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2012-07-22

マンガのモノローグについての覚え書き


夏休みに入って時間の余裕があるので、マンガのモノローグについて考えたことをまとめてみます。先日、マンガを読みながら、ふとこれはいったいどういう仕掛けなんだろうと気になって以来、つらつらと考えたことの覚え書きです。マンガのモノローグは、本来の演劇で用いられる「独白」とはずいぶん違った役割のもので、かなり特殊な仕掛けだと思います。Wikipediaの「モノローグ」の項目にあるマンガのモノローグについての記述はあきらかに間違っています。


Wikipedia「モノローグ」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0


まず、マンガのセリフを大きくわけると、実際に話している言葉、心の中のつぶやき、モノローグの三つになります。実際に話している言葉には、「ふきだし」というマンガ独自の記号が用いられます。つぎの場面は、泣き言を言ってるのび太にドラえもんが長ゼリフで説教しているところです。


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画像はこちらから拝借 http://plaza.rakuten.co.jp/neoreeves/


ふたつめの心の中のつぶやきは、ふきだしを変形させた記号であらわされます。再び「ドラえもん」を例に、物思いにふけるのび太が心の中でつぶやく場面です。画像は上と同じサイトから拝借。


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三つめのモノローグではどうなるのかというと、ふたつめののび太の心のつぶやきをモノローグで表現した場合、こんなふうになります。


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モノローグで表現されるとのび太の切ない思いがより強調されます。のび太がまるで少女マンガの主人公になったみたいです。では、モノローグの正体はなんなのかというと、コマに直接心の声をのせることで、そのコマ全体が語り手の意識の中にあることを示すための記号です。それによって、読者は語り手の意識の中へ誘導され、語り手の意識を通して物語の世界を体験している状態におかれます。ふたつめの表現では、読者は第三者の視点を維持したまま、のび太の心のつぶやきを他者として聞いているのに対して、モノローグ表現では、のび太の意識を通して内側から劇中の世界を体験することになります。したがって、もし上のモノローグのコマに絵を入れるとしたら、のび太のまなざしを通して見た空き地の風景か、のび太の思い描いている心象風景になります。読み手はのび太と意識を共有している状態にあるので、同じ心の中の言葉でも、のび太の感傷的な気持ちやドラえもんがいないことの寂しさをよりダイレクトに体験することになるわけです。その意味でマンガのモノローグは読み手をより物語の中へ引き込み、感情をゆさぶる非常に強力な仕掛けです。


こうしたモノローグの手法は、1970年代くらいから少女マンガで使われるようになり、1980年代には作品全体の構成にも影響をもたらすようになっていきます。それは物語に重層的なまなざしと意識の入れ子構造をもたらし、読者に強い感情を体験させる画期的な発明でした。手塚治虫が「新宝島」で映画のモンタージュの手法を導入したのと同じくらいマンガ表現の幅を広げる発明だったと思います。とりわけ恋愛ものは、まなざしと感情のせめぎ合う自己と他者との関係性の物語なので、登場人物の意識の中へ積極的に誘導することで絶大な効果を発揮します。欠点としては、どうしても各場面の構成が複雑になるので、小さいこどもやマンガを読み慣れていない人にはわかりにくくなってしまうこと、また、登場人物との感情の共有によって作品全体が内省的で叙情的なものになるので、ギャグやアクションものには向かないことがあげられます。


では、具体例を手元にある何冊かのマンガから。


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萩尾望都「ポーの一族」第一話より 1972年

 すでに1972年の「ポーの一族」で、モノローグが登場人物の意識の中へ誘導するための仕掛けとして確立されています。上の場面は、父との言い争いにかぶさるように主人公・エドガーのモノローグが入ることで読み手は彼の意識へと誘導されていきます。最後の縦長のコマでは、吸血鬼として永遠の時を生きるエドガーの心象風景が提示され、時の流れの中で移ろいかわっていく彼のおぼろで物憂げな世界を読者は共有することになります。


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諸星大二郎「遠い国から」第一信より 1978年

 諸星大二郎も初期の1970年代の作品には、モノローグを使って語られるものがいくつかあります。この「遠い国から」では、旅人のモノローグと彼のまなざしを通して、遠い国で暮らす人々の奇妙な習俗が紹介されます。全編を通してモノローグが使われることで、そこで描かれているのが実際に彼の目の前に広がっている風景なのか、語り手の心の中の風景なのかわからなくなっていきます。


