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オーストラリア陸軍による陸軍諜報組織分析
山本武利 訳

1. 総論

日本の諜報機関の働きを十分に理解するためには、日本における形成過程をある程度把 握することが必要である。3つの主要な諜報機関は陸軍、海軍、そして外務省によって統轄されている。

 陸軍と海軍の参謀本部の活動は、1937年11月20日に日本の歴史上3度目に設立された大本営によって統合された。1945年3月に、首相は大本営の職権上のメンバーとなった。外務省の職員達は連絡目的のために参加を許された。故に大本営は戦争後期を通して日本の諜報活動の最終的統轄者であったといってよかろう。

2. 陸軍参謀本部第2部

陸軍参謀本部第2部は諜報部門・参謀本部のメンバーに任務の遂行を行うのに必要な全ての諜報を供給していた。大使館付陸軍武官が提出したレポートを正しくまとめること、そしてその武官達が派遣国で行う秘密の仕事を指揮することに責任をもっていた。この部はスパイ行為の組織化が本来の仕事ではなく、以上の陸軍特務機関(the Army Special Service Organization)を指揮し、そしてスパイ情報源のレポートを受け取ることであった。

3. 特務機関(Military Special Service Organization)

(a) 初期の歴史
 陸軍特務機関の初期の歴史はあまり知られていないが、われわれはある程度の量の情報を2人の日本兵捕虜から得ることができた。これらの情報源によると、1903年に陸軍次官は20人の現役武官と下士官達に花田大佐の下で北京で働くよう命令した。北京に向かって旅立つ前に、彼らは陸軍の制服を捨て去り、中国人の盗賊に扮装した。花田大佐は日露戦争に備えてロシア人に関する諜報を収集するために、満州にいる中国人と満州人の匪賊のリーダー達と接触するように命令されていた。彼は北京に彼の秘密司令部を設立し、部下20人全員を満州に送った。さまざまの接触が成功し、急使を使って書面にしたレポートを北京へ運ぶコミュニケーションの手段が確立された。北京から、秘密と安全性が保障された書面に記された諜報が東京の参謀長に送られた。

 ロシアとの戦争が勃発した時、匪賊達が敵方の背後でうごめく優秀な第5列であることがわかった。彼らによって供給された情報は的確で価値あるものであると証明された。その仕事は20人の武官達と下士官達によって監視されていたが、かれらの半分は捕らえられ、処刑された。終戦時に生存していた10人は設立された特務機関の中核となった。

 この話と他の情報源から特務機関の創設が日露戦争と関わっていることがわかった。それ故、この様な組織の形成は超国家主義団体に属する冒険的な工作員によって行われるスパイ行為の活動とは別個であり、今世紀の始めに日露の敵対関係の前奏としてどこかで組織されたに違いない、と想定するのは合理的である。この戦争(1905年)以降、満州「事変」までその機関の歴史は知られていない。だが、この期間の中国、満州、東アジア、そしてシベリアでの日本人工作員の活動に関する証拠は豊富である。1928年に張作霖将軍の殺害と、併合前の1931年の日本の満州でのスパイ行為には、特務機関の活動が関係していた。その時、土肥原賢二大佐が特務機関の指導者であった。彼は日露戦争に従軍し、1922年に満州に転任した。その後すぐに彼は奉天と大連の関東軍の特務機関長となった。張作霖将軍の暗殺は彼の仕業であって、彼の信頼できる部下達はスパイ行為の広範囲なネットワークのなかで係わっていた。この軍事行動に成功した後、、土肥原は彼の活動を華北に移し、1936年に中将へ昇進した後、華北自治政府の「顧問」として活動していた。彼は黒竜会の傑出した構成員であった。このたびの戦争の間、彼はマレー半島の第7方面軍司令官であって、後に最高戦争指導会議の一員に指名された。彼は同僚の一人によれば「特務機関の作戦と直接の軍事作戦の両方に参加した冒険を志願する軍人」である。東アジアと東南アジアの様々な地域での特務機関の発展は、このレポートの第2部の第一章(省略)で扱われる。

