「◯活」が流行する背景に人々の巨大な勘違いがあることを指摘しました
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最適という孤独を離れ、満足の共同性へ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
インタビュー
「活」が流行する背景には何があるのか、個々の不安にはどう対処していけばいいのか、社会学者の宮台真司さんに聞いた。
共同体の空洞化と自己責任
――なぜ今、これほど「活」が騒がれるのでしょうか
一言でいえば、これまで個人と家族を包摂してきた地域社会などの共同体が崩壊し、個人が自己責任において自己決定で自分の将来を描かなければならなくなったからです。かつては、自分で考えなくても、周囲が結婚相手を紹介してくれ、教員が就職先を斡旋してくれました。それが昨今、就職、妊娠、結婚など、各ライフステージの課題を、全て個人が担わなければならなくなったのです。それが「活」という言葉に象徴されます。
たとえば、以前なら葬儀は家族や地域が出すものでした。80年代に入って家族と地域の結びつきが空洞化すると、会社が葬儀を出すようになります。ところが、とりわけ97年に平成不況が深刻化して以降は余裕がなくなり、会社と従業員との結びつき、まして従業員家族との結びつきは希薄になります。家族も地域も会社も葬式を出してくれない。ならば自分で準備をしなければ──それが最近「終活」と呼ばれるようになりました。
葬儀は一例ですが、「終活」という言葉が登場するずっと前から「活」に向けた流れがあったことが分かるでしょう。自分はジッとしていても周囲が機会を回してくれる、などということは、もうなくなりました。機会を得たいのなら、自ら進んで機会創造を引き受けるしかなくない。自ら引き受けるノウハウや事例がインターネット上に蓄積され、自己責任で自己決定できる範囲が増えつつあるのは、「個人として」はいい面もあります。
個人は万能ではありえない
ただ、何もかも個人が自己責任で自己決定の機会を引き寄せる必要が出てきたという時代の変化が、「社会として」いいのか悪いのかは、考えなくてはならないことです。抽象的な水準で言えば、個々がバラバラに分断され孤立した状態になると、全てを自分でハンドリングしなければならないので、自分にとって「最適な選択」をしないと「損をする」「置いていかれる」などと不安に陥りがちになるので、社会が不安ベースになります。
これだけ情報があふれた流動的な社会では、「最適な選択」なるものは単なる幻想に過ぎません。どんなに「最適な選択」をしたつもりでも、少し時間が経てば状況が変わり、「あれば間違いだったのではないか」「不適切だったのではないか」と思い返することになり、さらに不安に襲われます。こうして、安心ベースだった社会のあり方が、不安べースへと変化してしまうのです。これは、良いのか、悪いのか、ということです。答えは自明です。
――どのように対処していけば良いのでしょうか
抽象的には、〈最適化〉原理から、〈満足化〉原理への「復帰」が必要です。経済学者は、利潤の最大化(投資効率の最適化)が人間の行動原則だとする仮説に立ちます。しかし、これは企業やファンドなどの資本の動きについて妥当するものの、実は僕たち自身はそのように生きていません。「最適」でなくても、特に問題がなければ(そこそこ満足なら)前に進む。それが〈満足化〉の原理です。この原理は共同体の自明性ともにあります。
周囲が「それで問題ない、大丈夫だ」と言う以上、「いや、最適じゃないんじゃないか」と云々する細かい人がいると、共同体の皆が慣れ親しんだ前提を、破壊してしまいます。逆に、共同体が空洞化した状況で、自分だけで何かを調達しようとすると、ついつい「最適じゃないんじゃないか」と疑心暗鬼になりがちです。たとえば「子供の頭をもっと良くできるんじゃないか」というのが典型ですが、これは子供の人生を台無しにします。