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田渕由美子「夏からの手紙」より 1979年

 1970年代に少女マンガはモノローグを使った心情表現を確立したことで、それまでのお姫様と王子様の様式化されたラブストーリーから、より等身大の登場人物たちの恋愛を私小説的に描くようになっていきます。それにしても、田渕由美子、30年以上も前のマンガなのに、絵柄も構成もほとんど古くなった感じがしません。むしろ、1980年代に少年誌を席巻したラブコメも90年代以降のアニメ絵のラブコメもみんなこの乙女ちっく路線の焼き直しのように見えます。少女マンガが1990年代に入って、乙女ちっく路線のシャイで受け身のヒロインと少し屈折した王子様という関係性を解体していくのに対して、少年マンガやアニメのラブコメは、逆にそのふわふわした関係がどこまでも続く閉じた世界を描くようになっていきます。「夏からの手紙」の主人公は、堅物の優等生でまわりから「委員長」なんて呼ばれているけど、内面は恋する乙女という高校二年の女の子。ふだんは皮肉屋で毒舌なのに動揺するとすぐ顔に出て真っ赤になってしまうというヒロイン像も、その後のラブコメのひな型になりました。


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大島弓子「キララ星人応答せよ」より 1974年

 モノローグを多用する作家に大島弓子がいます。大島弓子のすべての作品で、物語は登場人物のモノローグによって幕を開け、要所要所にモノローグが入り、再びモノローグによって幕を閉じるという構成がとられています。それによって、物語全体が登場人物の意識の世界であることが示されます。大島弓子の作品は、物語全体が登場人物の意識の中にあるという入れ子構造によって、物語が終わった後も読者はそのまま物語の世界に取り残され、読後に長い余韻がつづくのが特徴的です。


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大島弓子「シンジラレネーション」より 1977年

 大島弓子の作品は、モノローグの語り手と主人公とがしばしば異なります。とくに男の子が語り手になった場合、彼のまなざしを通して描かれるヒロインや周囲の人々の言動にウェイトが置かれることになります。大島弓子のマンガに登場する男の子たちは、少年マンガの主人公たちとは逆に、控えめで精神年齢の高いキャラクターとして描かれているので、彼らは無茶をするヒロインや周囲の人々がおこす事件に振りまわされる形でストーリーが展開していきます。受け身の登場人物が語り手となって周囲の人々を描写していく場合、まなざしはより重層的になり、物語としての幅も広がるのが特徴です。逆に自ら事件をまきおこす突撃型のヒロインが同時にモノローグの語り手を兼ねる場合、彼女の思い込みや独善が強く出てしまうので、やや一本調子になる傾向があります。


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大島弓子「綿の国星」第一話より 1978年

 モノローグによって登場人物の意識へ導く手法は、作品全体の構成にも影響を与えます。大島弓子はこの手法を積極的に用いることで様々な仕掛けを生み出しました。この「綿の国星」では、主人公は捨てられた仔猫で、作品全体が仔猫の見た心象風景として構成されています。上の場面の心の声の入った四角い枠もモノローグの変形記号です。主人公である仔猫は、もうすぐ自分は人間になると信じているので、作中に登場する彼女自身も人間の少女の姿をしています。「綿の国星」は、それまで大島弓子がやってきた意識の中の物語をキャラクターの造形や場面描写までふくめて作品全体を構成しているのが特徴で、意識の中の物語というマンガ表現を確立した作品として高く評価されています。ただ、主人公の諏訪野チビ猫は典型的な突撃型のヒロインで、物語の世界は、彼女のいだいている「赤毛のアン」ふうの少女趣味ですべてが描写されていくので、個人的にはこのシリーズ、少々苦手です。


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大島弓子「ロングロングケーキ」 1987年

 作品全体がモノローグの語り手の意識の世界であるという構成は、物語の中にいる語り手の意識の中に物語があり、その中にも語り手をふくめて登場人物たちがいて、その語り手の意識の中にもまた物語があってという無限の入れ子構造をつくっていきます。「ロングロングケーキ」では、この入れ子構造をひっくり返し、実際にこの世界が語り手である主人公の夢かもしれないというというメタフィクションのストーリーにすることで、自己と他者の関わりや目の前に広がっている世界との関係性について描かれていきます。この作品で興味深いのは、ラストでモノローグの語り手が交代し、自分はいま主人公の夢の中にいるのではないかと語ることで、さらにもうひとつの意識の入れ子構造をつくっている点です。この構成によって、読み終えた後も、いつまでも醒めない夢の中にいるような感覚をもたらします。


