君は東京スタジアムを見たか(第813回)
6月2日という日、野球ファンが思い出すのは「空白の一日」として知られる読売ジャイアンツ・江川卓投手の一軍デビューした1979年だろう。阪神戦でマイク・ラインバックに浴びた逆転3ラン。当時、後楽園球場の日本テレビの放送ブース脇でスピードガンを構えていた私にとっても印象深い1日だった。しかし、日本プロ野球界として忘れてはいけないのが1962年だ。当時あった映画会社「大映」社長で大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の永田雅一オーナーが私財を投じて作り上げた東京スタジアムが開場した日なのだ。そんな球場に焦点を当てたノンフィクション「東京スタジアムがあった」永田雅一、オリオンズの夢=写真=(河出書房新社刊)を、数々の野球書を上梓していることで知られる澤宮優さんが書き下ろした。
東京スタジアムというネーミング、調布市にあるサッカーを中心にした多目的スタジアムの名称(ネーミングライツで味の素スタジアム)でもあるが、50年以上昔にそういうスタジアムがあったのだ。実は1951年に国鉄スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)の本拠地として武蔵野市に完成した球場も当初、東京スタジアム(通称武蔵野グリーンパーク球場)と言われた。月に3度発行されていた国鉄スポーツというタブロイド紙の1951年3月25日付けには「待望の晴れ姿 竣工近し東京スタジアム」とある。こちらは都心からの連絡が不便なことと突貫工事で外野席も土盛りで風が吹くと砂ぼこりがひどいこともあり、わずか1年の使用で表舞台から姿を消した。
その点、1962年に東京都荒川区南千住に完成した東京スタジアムは、サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠キャンドルスティック・パークを模したもので、当時のプロ野球常設球場にはない大きなロッカールームや、内、外野天然芝、屋内ブルペン、ボックスシートなど時代を先取りした近代的なスタジアム。難をいえば右中間、左中間のふくらみがなかったことだけだった。
完成当時は下町のランドマーク的存在。1970年の日本シリーズを始め4度のオールスター戦。実数発表最高は日本シリーズでの3万1515人だから、現在のマツダスタジアム並の収容人員だった。どうして、わずか11年だけでプロ野球から見捨てられることになってしまったのか。巨人ファンが多かった下町の野球ファンへのアピールが足りなかった、1970年の優勝1度だけと毎年のように優勝争いに食い込めなかった、オーナーの本業が下火になった、そして当時のパ・リーグの不人気の波に飲み込まれていった、など多くの要因がからみあっている。そこに至る要因などを当時の関係者の証言や資料から解き明かしたのが同書だ。
私はこのスタジアムに、後楽園球場よりも早い高校1年の時に足を踏み入れている。1970年3月21日付け報知新聞の2面に、来日したサンフランシスコ・ジャイアンツと読売ジャイアンツの試合、当日売り「A券(セット券)100枚=3600円、B券2000枚=1500円、C券1500枚=1000円」を見た。これだけの枚数が残っていれば入れるだろうと思い、埼玉から向かった。上野駅で地下鉄日比谷線に乗りかえて三ノ輪駅下車。そこから駅員さんに道順を聞いていった思い出がある。初めて見るプロ使用のスタジアム窓口で一番安いC券(外野席は売り切れていたらしい)のチケットを買い、スロープを上がって三塁側二階席でグラウンド側に出た瞬間、初めて見るプロ野球のフィールドは、なんてきれいなんだと息をのんだ。
試合は球場の狭さもあって本塁打が5本も飛び交った。長嶋茂雄、王貞治のアベック本塁打。延長11回、王の打球が左中間スタンドぎりぎり越えるサヨナラアーチと、天覧試合の逆バージョンのような熱のこもった試合。薄曇りで最初は体を震わせて見ていた私が、最後には歓声を上げていた。ウイリー・メイズが38歳ながら3安打したが、なんで大振りばっかりと思ったのがジャイアンツの1番打者。5打数ノーヒットで3三振。そう通算762本塁打の記録を持つバリー・ボンズの父親ボビー・ボンズの若き日だった。その1試合の観戦経験が最初で最後になるとは夢にも思わなかった。
短いながらオリオンズファンを燃えさせたスタジアム。思い出に浸るととともに、若い野球ファンには、こんな時代を先取りしたスタジアムに執念を燃やした永田雅一という人物。そして近隣の風情や1960年代という時代が甦ってくる。私の数少ない自慢の一つである東京スタジアム観戦を思い出させてくれた素晴らしい一冊である。
【注】この本を3人の読者にプレゼントします。詳細は2日付け報知新聞をご覧ください。
当時、周辺に高い建物がなかったので、私が住んでいた三河島付近まで照明灯の灯りが見えたものでした。
投稿: 白石 護 | 2015年5月31日 (日) 23:50
王、長嶋があの球場でアベックホームランしていたとは!そしてウイリーメイズもプレーしていたとは!
つわものどもが夢の跡という思いと同時に戦後70年の今だから、このような素晴らしい球場があったことを、振り返ってみるのも必要なことですね。いいときに本が出されたと思います。この球場から、今のプロ野球を考えるとき見えてくるものは多いですね。
オーナーの永田雅一さんが作った球場ですが、ここから今の経営者の在り方、プロ野球への先見性、組織論など野球を通して学べることもいいですね。
投稿: にゃんこ | 2015年6月 1日 (月) 07:52
大ファンだった成田投手のことをよく知ることができたし、小山、榎本、山崎など強者たちを懐かしく思い出しました。それと、なんと言っても永田オーナーの人情味に深く感動。東京スタジアムは一度だけ兄に連れられて巨人-国鉄戦のダブルヘッダーを観戦しましたが、とにかくホームランが乱れ飛び、カネやんから長嶋、王のアベック連発をはじめ、なんと8時半の男・宮田までが左中間に強烈な一発をかっ飛ばしました。今思えば、もっと行っておけばよかったなあと、残念に思います。
投稿: nanchan | 2015年6月 1日 (月) 12:11