手直しをいたしました。 主な修正点は次の3つです。

1.ブラウザーの互換性の問題
2.フレーム形式の取りやめ
3.一部図表サイズの大型化

同様の問題は、あと大きなところではまだ 「射法」 の項が残っておりますが ・・・・ う〜ん、面倒ですね (^_^;

posted by 桜と錨 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し

2015年05月14日

大空への追想 (259)

著 : 日辻常雄 (兵64期)

第7章 特別手記 (承前)

    第3話 奇跡の生還 (承前)

〇 あとがき

51年10月16日、終戦後32年目の秋、海軍飛行艇隊の最後の基地となった詫間 (香川県) において、第一回海軍飛行艇隊搭乗員戦没者慰霊祭が海上自衛隊協力のもとに、盛大に行われた。

かつての若驚たちも、今は五十の齢を過ぎていた。 30余年振りの再会に生存者達は抱き合って涙にくれたものである。

この慰霊祭に、古川、天本両君が出席して万座の注目を浴びた。 これがもとで、奇跡的に生還した4人の連絡がとれた。

52年10月、神戸湊川神社における第二回慰霊祭の席上、高原、平山、古川、天本の4名が全員元気な姿で会合できた。

彼らは内地帰還後も、あの4年間の苦難の行動については、一切伏せていたのである。 それは語りたくないというよりも、話したところで信ずる者はいないと考えていたからである。

戦傷の後遺症に苦しみながら、自らを鞭打って第二の人生を雄々しく踏み出し、現在は各自社会的にも要職について立派に過ごしている。

この度、古川、高原両君から、私のもとに克明な当時の手記を送ってくれた。 この手記を整理して纏めているうちに、当時東港航空隊分隊長として共に戦い、激戦の渦中に、生死を度外視して飛び込んでゆくことのみに生甲斐を感じていた私自身の頭の中に、いろいろな当時の思い出がよみがえって来た。

戦争とはいうものの、このクルー達に対して、誠に申し訳なかったと思う気持ちで一杯である。

既述のとおり、連合軍のチモール島兵力増勢の企図は、東港空三浦機の貴い犠牲により、完全に挫折したのである。

この翌日 (17年2月16日) 二十一航戦は、中攻27機、大艇9機をもって三浦機の発見した船団を空襲し、大損害を与え、辛うじて難を免がれダーウィンに逃げ込んだ一部兵力も、2月19日に行われた我が海軍のポートダーウィソ大空襲で藻屑と消えてしまった。

私は当日 (2月16日) の空襲において索敵隊指揮官を買って出た。 三浦機の弔い合戦でもあった。

幸いにもチモール島南東250浬の洋上で敵船団を捕捉し、攻撃隊を誘導できたのである。 今にして思えば、あの時戦場からそれほど遠くない洋上に、6名のクルーが苦しい漂流を続けていたのである。

当時の状況から、三浦機は自爆と断定せざるを得なかったことがこのような悲劇を生んだのである。 不時着の公算が10パーセソトでも予測されていたなら、捜索網にかかったであろう。

戦争の悪戯と片付けるには余りにも残酷なことである。

死の空中戦において愛機を失ったことに対する海軍搭乗員の責任感、生きて虜囚の辱かしめを受けずとする当時の軍人の激しい精神をこの手記の中から汲みとっていただければ幸甚である。 それに対する批判は読者の自由である。

「 愛国の精神は誰にも負けず、人一倍堅持しているつもりである。 国防軍の保持と軍国主義の区別が分からんような連中とは根本的に違っていると自覚している。 余生を注ぎ込んで日本の発展のため微力を尽くしてゆきたい。」

と語る奇跡の生還者4名の言葉をつけ加えてこの章を閉じる次第である。
(続く)

2015年05月12日

47ミリ重速射砲 (追)


先の 「47ミリ重速射砲 (続2)」 の記事で、HN 「八坂八郎」 氏のブログで紹介された同砲の写真について、

> 尾栓部右側にあるはずの閉鎖機ボックス (機筐) と、これと駐退装置を繋ぐ連接桿がはっきりしない、というか見当たりません。

> これらの部分が整備などの理由で外されているのか ・・・・
> ちょっと不思議な写真です。

と申し上げたところです。

4353f5fc_mod.jpg
( 八坂氏のブログで紹介された当該写真より (注)

「47ミリ重速射砲 (続2)」 :


で、その後色々な調べものをしている時に、『海軍操砲程式』 の当該砲の操法で戦闘配置に就く場合の措置の中で次の様に書かれていることに気付きました。

yamanouchi_47mm_manual_01.jpg
(明治30年版の例)

尾栓を開くに当り間々其の位置を保たざる装置あり。 斯くの如き砲に在ては(二)は回螺挺を以て閉鎖器留螺旋を凡そ5回程螺出す可し。 然れども 自動器機を取外したるときは 閉鎖器留螺旋は堅く螺入すべきものとす。

この規定を見ると、当該ボックスはそれなりの頻度で取り外すことがあったと考えられます。

これは日常行われる砲のメインテナンスや閉鎖発條などのバネ類の保護に伴うことのためです。

そしてこのボックスが取り外されていても、例えば緊急時の場合などにおいては、写真のように転把 (尾栓開閉レバー) を取り付けていれば、従来の保式砲と同様にして射撃は可能です。

また、空砲を発射する場合、即ち礼砲としての使用や実弾発射を伴わない演習での射撃実施の合図としての使用など、においては元々この自動開閉機構は機能しませんので、取り外していても問題はありません。

したがって山内式の47ミリ速射砲において、八坂氏紹介のようにこのボックスが取り外された写真があったとしても、不思議ではないということになります。

これで疑問が一つ解決しました (^_^)

-------------------------------------------------------------

(注):ブログ 『軍艦三笠 考証の記録』 よりの写真の転載・引用は、管理人のHN 「八坂八郎」 氏より許可をいただいております。
posted by 桜と錨 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 砲術の話し