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大島弓子「夏の夜の漠」より 1988年

 大島弓子のマンガはほとんどの作品でクライマックスシーンがモノローグになります。とくに1980年代以降になると、クライマックスシーンで絵はなくなり、しばしば上の場面のように黒バックに白抜きのモノローグだけで表現されます。大島弓子の作品は、ストーリーが外へ向かって広がっていくプロット型の作品とは異なり、語り手のまなざしを通して提示される事件はひたすら内面へ向かい、語り手の心の中を縦に掘り下げるように進行します。物語の中でおきる様々な事件は、それ自体をドラマチックに見せるものではなく、その体験によって語り手と読者を心の深いところへ導いていくための道しるべです。そうして心の深いところへ降りていって、物語の語り手が心の一番深いところで拾いあげたのがこの黒バックで語られるモノローグの言葉です。なので、クライマックスシーンでは、もはや絵は不要で、心の深いところから拾いあげたモノローグの言葉だけで表現されます。基本的にマンガ家は絵を描きたい人たちなので、劇的な場面や印象的な情景をつないでいくことで物語を構成しようとするものですが、場面描写に力点を置かない彼女の手法は、当時、際だって異色でした。雑誌に彼女の作品が掲載されていると、そのページだけ極端に線を省略した白いコマと文字の多い構成によって一目でわかるほどでしたが、その後、クライマックスをモノローグだけで表現するこの手法も、多くの作家が用いるようになります。というわけでマンガのモノローグの手法は、大島弓子の作品でやりつくされた感じがします。その後のマンガ作品でモノローグが使われる場合、直接的・間接的に大島弓子の作品からなんらかの影響を受けているように思います。


 ただし、この手法は映像作品とは決定的に相性が悪いという欠点があります。モノローグを多用したマンガをそのままドラマやアニメにした場合、やたらとくどくて甘ったるいものになりがちです。動きのある映像作品の場合、俳優の演技やカメラワークに加えて効果音や音楽もつくので、それだけで十分登場人物の意識の中へ誘導することが可能です。そこにさらに俳優の肉声で語られるモノローグが加わると説明過剰でまるで感情を垂れ流しているような状態になってしまいます。読み手を登場人物の意識の中へ誘導するマンガのモノローグは、あくまで記号化されたマンガならではの手法です。映像作品では、モノローグや説明的なセリフはできるだけ切りつめて、映像だけで見せていくのが基本ではないでしょうか。


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岡崎京子「リバーズ・エッジ」より 1994年

 岡崎京子もこの黒バックのモノローグを要所要所にはさみます。大島弓子のマンガが好きなんだろうなあというのは伝わってきますが、その使い方はずいぶんちがいます。大島弓子のマンガが登場人物たちの意識の世界なのに対して、岡崎京子のマンガの場合、若者たちの群像劇で、あくまで登場人物たちのドラマをストレートに見せていきます。なので、ドラマの合間にはさまれる黒バックのモノローグのコマは、「そんなことを考えている彼・彼女」という説明的な意味合いであって、登場人物への余計な感情移入を拒否するように場面は再び彼らのドラマへ戻っていきます。ちょうど古い無声映画で説明的にはさまれる書き文字のセリフと同じ役割で、大島弓子の作品のような意識の世界へ誘導する仕掛けとしては機能していません。あくまでニュートラルな視点を維持するのなら、間に説明的な心理描写をモノローグではさんだりせず、オーソドックスなドラマとして会話や表情によって彼らの感情や思いを表現していくのが本来のあり方のはずです。なので、彼女の作品の場合、モノローグは不要だと思ってるんですが、いかがでしょうか。


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漆原友紀「蟲師」第十巻・香る闇より 2008年

 「蟲師」もモノローグを多用して登場人物の意識の中へ入っていきます。こういう怪異譚の場合、そもそも「客観的事実」など存在しない世界なので、怪異とそれを体験する者の意識の世界とは不可分のものです。「蟲師」は毎回ストーリーもよくできていましたが、それ以上にその怪異を体験する者たちの意識の描写が優れていました。怪異譚がたんにお化けや妖怪が出てくる話ではなく、それを体験する者たちの意識の世界の物語であることにあらためて気づかせてくれます。同時にそれは私たちが日々体験している「現実」や「認識」といったもののあてどなさも思わせてくれます。とくにこの「香る闇」は、登場人物がひとつの循環する時間を繰りかえし体験しながら、彼の意識の中へ深く降りていく印象的なエピソードでした。「蟲師」で特徴的なのは、モノローグの語り手が主人公・ギンコではなく、彼が出会う人々の側であることです。それまで怪異の外側にいた者が奇妙な体験をし、そのまなざしを通して怪異が語られ、主人公は常にその怪異の中にいる存在として描かれます。非常によく練られた構成だと思います。


