DVをしてきた父親をずっと憎んできた。
DVそのものというよりも、家庭内で突然キレる、レジャーの最中にほぼ必ずキレるという習慣が、おれから家庭=安心という概念を失わせ、部屋にこもってゲームや物語や勉強を続け、極力家庭に興味を持たず、逃避する人間になるしかなかった。部屋の鍵もかけられなかったから、教室や予備校、図書館に逃避せざるをえず、一人暮らしをしたいがためだけに名門大学に合格した。両親は無邪気によろこんでいた。おれはそれとなく両親のせいで自分がいかに惨めな時代を送ってきたかを知らせてきたが、自分たちがあれだけキレて子どもから安心を奪っていたことについては、完全に無自覚であった。自分たちが日常的にキレていたということすら、思い出せないようであった。暴力についても、普通に許容範囲だったと感じているようだった。相手が女子どもであるという斟酌は無いようだった。貧しいながら食事と住居を提供してきたじゃないか、おまえは何も言わなかったじゃないか。いわなかったのではなく、言えなかったのだ。子どもだったから、上手に表現できる言葉を知らなかったのだ。それに、仮に知っていても、結局のところ、両親の、子どもの気持ちへの無頓着をどうにかすることはできなかっただろう。当時俺が一番嫌いな言葉が、親の心子知らずだった。
大人になり、専門職に就き、コミュ障をなおし、一定の収入を確保できるようになって心のゆとりを得られ、「親のことは許した方が良いのだ」という風潮に対して、はじめこそ苛々していたが、やがてそうかもしれないなという気持ちを持てるようにもなってきた。しかしそれでも、許せたのは父に殴られながら父への情を切れなかった弱者としての母だけで、父親のことを理解する気にまではならなかった。結局のところ、おれは彼らを敬遠しただけだった。それで十二分だと思っていた。
仕事の都合で、いわゆる弱い男性を相手にする機会が増えた。彼らからはおれは、華々しいキャリアとゆとりある暮らしを謳歌していると見えるようだが、それで安心しきれるほど盤石な基盤を築いているとは言えないことをよく知っている。みんな必死なんだ。おれも、みんなも。どうにかこうにか形になっているように見えるだけだ。彼らの役に立つのはおれの仕事だし、少しずつそれ以上のものになっている。彼らの中にも、俺と同じ弱さを見る。必死さを見る。
父は弱者だったのだ。頭では、貧困と暴力の連鎖についてはよく知っているつもりだった。父が貧しい弱者であったことも、頭では知っているつもりだった。そういう理解とは別の何かが、突然、臓腑にすとんと落ちた。父も被害者だったのだ。弱者であり、気弱な母が、どれほど父のチャレンジ精神を奪っていたのかに、ふと理解が届いた。母は、息を吸うように他人を萎えさせる人だった。ネガティブな言動が習い性になっており、何事にも挑戦せず、他人の挑戦心をやわらかく腐らせて折り、そのすべてに「あなたのことを思って言ってるの」という枕詞をつける人だった。それが父もつらかったんだろうなとは、前々から頭では理解していた。ただ、許したくないという気持ちがおれの何かをずっと遮っていたのだ。
父のことを許したいと思ってきた。でもずっと出来なかった。それが今、おれの小さな新しい家族を守るためにもう一段厳しい努力を積み増そうと決めた瞬間に、自然な思いとしておれのなかで結実した。父も闘ったのだ。おれと同じように。いや、俺が今、父と同じように闘っているのだ。父からの家族への愛は、お世辞にも、充実していたとはやはり言えない。現実になしたことは、正直に言って、誉められるほどのものではなかった。利己心や虚栄心からくるものがあまりにも多かった。それでおれは絶え間なく傷ついてきた。けれども。今のおれはそんなことはどうだっていいのだ。どうでもいいんだ。父は闘っていたんだ。それで十二分だ。
父が病で死んで数年経つ。墓は遠方にあり、現状、業務状況を考えると足を伸ばすのは現実的ではないし、それは父のためでなく俺や母のための何かだ。おれが父に出来ることは、父がこの世にいない以上、本当に何もない。それに、みんな必死なんだ。おれだけじゃない。おれはいま、俺が求められることを、もっと真摯になすしかない。おれは、父や母が「できなかったこと」を呪ったし、おれじしんが子どものころに「できなかったこと」を呪ったし、今自分が「できていないこと」に忸怩たる思いがある。でも結局のところ、その構造はさけられず、受け入れるしかない。おれはただ真摯に生きるしかない。
読んだ。共感する所多数。