(b)組織
 特務機関が近代的な方針に従って創設されたのは1929年の2,3年前だった。正確な日付は分からない。当時の活動の中心は中国、満州、そしてモンゴルであったが、太平洋での戦争が風雲急を告げ、事務所がインドシナ、タイ、ビルマ、マレーシアそしてオランダ領東インド諸島に設立された。この様な支部が安全確保のため、様々な名称の下に生まれ、それらのうちいくつかは一カ所で名称変更を繰返した。一般的な名前は、陸軍特務機関、あるいは、略称、特務機関であった。日本の国外に設置された支部の名前は隠されていたが、その名称の中に機関という言葉を含んでいた。特務機関は日本陸軍の諜報活動の支部であって、東京の参謀本部の第2部(諜報)の傘下にあった。しかしながらその支部は、相当の活動の自由を持ち、東京の政府の指揮から独立して地域の紛争に影響を与えた。占領地域では、特務機関の支部は場合に応じて前線軍あるいは前線司令部の肝要な一部分だった。彼らは東京に大きな司令部を持つ機関ではなかった。特務機関の東京からの支配権は何カ国かに分割され、それぞれ別の編成の司令部のもとで独自の働きをしていた。しかしながら例えば重要な新しい機関を編成するような大きな問題では東京にその編成の指示を仰いだ。

 既に占領された地域での特務機関は大雑把に言って2つのグループにわけられる。
(@)傀儡政権が設立された占領国の陸軍省
(A)軍政(軍政官)あるいは日本植民政府(総督)によって統治された占領国の陸軍省
(@)第一グループは占領された中国、ビルマ、フィリピン諸島、そして満州国のような国々に属する。これらの国々の特務機関は地域陸軍ないし陸軍司令部の直接の指揮系統下にあって、そのような占領体制に組み込まれていた。ある一人の戦争捕虜の供述によると、中国にある特務機関は、ビルマやフィリピン諸島のそれとは違って、国家と国民をより広い分野で支配していた。また、中国の機関は「戦局の変化でたびたび修正されたり、改良されたが、過去に素人によって誤って指導された後遺症に悩まされている」という。

 別の機関は最初から中国で学んだ教訓を使えるという利点を有していた。特務機関の統轄の典型例はビルマに見られた。この指揮系統では、軍政官の下に、特務機関と並んで顧問部があった。

                  方面軍司令部
                      |
  ――――――――――――――――――――――――――――
 |           |            |            |
経理         軍政官          副官部         その他
             |
            (軍政)
             |
              ――――――――――
             |            |
            特務機関      顧問部
          

顧問部の機能は、その名前が示唆するように、新しく占領した地域を統治する際の軍政を手助けし、助言することだった。特務機関の仕事は、政治部門も経済部門も、顧問部と密接に動くことであった。ビルマでの軍政官の地位の終了をもって、顧問部は特務機関と同じように、方面軍司令部の直接の支配下に入った。

(A)第二のグループはマレー半島、オランダ領東インド諸島、ボルネオ、そして太平洋上のニューブリテンと他の島々のような国々に属する。たとえばジャワ島の行政が実例として役立つ。軍政官の統轄の下、特務機関と一括された統轄の下、「施政長官」 (第一行政官)と命令系統で第2に位置する「施政官」(代理行政官)とがいた。

                  方面軍司令部
                      |
  ――――――――――――――――――――――――――――
 |           |            |            |
経理         軍政官          副官部         その他
             |
            (軍政)
             |
              ――――――――――
             |            |
            特務機関      施政長官
                           |
                        施政官                        

 特務機関と施政長官の仕事は密接に作用しあい、また後者は必要な時には、顧問部の機能も果たすことが出来た。

 しかしながらスマトラでは、特務機関は軍政官の下には入らなかった。それは常駐の最上級の陸軍編成の諜報部の中で機能した。

 これら多少とも永続的な常駐の特務機関に加えて、日本人は純粋に戦術的な性質の機関を組織化した。これらは限定した対象を特別な目的をもって処理すべく前線地域に形成された。特務機関は、戦術的な技能がある一方で、別のものは戦略的になる場合があったといえよう。

 日本の特務機関は様々な名前の下に活動した。これらは個人、傑出した諜報将校、商人あるいは商会、あるいは日本人工作員の名を使った。また花、木、鳥そして動物の名前を採用した。これらの言葉は様々な組織のコードネーム以上の意味は持っていない。ある捕虜は中国で自分達は初め、陸軍の部隊と同様に、司令官の名前につかって名付けられたと述べた。しかしながらこのシステムは、司令官達が度々変わるために、多くの問題を起こした。それゆえ、太平洋戦争勃発頃には、多くの機関は花あるいは木の名前を使う、というシステムを採用し始めた。

