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No title
質問にお答えいただきありがとうございます。
言語と類似の機能を果たしても「語域が無い」から言語ではないということですね。仮にエスペランティストを集めた国(語域)を作れたとしても、かなり思想的に偏った集団になり、「さまざまな生い立ちでそれぞれ異なった意見の人が多種類の職業に携わって」ということはなさそうです。
私のエスペラントについての知識は、数年前に読んだ田中克彦の『エスペラント―異端の言語』(岩波新書)の内容が殆どで、「母言語話者」についてもこの本に載っていたはずのことを書きました。エスペランティストの会合で出会った男女の間に生まれる例があるそうです。人工言語(もどき)の運用は思考実験として面白くても、その枠を越えてしまうと不気味に思えます。
言語と類似の機能を果たしても「語域が無い」から言語ではないということですね。仮にエスペランティストを集めた国(語域)を作れたとしても、かなり思想的に偏った集団になり、「さまざまな生い立ちでそれぞれ異なった意見の人が多種類の職業に携わって」ということはなさそうです。
私のエスペラントについての知識は、数年前に読んだ田中克彦の『エスペラント―異端の言語』(岩波新書)の内容が殆どで、「母言語話者」についてもこの本に載っていたはずのことを書きました。エスペランティストの会合で出会った男女の間に生まれる例があるそうです。人工言語(もどき)の運用は思考実験として面白くても、その枠を越えてしまうと不気味に思えます。
Re: No title
純兼さん
SF小説のネタとしては「エスペランティストのみから成る国家」を想定することは出来ますね。国民全員が同じ真っ赤な嘘をつく現実否認宗団・・・ぶるるっ。
>私のエスペラントについての知識は、数年前に読んだ田中克彦の『エスペラント―異端の言語』(岩波新書)の内容が殆どで、
F爺は、田中克彦著の本を二冊、日本のどこかの書店で手に取ったことがありますが、どちらも数行だけ立ち読みしてすぐに閉じました。それ以来、同氏の著作は一度も読んでいませんし、今後とも、読む意思はありません。理由は二つ。
一つ、日本語は、漢字と邂逅して発展してきた言語ですから、今更漢字無しでは滅んでしまいます。F爺は、漢字廃止論者の著作には興味ありません。
二つ、アルザス諸語は、北端部のWissembourg語などを除いて、アレマン語です。アレマン語とドイツ語はどちらもゲルマン諸語ですが、アレマン語を「ドイツ語の方言」と見做すのは、ドイツ中心主義者の政治的な主張です。アルザス諸語などを知らないで物を言っているのです。Alphonse Daudetアルフォンス・ドデー(*)の『最後の授業』がフランス国粋主義者の創作であって事実と無関係であることは確かですが、ドイツ国粋主義者の主張も事実とは無関係です。
(*)「ドーデ」という転写が一般的なようです。F爺には、どうしてそんな転写が可能なのか、理解できません。
SF小説のネタとしては「エスペランティストのみから成る国家」を想定することは出来ますね。国民全員が同じ真っ赤な嘘をつく現実否認宗団・・・ぶるるっ。
>私のエスペラントについての知識は、数年前に読んだ田中克彦の『エスペラント―異端の言語』(岩波新書)の内容が殆どで、
F爺は、田中克彦著の本を二冊、日本のどこかの書店で手に取ったことがありますが、どちらも数行だけ立ち読みしてすぐに閉じました。それ以来、同氏の著作は一度も読んでいませんし、今後とも、読む意思はありません。理由は二つ。
一つ、日本語は、漢字と邂逅して発展してきた言語ですから、今更漢字無しでは滅んでしまいます。F爺は、漢字廃止論者の著作には興味ありません。
二つ、アルザス諸語は、北端部のWissembourg語などを除いて、アレマン語です。アレマン語とドイツ語はどちらもゲルマン諸語ですが、アレマン語を「ドイツ語の方言」と見做すのは、ドイツ中心主義者の政治的な主張です。アルザス諸語などを知らないで物を言っているのです。Alphonse Daudetアルフォンス・ドデー(*)の『最後の授業』がフランス国粋主義者の創作であって事実と無関係であることは確かですが、ドイツ国粋主義者の主張も事実とは無関係です。
(*)「ドーデ」という転写が一般的なようです。F爺には、どうしてそんな転写が可能なのか、理解できません。