インターネットの流行とともに、サブカルチャー界隈に大きな変化が起きた。それは「批評文化」の形成である。
ネットが発達しSNSが流行すると、誰でも作品を評価することが可能になった。Twitter、ニコニコ、Amazon・・・優れた作品とは何か定義する上で、これらの持つ権威は強い。私もまたブログという形を借りてこうして書き散らし続けている手前、そのブームに乗っかった形である。
だが同時に、これらユーザーのレビューを、「偉そう」であるとか、「創作も出来ない癖に」と考えて嘲笑する人は少なくない。私にとっても耳が痛い話だが、一つここは開き直らせてもらうとして、素人である我々がゲームを評することは「傲慢」なのだろうか?
私はズバリ、作品を評価するのに遠慮はいらないと思う。
確かに、我々は文化について素人同然であるし、ゲームを「仕事」にする人々と、「趣味」にするオタクでは、ゲームという文化に対する理解度は大きく違う。偉そうに語るオタク=評論家様と考えられても仕方ないだろう。
しかし倫理観という立場ではどうか。プログラマーにせよ販売員にせよ、我々もまた何らかの形で実力を発揮して賃金を受け取り、それを小売を介して開発者たちに渡しゲームをプレイしている。故に、「ただの消費者」として自己を矮小化し、まるで文化の寄生虫のように考える必要はない。
そもそも、ゲームを作るのにはマネーが必要で、そのマネーを提供するのが我々である以上、どんなにネガキャンしようとゲームに貢献することになる。そして同時に、そのマネーを生み出す我々もまた、何らかの形で社会に貢献している。
それが優れたレビューに結びつくかは置いといても、少なくとも我々が第一線で誰かの期待に答え続けている限り、「権威」においてクリエイターが消費者に勝ることはない。
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同時に、このSNS全盛の時代において、他人に作品への深い「理解」をあまり期待するのもどうかと思う。お金を払ってゲームを遊ぶべきだとは思うが、何百時間も遊んでから感想を書くべきとは思えない。
このブログで言うのも皮肉な話だが、作者がどう考えて作ったとか、このギミックは論理的にどうこうとか考えるのもゲームの醍醐味であるが、サクッとゲームを楽しむだけでも十分という人もいる。
自分が適当にゲームを楽しんでいたら、SNSのような「批評文化」(このブログを含めて)の難しい話に困惑したという人もいるだろう。そういう人は、あえて情報をシャットアウトし、自分の感覚や基準で楽しんで欲しい。ゲームをじっくり楽しんで欲しいとは思うが、別にゲームを遊ぶのに資格もプライドもいらない。
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『銀の匙』というマンガにはこんな台詞がある。
「馬鹿は ロクでもないものに金を遣う。
賢い奴は 自分の成長のために遣う。
金の遣い方で 男の価値はわかるものさ。」
「消費者」VS「クリエイター」という二元的な考え方はあまりに不毛だし、作品を偉そうに批評するのに遠慮はいらない。
我々はどちらに甘んじる必要もない。ただ自分の価値を具現した金を握りしめ、別の世界で努力する人々の作品に飛び込むのである。
(言うまでもないが、ゲームが「高いかどうか」は人の金銭価値や収入によりけりだと思う。だが、どんな富豪であっても札束を燃やして靴を探さないのは、自分の持つ財産を誇りに思っているからだ)