(c)機能
特務機関の機能とは、簡潔に述べれば、秘密諜報の仕事を全て合体させ、直接の軍事諜報任務を全て排除することである。一方で「機密(secret)」としては分類されていない情報を集めて配信する。平時と戦時の機能は以下の様に類別できる。
・平時
 (@)潜在的敵国や「侵略予定圏」でのスパイ行為。あるいは列強に対するスパイ行為。
 (A)上記国家でのプロパガンダと破壊活動の準備
・戦時
作戦中
 (B)スパイ行為
 (C)プロパガンダと第5列
占領地域
 (D)国内の防衛上のスパイ行為
 (E)地域住民の宣撫
 (F)日本軍と地域住民/あるいは地域政府との連携
それゆえ、大雑把に言って、この組織の目的は情報を収集することだけではなく、転覆 的運動を組織化すること、士気の低下を意図したプロパガンダを流通させること、破壊活動を計画すること、そして破壊工作員達を訓練することによって、将来の軍事作戦の道筋を準備することだった。日本人がある地域を占領すると、その地域ですでに活動していた特務機関は、住民だけでなく政治的側面も立場にあるため、最も役に立った。それゆえ占領後の彼らの仕事は、行政を手助けすること、戦時体制へ地域住民を組織化すること、日本帝国主義勢力の利益となるように彼らを搾取することであった。特務機関の何人かは正規の陸軍諜報組織に所属し、地域状況についての知識を教えつつ憲兵隊と共に働いていた。

(@)潜在敵国などでのスパイ行為  
戦争勃発に先だって、工作員達は潜在敵国と思われる全ての国々に派遣されていた。彼 らは大抵、無害な見かけの市民として、更に多くの場合は移民、旅行者、学生そして実業 家として外国に入り込んだ。1つの街に一緒に滞在することはほとんどなく、国中の様々な地域に分散した。彼らはそこに定住し、疑いを避けるための隠れ蓑を作りあげ、資料を集めてそれを評価し日本に送った。彼らは旅行者や観光旅行者と接触したり、日本領事館の中でまたはそれと共に働いた。

(A)プロパガンダと転覆活動に向けた準備
これらと同じ工作員達が、その国内で日本びいきのプロパガンダを配布した。彼らは雑 誌、新聞そして定期刊行物に記事を書き、唯一の目的が日本の観点を明らかにすることで ある新しい出版物を創刊したりした例も幾つかあった。これはオーストラリアで実際に行 われており、後に明らかにする(省略)。転覆活動の方では、彼らは住民中の民族主義ないし分離主義的運動を行う不平分子と接触し、彼らを無法な将来の作戦の道具として使った。兵器と弾薬をその国に密輸入し、このような反体制派に渡し備蓄された例も幾つかあった。彼らは来るべき作戦に備えて、第5列を組織化し訓練するのが彼等の義務であった。この分野では、彼らはマレー半島とオランダ領インドの一部で非常に成功した。

(B)作戦中のスパイ行為
実際の作戦中に、工作員を雇用し指導するという彼らの前々の仕事は実を結んだ。彼ら は接触、信号ルートそして彼らの工作員達からの情報伝達を手配した。選ばれた工作員が、 敵の前線の背後でのスパイ行為という特別任務にあてられた。彼らは給料が良く、しばし ば携帯用のラジオを支給された。多くの価値ある情報がこの方法で獲得され、前線の隊に 送られた。

(C)作戦中のプロパガンダと第5列
前者はそのほとんどが、敵の前線の背後に隣接している地域住民に対して向けられた。 その成功は大部分は、戦争勃発前に行われた予備工作の質にかかっていた。ほとんどの工作員達が動員され、彼らは脅迫、デマの形で口頭で、あるいは文書というメディアを通じてプロパガンダを伝達した。戦争前に組織化された第5列も作戦に投入された。大体の場合は、地域住民の訓練されたメンバーによって自然な装いの下に最も効率的にそれは行われた。重要地点の爆破がなされたり、日本軍の爆撃機は標的に向かったり、水源に毒が入れられたりしたことなどが続いた。

