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【神奈川】

焦土の中で 横浜大空襲70年(1) 「戦争で問題は解決しない」

東小学校の児童らに体験を話す神倉さん=横浜市西区で

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◆「お母さん!」迫る火 離れた手 母弟失った神倉さん

 「お母さん!」。炎に追われた人々でもみくちゃになった校舎で、つないだ手と手がほどけた。十三歳だった神倉稔さん(83)=大和市=にとって、それが母親、弟=当時(5つ)=との永遠の別れになった。

 その日。父や兄姉は働きに出ており、燃え盛る街を母親と弟と駆けた。気付いたら高さ数メートルの火の壁に囲まれていた。「校舎は鉄筋コンクリートだ」。近くの東(あずま)国民学校(現東小学校、西区)に逃げこんだ。

 しばらくすると校舎の入り口に火が付き、後ろにいる人たちが「早く行け」と前の人を突き飛ばして進んできた。屋上に向かう途中で母親たちとはぐれ、押されて旧音楽室に入り込んだ。やがてそこも火が回り、窓から脱出。校庭のマンホールに入り、中にいた人たちと泥水を掛け合い、降り掛かる火の粉を消した。

 数時間たって外に出ると、避難者がすし詰めになっていた校舎はとても静かだった。火葬場で焼いたような真っ白な骨が廊下に敷き詰めたように転がっていた。母親たちを探し、数日間、街中を回った。

 水を求めたのか、遺体は皆、道の両側の溝に集中し、異臭が漂っていた。母親くらいの年齢の遺体はどれも子どもに覆いかぶさり、下の子どもはやけどもなく、安心した顔で事切れていた。親の愛情に命の大切さと戦争のむなしさが胸を込み上げ、涙があふれた。

 母親たちは見つからず、三十体以上の遺体をひっくり返した手は、人の脂で何日もにおいが取れなかった。「なぜあの時手を離したのか」。自責の念に悩んだ。

 三年ほど前から、東小学校で、生徒たちを前に講演している。「こんな悲惨なことは二度とあってはいけない」と、後輩たちに戦争の記憶を伝える。空襲直後は「鬼畜米英」と予科練入隊を目指し、米国への報復を誓ったが、七十年たった今、気持ちは平穏だ。

 「未来永劫(えいごう)憎しみあっても互いによくない。中国、韓国とも歴史認識の違いで溝ができているが、きちんと話し合い、気持ちの整理をしなくてはいけない時期に来ている。戦争で問題は解決しない。未来を背負って立つ子どもたちには、命を大切にする人に育ってほしい」 (小沢慧一)

      ◇

 横浜の市街地が壊滅した「横浜大空襲」から七十年。親しい人を亡くしたり、炎の中を逃げ惑ったりした体験者の証言を紹介する。

 

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