共同体の皆が慣れ親しんだ前提が空洞化すると、安心(〈満足化〉)の規準が分からなくなるので、親が安心しようとして、そうなってしまいます。僕は六つの小学校に通う転校生でしたが、僕自身けんかが弱くても、けんかの強い子と友だちになる力があったから、心配ありませんでした。逆に、友だちは、学級委員をつとめる僕といつも仲良くすることで、担任の先生の大目玉を食らう頻度が減りました。そう、「持ちつ持たれつ」です。
けんかが弱ければ、強い子と友だちになればよく、勉強ができなければ、できる子と友たちになればよい。「持ちつ持たれつ」で共同体的に結合していけば、個人が万能である必要はない。人間関係の輪に入って分相応の役割を果たせればいいだけです。人間には誰しも、得意不得意があって当たり前で、「不得意分野を克服してオールマイティな存在になることめざす」なんてことをしていたら、限られた人生の時間を無駄にしてしまいます。
「自分で何もかもしなくては⋯」と過剰に思い込む人は、〈最適化〉原理に駆られがちになって不安や抑うつ感から逃れられなくなります。現にそういう人ばかりでしょう。だからこそ、自覚的に、ものごとの評価を〈満足化〉原理に引き戻すことが重要です。そのためには、自らを包摂する共同体、すなわち「出撃基地であり帰還場所であるようなホームベース」を築いていくことが不可欠です。そうすれば〈満足化〉に簡単に近づけます。
〈最適化〉は経済(資本)の原理。〈満足化〉は社会(人間)の原理。〈最適化〉への過剰な傾斜は、「経済回って社会回らず」とも言うべき、個人が分断された「空洞化した社会」を象徴します。でもかつてと違い、経済(資本)は「社会の空洞化」が反乱や革命をもたらす可能性に怯えない。社会が不穏になれば資本を国外に移動すれば良く、また、鬱屈した個人は、排外主義でガスを抜かれる程度の〈感情の劣化〉を被った存在に過ぎないからです。
〈感情の劣化〉を被った大衆に媚びれば政権を失わないから、政治は〈感情の劣化〉をもたらす「社会の空洞化」を手当てする動機を持たず、畢竟、個人が分断された「社会の空洞化」をマクロな規模で──国家全体の水準で──修復するのは難しい。可能なのは、「国家全体がどうあれ、自分の周囲では」個人が全てを寂しく自己決定しなくてもいい共同体を、作って守ること。共同体には自己責任での自己決定が難しい、子供や高齢者が含まれます。
友だちになる能力の醸成
――親や周囲は、いい学校、いい会社、いい人生というレールを想定しがちですが。
「これさえすれば子供が幸せになる」「勝たないと置いていかれる」と考える時点で、〈感情の劣化〉を被っています。〈感情の劣化〉とは、他者や共同体に貢献する気持ちが働かないこと。つまり、損得勘定による〈自発性〉を超えた、内から涌く力としての〈内発性〉が生じないこと。進化生物学が示すにするように、利他性や貢献性につながる〈内発性〉が、最も強い動機づけです。利己性は「もういいや」と諦めれば終わり。弱い動機づけです。
自分の最終目的を支える価値が、利他性や貢献性と結びつくものであることが、最も強い動機づけを与えるのです。この強い動機づけに基づく行為は、成功すれば、個人を超えた充実や幸せにつながり、失敗しても、挫けない力を与えます。また、失敗しても、動機が利他性ですから、自分の属する共同体から排除されず、包摂されます。つまり、見捨てられるどころか、「英気を養ってもう一度チャレンジすればいい」と勇気づけられるのです。
今日、グローバル資本主義の圧倒的な勝者はユダヤ系と中国系です。彼らが共通して分厚い血縁主義の社会を生きることが重要です。彼らはどこに留学するにせよ必ず現地にネットワークがあって歓待してくれます。こうして共同体に埋め込まれて背負うがゆえに、「リターンを返そう」という強い動機づけを持ち、この強い動機づけを背景に、激烈なグローバル資本主義を戦うのです。つまり、資本主義の勝者は、強い個人よりも、強い共同体なのです。
――親はどのように構えればいいのでしょうか