(D)国内安全確保―占領地域でのスパイ行為
ある地域が占領されると工作員のネットワークが特務機関によって組織化される。その 目的とは、その地域で何が起きているのかについて正確な情報を入手すること、住民の感 情を把握すること、そして敵の破壊活動から防衛することであった。これらの工 作員達は大抵、地元住民であり、そしてその中核は作戦前そして作戦中に工作員として働 いた者達から構成されていた。

(E)地元住民の間の完撫
これは上述したのと同じ工作員を通じて行われ、彼らの報告書に基礎を置いていた。 完撫という用語は日本人の文書にしばしば使われており、総力戦運動の中での1つの要素として住民の完全な隷従化と彼らを組織化することを含んでいる。これは地域や社会の編成などによって非常に推進された。日本人の観点からいって最も効率的だったのは、隣組つまり地域統制の変形であった。反体制の強い地域では、しばしば陸軍または憲兵隊によって完撫隊が住民を支配下におくために送られた。このような完撫隊には特務機関員と工作員達が、ほとんどいつも含まれていた。

(F)日本軍と地域住民と地域政府、/又は日本軍と地域政府との連携
 これは完撫のもう一つの側面であった。特務機関員は地域住民との接触の際に地域の軍政を助けた。傀儡政府が作り上げられた地域では、特務機関は政府と陸軍の間の連携を図った。特務機関員はしばしば顧問の資格を持って、政府に参加した。中国で何年も南京傀儡政府の顧問として参加していた土肥原将軍がその好例である。

(d)職員と訓練
特務機関の組織の重要性は機関員への方針によって明らかになる。戦争前の指導者は高位の退役陸軍士官から選ばれた。彼らのうち幾人かは日本の超愛国主義的青年将校の派閥構成員だった。1936年にこのグループが起こした政治的暗殺事件後、彼らは追放されていた。かれらは新しい特務機関で、陸軍にとって非常に有用な能力を発揮した。彼らは組織の気骨を当初から形成していたが、士官学校の特別に選ばれた卒業生の手助けを受けた。新しく卒業した士官達の大体3パーセントが、特務機関に志願する機会を与えられたのは明らかだ。しかし審査は非常に厳しく、候補者の1または2パーセントのみが資格を与えられた。陸軍士官を除けば、相当数の文民の軍属と非日本国籍の人間が使われた。

(i) 陸軍将校
当初は陸軍将校が特務機関員を構成した。だが1937年の日華事変後、雇用の仕方が相当に変化した。政治的そして経済的な中国への日本の侵略の結果として、特務機関はその活動範囲を非常に拡大した。政治問題、経済そして通商の専門家が必要とされた。それ故、経済的そして政治的部門が特別訓練を受けた文民達に委託された一方で、偵察や完撫などの特別任務は未だに陸軍の掌中にあった。

(A)文民軍属
戦争勃発前、参謀本部の諜報部は、多くのが意外居住者を含む日本人軍属の記録があったが、彼らはまとめて戦時中に雇用された。彼らの大部分は雇われると、工学技術、石油精錬、財政などの分野での「専門家」になるように任命された。だが言語能力のある者達は大抵、通訳、翻訳家、工作員または完撫とプロパガンダの職員として雇われた。海外居住者の大部分は、戦争直前に召喚されていたが、若干の者は住んでいる国に留まるように指示されていた。彼らは抑留されないで、可能ならば情報を得て国外の連絡相手に報告し、日本の侵略を待つことになっていた。日本に戻った者達の幾人かは特務機関に組み込まれ、侵略のための武力を持って再び南方に向かった。

特務機関での他の軍属は特別に選ばれ、「文官」として知られていた。彼らは高い教育水準を有していなければならず、かつ特別訓練を受けなければならなかった。彼らは軍人に似た制服を着ていたが、異なった等級バッジを持っていた。

(B)現地工作員
 多くの現地工作員が日本が占領を目論んでいた国々から雇われていた。戦争前に、選ばれた者達は日本に送られ、そこで特務機関の厳しい訓練と徹底的な教化を受けた。彼らは工作員として自らの国に戻るか、侵略勢力に割り当てられるかのどちらかだった。他の者は戦争時または占領後に雇われた。