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秋山はる「オクターヴ」第五巻より 2010年

 これも「蟲師」と同じ「月刊アフタヌーン」に連載されていたマンガですが、モノローグとカットバックを多用して心理描写を展開していく手法は完全に少女マンガのものです。「オクターヴ」は女性同士のシリアスな恋愛もので、こういう互いのまなざしと自意識がせめぎ合う作品の場合、積極的に読み手を登場人物の意識の中へ誘導していくのは不可欠です。マンガは動きも生身の俳優が演技するリアリティもない、記号と約束事に基づく表現媒体なので、意識の世界への誘導がなければこれほど複雑な心理描写はできなかったはずです。「オクターブ」では、カットバックによって各場面を緊密に結びつけ、そこでのやり取りを通して心の深いところへ降りていき、登場人物の感情が高まったところでその思いがモノローグで語られるという構成がくり返されます。その心理描写の密度は圧巻でした。こういう心の中をひたすら縦に掘り下げていくシリアスな作品の場合、書き手はさぞやしんどかったんじゃないかと思うんですが、読むほうもしんどかったです。全六巻、のたうちまわりながら読みました。


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羽海野チカ「3月のライオン」第一巻より 2008年

 羽海野チカも登場人物の感情がこみ上げてくる場面では、必ずモノローグを使います。「3月のライオン」のモノローグは二段構成で、ふつうのモノローグがそこにいる主人公の心の声で、クライマックスになると入る帯状のモノローグがそんな自分を遠くから見ているもうひとりの自分のまなざしです(よね?)。ただ、「3月のライオン」は場面転換が少なく、各コマの連続性の強い映像寄りの作品なので、ここまでモノローグを入れるのはちょっとくどいかなと思うんですが、どうでしょうか。横書きが混ざると読みにくいし。


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志村貴子「青い花」第六巻より 2011年

 鎌倉にある女子校を舞台にした女の子同士の恋愛マンガ。十年ぶりに再会したふみちゃんとあーちゃんという幼なじみの友情と恋愛を軸に物語は展開していきます。鎌倉の閑静な住宅街、明治に創立された女子校の趣のある木造校舎、古いチャペルと礼拝堂、毎年古典作品を上演する演劇祭、さらには宝塚の男役のような女子生徒あこがれのセンパイの登場とまあいう調子なので、特殊な閉鎖環境における思春期の少女たちの恋愛ファンタージーなのかと思いきや、人を好きになることの痛みや恋する者の愚かさ・残酷さがたんねんに描写されていきます。また、高校時代にそうした経験をした彼女たちの「その後」として、成人した卒業生が劇中や番外編に登場することから、その葛藤を現実と地続きの等身大の女性のものとして描こうとしていることが読み取れます。場面の省略と転換が多く、登場人物たちの意識の流れを追うようにカットバックが入り、クライマックスではやはりモノローグによって彼女たちの心情が表現されます。女の子たちの群像劇ですが、引いた視点から彼女たちのドラマを追うのではなく、読み手を彼女たちの意識の中へ積極的に誘導し、そのまなざしを通して彼女たちの感情や互いの関係性を描いていきます。とくに主人公のひとりであるふみちゃんという女の子は、大事なことをなかなか口にすることができず、重い感情をうちに抱え込みながら、それでも自分の気持ちや相手に誠実であろうと葛藤しているキャラクターで、彼女の内面描写は魅力的です。上の場面は、ふたコマ目がもうひとりの主人公であるあーちゃんのアップなので、つながりがちょっとわかりにくいですが、それにつづくモノローグはめがねのふみちゃんの側の言葉で、目の前にいる親友との気持ちのズレととどかない思いについて、自分自身に言い聞かせているところです。右下の黒いコマでふみちゃんの心の中へ入っていって、左上の白いコマで彼女が自分の気持ちを確認する様子があらわされています。基本的につづきものの長いマンガは完結してからまとめて読むことにしてるんですが、この「青い花」と「3月のライオン」は現在も雑誌連載がつづいていて、「青い花」は、つい先日、連載開始から八年でようやく七冊目が出たところです。あーちゃんのほうは自分の性的志向どころか恋愛感情すら自覚していない状態なので、まだ先は長そう。あまり映像作品には向かないマンガだと思うんですが、何年か前にアニメ化もされています。


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