新潟水俣病:胎児性患者、50年歩けず語れず

毎日新聞 2015年05月31日 23時20分(最終更新 05月31日 23時20分)

 新潟水俣病が公式確認されて31日で50年を迎えた。新潟水俣病でただ一人の胎児性水俣病患者、古山(ふるやま)知恵子さん(50)=新潟市=が、毎日新聞の取材に応じた。「ふつうのせいかつできない。しゃべることやあるくこと。女のしあわせできない」−−。生まれつき両手足が不自由で話すことができない古山さんが、公害病に翻弄(ほんろう)された半生を振り返り、右手に握ったペンを動かし、思いを明かした。【真野敏幸】

 古山さんは公式確認から2カ月前の1965年3月、漁師の一家に長女として生まれた。生後11カ月を過ぎても首が据わらず、ほとんど声も出さない娘を心配した家族が新潟大病院を受診。4歳のとき、水俣病と認定された。

 主治医で木戸病院名誉院長の斎藤恒医師(84)によると、当時の古山さんの毛髪水銀濃度は77ppm(ppmは100万分の1)。世界保健機関(WHO)が「成人で神経症状の出現が疑われる」とする50ppmを大幅に上回っていた。漁師だった祖父が「丈夫な初孫を産んでほしい」と、妊娠中の母親に阿賀野川のコイを食べさせていたことが原因だった。

 新潟市内の養護学校に通い、言語訓練や歩行訓練に取り組んだ。卒業後は障害者通所施設などに通い、機関紙の発行の仕事をしながらリハビリを続けた。電動車いすに乗って1人で買い物に行き、筆談で簡単な会話もできるようになった。携帯電話のメールでタクシーも呼べる。友達もでき、働くことの楽しさも知った。

 

 人は心を打つことがある/それは絵や書物 人と人とが/ふれあい語り合い信じあえる喜びあえる時/そして人の優しさにふれた時/人は心を打つものである

 

 今年3月、長年通った障害者通所施設を退所するに当たり、仲間に贈った詩だ。タイトルは「人間」。198文字の詩には生きる希望が込められた。

 だが、水俣病から離れることはできない。長年、食事から入浴まで身の回りの世話をしてくれた母親が高齢となり、2年半前からは障害者支援施設で暮らす。ささやかな「1人暮らし」の夢さえ、かなえられない。「水俣病はこうがいひがいをうけた病気。今でもくるしんでるしなおらないびょうき。二度とおこしてはいけない」。公式確認から50年への思いを尋ねると、口元を固く結び、そうつづった。

    ◇

 新潟水俣病の認定患者は古山さんを含め現在702人。この半世紀で500人以上が亡くなった。一方、認定患者以外にも、差別や偏見を恐れ、いまだ名乗り出られない潜在患者はかなりの数に上るとみられている。被害者の救済はいまだ道半ばにある。

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