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田中が日本最速で王者 プロ5戦目、WBOミニマム級

フリアン・イエドラスに判定勝ちした田中恒成(中央)と、喜ぶ畑中清詞会長(左から2人目)や妹の杏奈さんを肩車する父斉さん(中央後方)ら田中陣営=30日、愛知県小牧市で(小沢徹撮影)

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 世界ボクシング機構(WBO)ミニマム級王座決定戦が三十日、愛知県小牧市スポーツ公園総合体育館で行われ、田中恒成(19)=畑中、岐阜県多治見市出身=がフリアン・イエドラス(27)=メキシコ=に3−0で判定勝ちし、日本選手最速のプロ五戦目で世界王座を奪取した。

 従来の記録は井上尚弥(大橋)が昨年四月に世界ボクシング評議会(WBC)ライトフライ級王座に就いた際の六戦目。田中は持ち味のスピードでイエドラスを上回り、日本選手で二〇〇六年の亀田興毅以来、史上四人目の十代世界王者に輝いた。

 東海三県のジムに所属する選手の世界戦は、田中の岐阜・中京高時代の指導者でもある石原英康さん(39)=岐阜市出身=が〇五年六月に挑戦して以来で、世界戦に勝つのは〇三年十月に世界ボクシング協会(WBA)バンタム級暫定王座決定戦を制して二階級制覇した戸高秀樹さん(42)以来。

 田中は中京高時代にプロデビューし、現在は中京大二年。昨年十月の四戦目で東洋太平洋王者となり、一気に世界王者まで上り詰めた。

◆周囲への感謝、拳に込め

 目標の「日本一応援されるボクサー」に近づいた。

 田中恒成にとってプロの試合で初めて経験する最終12ラウンド。観衆は「こうせい」コールを繰り返した。判定勝ちが伝えられると、しかめていた表情が和らいだ。「声援は、俺たちも一緒に戦っていると聞こえた」

 ボクシングを始めたのは小学五年生から。習っていた空手のパンチ力を高めたいと、岐阜県多治見市のジム「イトカワ」に通い始めた。糸川保二郎会長(71)は「のみ込みが早く、注意するとすぐに修正できた。リズム、バランス感覚が優れ、十年に一人の逸材だと思った」。

 才能が開花したのは中京高校(岐阜県瑞浪市)に進学後。ボクシング部に入り、元プロボクサーの石原英康教諭(39)から指導を受けた。「自主的に練習するよう勧めると、頭を使うようになった。ワン・ツーの打ち方だけで十回は変えた」

 一年で国体を制し、二年で総体、国体、選抜の三冠を達成。世界ユース選手権八強に入り、アジアユース選手権で準優勝した。でも、当時は「優勝がノルマになっていた。勝ってもあまりうれしくなかった」。

 なぜボクシングをするのか。自問し、答えを見つけた。「応援してくれる人たちの笑顔が見たいから」。プロ入りを決断し、三年の時にデビューした。

 王座戦を控え、「重圧に押しつぶされそうになる時もあった」。最軽量級で戦うため、トレーニングと食事制限で体脂肪を3%以下に落とした。追い込みの今年二月には、一日十キロを走り込んだ。「一人では苦しさを乗り越えられなかった」と恩師やジム関係者、家族に感謝する。

 チャンピオンベルトを巻き、四千五百人が詰め掛けた会場を見渡して言った。「大勢の人が見ている中で勝てて幸せ。実力も人気もまだまだ。強い相手と戦い、人間として成長していきたい」

(多治見支局・山本真士、秦野ひなた)

 <田中恒成(たなか・こうせい)>岐阜・中京高時代に1年で国体制覇するなど高校4冠。13年9月に異例の公開でプロテストに合格し、同年11月プロデビュー。14年10月に4戦目で日本のジム所属選手としては最速で東洋太平洋王座を獲得。右ボクサーファイター。5戦全勝(2KO)。

 <世界ボクシング機構(WBO)>世界ボクシング協会(WBA)から分裂し、1988年に創設。本部はプエルトリコ。現在はWBAと世界ボクシング評議会(WBC)、国際ボクシング連盟(IBF)とともに主要4団体の一つに数えられる。日本ボクシングコミッション(JBC)は長らくWBOとIBFを公認していなかったが2013年4月に両団体に加盟した。

 

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