今から155年前、万延元年(1860年)に日本最初の海外派遣使節、遣米使節団が日米修好通商条約を締結する目的でアメリカの軍艦、ポーハタン号でアメリカを目指しました。
この遣米使節が渡航するチャンスに、日本人だけで太平洋横断を試みたのが咸臨丸(かんりんまる)です。同艦はオランダで建造されたスクーナー・コルヴェットで全長50メートル、推定300トンでした。
軍艦奉行木村喜毅(よしたけ)が提督、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟が艦長、総員96名が咸臨丸に乗り込みました。福沢諭吉もその中の一人でした。
当初、日本人クルーですべての航海をやり遂げる意気込みでしたが日本駐在総領事ハリスの希望で10名のアメリカ人水夫が同乗しました。
福沢の自伝では「航海中はアメリカ人の助けは一切、借りなかった」と書いてあるけれど、赤松大三郎の回顧談では「いざ太平洋に乗り出してみると、暴風雨や大浪で日本の水夫は途中で弱ってしまい、ついには行くのはイヤだ、日本へ帰りたいなどと言いだし、米国水夫がたいへん役に立ったようである」となっています。
いずれにせよ黒船来航からわずか7年で日本の軍艦が太平洋を渡ったのは快挙でした。
咸臨丸がサンフランシスコに着くと、大歓迎を受けます。
「サアどうも彼方の人の歓迎というものは、それはそれは実に至れり尽せり、此上の仕様がないというほどの歓迎……もう日本人を掌の上に載せて、不自由をさせぬように……サンフランシスコの近くのメア・アイランドという処に海軍港付属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸してくれ、船は航海中なかなか損所ができたからとて、ドックに入れて修理してくれる」(福沢諭吉)というわけです。
このメア・アイランドのアメリカ海軍造船所は咸臨丸が来る5年ほど前に完成したばかりの、アメリカ西海岸では初の米海軍の基地でした。下は当時の様子です。
咸臨丸の一行は上官にはヴィクトリア様式のレジデンスが、その他の乗組員は白塗りの宿舎があてがわれ、咸臨丸のお化粧直しが終わるまでの約一か月間、彼らはここを生活の場として近隣の観光に出かけたと言われます。
咸臨丸の修理が終わり、日本への帰途についた船上で、福沢諭吉はサンフランシスコの写真屋で撮影した、現地の娘とのツーショットを取り出し、皆をうらやましがらせました。当時まだ26歳だった福沢の面目躍如といったところです。
さて、この娘は日本の文献には「15歳くらいの少女……」と書いてあるけれど、実際はこの写真を撮った時は12歳でした。彼女の名前はテオドラ・アリスです。
テオドラはサンフランシスコの写真屋、ウイリアム・シューの娘です。シューはダゲレオ式(銀板)写真でポートレートを撮ることを商売にしていて、下の写真の左側に見える白い貨車が彼の撮影スタジオでした。

なおこの貨車は当時サンフランシスコ屈指の新聞だったアルタ・カリフォルニア紙の横に設置されています。シューが貨車をスタジオとした理由は、すぐに汽車で出張写真を撮りに行けるようにという配慮です。
当時のサンフランシスコは1849年のゴールドラッシュの後で沢山の木造家屋が密集しており、よく火事がありました。そんなときシューは貨車を移動して火事を避けたのだそうです。
第二次大戦の際、メア・アイランドは重要な潜水艦の建艦基地となり、常時5万人のワーカーが昼夜を徹して働きました。つまり日米友好の舞台だったメア・アイランドは対日抗戦の牙城となるわけです。


こんにちその巨大な施設はプレハブ住宅ベンチャー、ブルー・ホームズの本社ならびに工場となっています。
ブルー・ホームズは「折り紙」のように畳んで、トラックで簡単に運べる高級プレハブ住宅を考案し、住宅市場に新風を巻き込んでいます。
さて、この娘は日本の文献には「15歳くらいの少女……」と書いてあるけれど、実際はこの写真を撮った時は12歳でした。彼女の名前はテオドラ・アリスです。
テオドラはサンフランシスコの写真屋、ウイリアム・シューの娘です。シューはダゲレオ式(銀板)写真でポートレートを撮ることを商売にしていて、下の写真の左側に見える白い貨車が彼の撮影スタジオでした。
なおこの貨車は当時サンフランシスコ屈指の新聞だったアルタ・カリフォルニア紙の横に設置されています。シューが貨車をスタジオとした理由は、すぐに汽車で出張写真を撮りに行けるようにという配慮です。
当時のサンフランシスコは1849年のゴールドラッシュの後で沢山の木造家屋が密集しており、よく火事がありました。そんなときシューは貨車を移動して火事を避けたのだそうです。
第二次大戦の際、メア・アイランドは重要な潜水艦の建艦基地となり、常時5万人のワーカーが昼夜を徹して働きました。つまり日米友好の舞台だったメア・アイランドは対日抗戦の牙城となるわけです。
こんにちその巨大な施設はプレハブ住宅ベンチャー、ブルー・ホームズの本社ならびに工場となっています。
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