(C)中野学校
 陸軍出身の場合、性格、自己犠牲精神、高度の知性、勇気と忍耐、そして体格の強靱さに応じて選抜された。所属部隊長によって注目された者がこの組織に推薦され、通常訓練期間中、何人もの将校達が彼を注意深く観察した。これらの将校達が必要とされる資質を持っていると考えると、彼は東京にある中野学校(特務機関)へ入学試験に送られた。この厳しい試験を通過すると、この軍人は名前を変え、家族から遠ざかり、市民の衣服を身につけた。3年の課程を終え卒業すると、工作員はいくつかの特別地域に送られ、そこで特務機関のためのスパイ行為を遂行した。学校でのこの3年間の間に、生徒はスパイ行為、爆発物、全ての型の無線セットの操作、プロパガンダ、政治学、そして外国語の訓練を受けた。訓練のために、訓練者は憲兵によって厳しく守られている工場地域に送られ、いくつかの建物への進入路を確保するようにと指示された。生徒はいつも持ち歩いていた携帯ラジオセット(サイズは報告書によるとたったの4インチ×6インチだった)で司令部と接触するように指示された。
中野学校は特務機関員と憲兵隊員むけに1930年に設立された。

(D)昭和学校
 昭和学校の正式名称は「昭和外国語学校」だった。それは創設者、大川周明博士にちなんで「大川学校」としても知られていた。大川は著名な日本人の国家社会主義者であり、有名なスパイで、一時「東亜経済調査局」の長官であった。彼は強烈な国家主義者の軍人と親密な個人的かつ政治的つながりを持っており、また1932年から1935年まで強力な国家主義者政党、「神武会」の総裁だった。大川は個人的にこの学校を1930年に創設し、支配権を握った。だが彼自身は財政的な保障を持っていなかったため、国家主義者グループと富裕な日本人へ産業団体からの寄付によって、援助されていた。この学校は最終的には外務省によって統轄され、東唖経済調査局によって強力な財政的援助を受けていた。名目上は、外国語(英語、フランス語、ヒンドゥスターニー語、マレーシア語、シャム語など)の教育の目的のためだったが、実際は諜報訓練センターを隠蔽するものだった。課程は2年間で、地理学、修身そして経済学も含まれていた。戦争に先立って、卒業生達は日本の外国貿易を発展させるために海外に送られた。彼らは日本が貿易の新しい領域を持てるための、開拓者的仕事を行うことになっていた。この目的のために、日本人生徒のみが許可を与えられ、多くの卒業生達が領事館のまたは商社を隠れ箕にして、海外に送られた。日中戦争の勃発後は、この学校は一般に、中国と大東亜共栄圏の工作員の幹部の訓練を始めた。卒業生達は外務省にとって最も有用であり、外務省は彼らに、送還される国の長期間居住者になる覚悟ができているのを期待していた。

南方地域での戦争の結果として海外事業への参入は限定的なものとなったが、同時に語学の訓練を受けた若者への需要は顕著となった。外務省はこれら卒業生達を通訳として使い、幾人かは公使官職員と大使館員の地位におき、一方で他の者を陸軍と海外の商社へ割り当てた。特務機関は必要な時に彼らを借りたが、特務機関に永久に割り当てられる者もいた。

(F)他の学校
特務機関職員の訓練のための他の多くの学校は、戦争中に占領地域に設立された。

(e)ドイツ外国諜報機関とのつながり
きわめて興味深い資料がある。それは、ドイツ外国諜報局に似た組織が日本の諜報の重複したシステムの中にたしかにあったことを強く示唆している。ベルリンでの外務省からカブールのドイツ公使へ送られたメッセージの中で、日本大使館の樋口中佐は日本の外国諜報機関の代表として記述されていた。このメッセージはドイツ外国諜報機関第2部の総司令部の依頼により送られたものであるから、"Abwehr"「外国諜報局」という言葉は軽々しくは使われない、と想定できる。 Abwehrという用語は、広範囲に散らばった工作員のネットワークを通じて中心に統轄され、スパイ、防諜、そして破壊活動を行う組織を暗に意味する。それは陸軍と密接に連携し、日本の外務省の諜報システムから独立して働き、またそれとおそらく競争していたはずである。このような仕組みは事実、特務機関の一般的に受容されているイメージとぴったりと合致する。主として興味があるのは、日本とドイツのシステムの間に見つけられる類似点と相違点、そして接触の重点、特にアジアでのそれについてである。  