昨今の日本人は「周囲を出し抜く強い個人」という愚かな幻想に囚われています。個人が埋め込まれることで背負う強い共同体だけが、浅ましくない立派な強い個人を、結果として育てるのです。ただ、強い共同体を支えるかつてのリソースは存在しません。また、かつての共同体は権威主義やシャドウワークに満ちています。だから、今あるリソースを組み合わせ、かつての弊害をとり除いた、新しい共同体を──我々を──創造する必要があります。
繰り返すと、マクロには、〈感情の劣化〉を被った人々に媚び続ける政府をどうにもできない状態が続く。心ある人々がミクロな領域で〈再帰的〉に新しい共同体を創らなければなりません。〈再帰的〉とは「選択の前提もまた選択されたものだ」という無限遡及的・永久革命的な性質をさします。〈再帰的〉な共同体創出に必要な資質は、感情の深さと拡がりです。そうした資質を持つ人々だけが、〈感染〉を通じて周囲を巻き込むことができます。
かつてシュタイナーが、やがてピアジェやコールバーグが、「臨界年齢」を強調しました。ある年齢を過ぎると学習が不可能になる性質をさします。シュタイナーらによれば、読み書きそろばんは臨界年齢が遅いから、多少遅れても取り戻せます。時期を逸すると取り戻せないのが〈感情の能力〉です。光や音や匂いが引き起こす体験を含めたもの。世界を──あらゆる全体を──深く触知できる、浅ましくない立派な人間に育つための、必須能力です。
――具体的にはどのようなことができますか
成長における最大の課題が〈感情の能力〉の涵養にあること。それによって、〈再帰的〉な共同体の創出に向けて人々を巻き込めるような、また人々に喜んで参加させてもらえるような、共同体的な資質──アドラーの言う「共同体感情」──を養うべきこと。具体的には、誰よりも強力な利他性や貢献性を発揮し、誰よりもヘタレない強さを獲得する者となること。それが、子育ての最終目標であることを、親が腹の底に落ちるまで理解できるかどうか。
それが理解できたら、親自身が自分の振るまいを通じ、子供たちに範を示す必要があります。自分で範を示す自信がないなら、代替的な〈感染〉のチャンスを子供に提供する必要があります。それは具体的な人物である場合もあれば、古い番組や映画の登場人物である場合もあります。絵本体験、音楽体験、遊び体験などを含めて、世界の深さを味わえるリソースを親自身が組織化する必要があるのです。カネのかかる「お受験」の百倍は重要です。
それに加えて、〈最適化〉よりも〈満足化〉が大切であること、損得勘定の〈自発性〉を超えて内から涌きあがる〈内発性〉が大切なことも伝える必要があります。僕は子供たちに二つのことを言います。第一は「細かいヤツは人を不幸にするから、細かいヤツになるな」。第二は「パパの言うことはだいたい間違いだから、最後は自分で考えろ」。前者は〈満足化〉(だいたいで良い)に、後者は〈感染〉(正しさより気持ちが大切)に、関連します。
これらは全て〈満足化〉と〈感染〉の方向に引き寄せる仕掛けです。そして〈満足化〉と〈感染〉の前提になる共同体構築に必要な心構えでもあります。〈感染〉については、「すごい、僕もこういう人になろう」というような感染源に、親自身がなってもいいし、リアルとヴァーチャルを含めて別の人々がなってもいい。ただし後者については、空洞化した社会では放っておいてもどうにもならないので、親が機会を組織化しなければなりません。
昨今は結婚難ですが、今回述べてきたことを踏まえない人は、たとえ結婚しても、絆で結ばれた持続可能な家族共同体を作れず、一人寂しく死ぬしかありません。孤独死と無縁死の頻発が示す厳然たる事実です。そうした人は「終活」をどんなに工夫しても、「おひとりさま」としてさえ心安らかに死ねず、「こんなはずじゃなかった」と未練と後悔にさいなまれながら死ぬ。古来「人を幸せにすることで、自分も幸せになる」ような生き方しかないのです。
関連記事: 「◯活」が流行する背景に人々の巨大な勘違いがあることを指摘しました