根本的に重要な相違点がすぐに1つ見つかる。ドイツ外国諜報機関は独立した世界規模のラジオ・コミュニケーションのネットワークを持っていたが、特務機関にはメッセージを送るための類似の独立したルートがあったという証拠は何もない。特務機関は陸軍が活発な地帯では、ラジオ回線の陸軍ネットワークと陸軍暗号に依存していた。外交のチャンネル存在する地域では、外交ルートを通じて働かなければならず、可能な場合はいつでも大使館付武官を通じて動かねばならなかった。工作員達が外交的あるいは軍事的暗号を何も持っていけない敵国に向かって入り込む時だけは、特務機関が独立した通信のチャンネルを使っていたことが発見できる。そしてビルマとインドのような詳細な情報が利用可能な場合のみ、工作員達がドイツ外国諜報局から明らかに複製した暗号を使っているのを発見できる。通信手段の独立した回線がこの様に欠如していることの、最も重要な結果の1つは、陸軍とのつながりが日本の場合にはドイツよりも密接だったことである。

ドイツと日本の組織の間にある違いのもう1つの点は部門の位置づけにある。全体的に言ってドイツ外国諜報局は国家によって組織が異なっていた。正規の外交的そして他の諜報組織に加えて、マドリッドのKOスペイン、リスボンのKOポルトガル、そして上海のKO中国のような外国諜報機関の中心部は、各国に一つの国家総司令部を形成し、その国の工作員達から(あるいは情報通信にとって最善の中心であるその国の外部に散らばった工作員達から)情報を集め、ドイツへ送ったりしていた。

日本の特務機関の代表者は、ラジオで報告してから、地域の大使館付陸軍武官を通じて上記の事を行った。この大使館付陸軍武官はその国内での諜報収集工作員のわずか3人のうちの1人だった。大使館付陸軍武官と海軍武官そして公使あるいは大使が諜報の中枢を3つ作り、各々が別々に工作員と彼らからのレポートを東京へ送った。

あらゆる点から見て、日本の「外国諜報機関」の現地部隊光機関の場合はほとんど、報告は全て陸軍のルートを通じて適切な受取人に伝えていた。光機関は例えばビルマや… マレー半島、オランダ領東インド諸島、タイ、など多くの国々に、実際にスパイ行為、防諜行為、破壊活動そしてプロパガンダのために組織化され、訓練を受けたインド人が十分にいるところならどこでも、支部を持っていた点で、ドイツ外国諜報機関とは異なっていた。  

上述したように、ドイツ外国諜報局と光機関の接触のポイントは、工作員に与えられた暗号が全て明らかにドイツ外国諜報局によって教え込まれたものだったということにある。ー事実、光機関の手配の下にインドに上陸した工作員の幾人かはドイツの外国諜報局によって訓練されていた。捕虜への尋問により、外国諜報機関の方法で日本人の訓練がドイツで行われ、その詳細な方法は、1943年4月にアッサムに上陸した無線工作員の最初の一団を訓練する時に東洋にもたらされた、という事実を裏付けた。

4. 憲兵  

日本軍の警察、すなわち「憲兵隊」は陸軍の明確な一部局であったが、大半の他国の憲兵とは異なり、独自の方針を持つ組織体だった。日本では、反動的な国家主義の極派の味方をした。その2つの主要な機能のうち、軍隊での規律保持は比較的重要ではない地位を占めた。活動のうちこの重要度の低い部門に携わった隊の構成員達は、我々の憲兵とまさに同様の義務を負っていた。彼らは「憲兵」の表意文字が書かれた白い腕章をまいた通常の軍服を身につけていた。

(a)組織
東京の憲兵司令部は、陸軍総司令部の直轄下にあり、作戦司令部や陸軍空軍部と同等の地位を占めた。彼らは憲兵隊業務の中では唯一の将官である中将によって指揮された。司令部は日本と海外の占領地域を一連の司令部を支配していたが、満州と南京とシンガポールでは総本部が存在し、その地区内の司令部を支配した。満州の主要な司令部は関東軍に、南京の主要な司令部は支那派遣軍に所属していた。シンガポールの主要な司令部は寺内陸軍元帥の南方軍に所属していた。司令部の下に地区隊がより小さな街に配置され、大尉と中尉が指揮していた。末端に各々の部隊は分隊を持っており、大抵は軍曹によって指揮され、より小さな村などに配置されていた。地区隊も分隊も、特定の陸軍には所属しておらず、単にその地域で軍隊と協同していただけだった。

(b)職員―憲兵隊の4つの型ー
(@)正規  軍政総監部下の占領地域の大半の憲兵隊は、この範疇に入る。一般的規則として、正規の憲兵達は作戦要務令に反するとして駐屯地の規則の下で公的に宣言されてはじめて、陸軍警察から占領地域の警察力を接収した。職員は憲兵の制服(標準の陸軍の制服に、野戦帽、茶色の革のブーツ、ピストル、剣、憲兵の赤い布の文字が縫われた布の腕章、)を着ていた。(ある地域では、「Minitary Police」という英語を使っていた。)これらの職員達はいつも伍長かそれ以上の階級に属していた。

(A)補助  訓練期間中の憲兵業務への志願者達。海外に送られた者達は大部分は監督憲兵補、上等憲兵補、一等憲兵補の下士官だった。彼らは正規憲兵)の補佐として同じ責任と権力を担い活動した。彼らは上述と同じ制服を着たが、腕章はつけなかった。  

(B)野戦(野戦憲兵隊)  戦争中のみ組織化され、日本大使館と海外の領事館の警官隊、そして日本からの外務省職員も含んだ。特務機関によって雇われた日本人市民達は陸軍憲兵隊にもいた。彼らは制服も腕章もつけていなかったが、全ての憲兵隊と同じく、身分証明書を携帯していた。彼らは大抵は普通の市民の服装をしていたが、スパイ活動のために現地人に時には変装した。野戦憲兵の義務は     
(@)防諜報  軍事情報の防衛。対抗的スパイ行為と対抗的破壊活動、対抗的転覆活動、そして対抗的プロパガンダ。     
(A)特務戦 プロパガンダ、スパイ行為そして現地住民の懐柔、現地ゲリラ軍の訓練。     
(B)戦闘諜報 密告者、偵察隊、斥候などとして現地人を使うこと。     
野戦憲兵は、外交、外務省あるいは領事館元職員のような敵の領地の知識がある多くの日本人から成っていた。    
(C)野戦補助   特務機関と恐らく陸軍縮成によって野戦憲兵の補助として 雇われていた日本人市民。現地人達はこの仕事には雇われなかった。

(c)機能  
憲兵は市民対象警察よりも軍事に関する状況が発生した場合には広範囲な権限を持っていた。野戦憲兵は正規憲兵よりもずっと広範囲な権限を持っていた。彼らは裏切った工作人、敵のスパイ、あるいは危険な人物たちを自発的に始末できた。憲兵の司令部は2つのセクションに分かれていた。     
(a)一般部門
(b)兵役部門

一般部門は方針、職員、規律、記録の問題と軍での思想管理に携わった。兵役部門は3つの主要な機能を持ち、それは訓練部、安全保障、そして対抗的スパイ行為だった。全ての地域で彼らの広大な義務とは、軍規の監視、安全の確保に重要な軍事地帯の防衛、階軍隊構成員の犯罪の摘発、第5列の摘発と逮捕そして転覆的デマの粉砕であった。

憲兵隊は治安という意味のみで、占領地域の現地の住民と外国人居住者に対して支配権を行使した。他の全ての物事での住民と日本軍との関係の調整も、憲兵はしばしば相談を受けたが、その地域に割り当てられた地区隊長の責任だった。警察の権力は、政治的支持、一般的国内状況、個々人の性格と忠誠心、疑わしい行動あるいは出来事、破壊活動の調査や検閲などを含んだ。憲兵隊は現地の工作員達、日本人市民である雇用者達、そして諜報職員からの報告に助けられていた。疑わしい全ての個人についての書類が保存され、憲兵によって分遣隊と支局を経て憲兵司令部に報告が提出された。陸軍と特務機関もまた情報を受け続けていた。これらの機能は陸軍憲兵隊、補助陸軍憲兵隊、そして特務機関の現地工作員によって遂行され、諜報価値のある相当な情報がその過程で獲得された。憲兵隊によって提出されたほとんどのレポートは諜報レポートというよりもむしろ対抗的スパイ行為の性質を持っていたが、陸軍憲兵隊と補助陸軍憲兵隊は作戦中に価値のある情報を得る立場にあり、しばしば実際にそれを手に入れた。諜報と対抗的スパイ行為のレポートは両方とも特務機関に提出された。憲兵隊、特に補助憲兵隊はさしでがましく、しばしば権力を濫用した。彼らは陸軍構成員によって好かれてはいなかったが、彼らの権威は否応なく尊重されていた。

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