2006年 05月 01日
【6108】 「読書、それは、師との対話である」 |
★ 読書とは何か? 本を読むことの意味。それを話題にする時に、私は、常に、大学の恩師・今井仙一先生の教えを思い出します。これまで多くの読書論を読んだり、雑談の中で聞いたり、しましたが、この歳になっても、やはり、今井先生の読書論が一番、分かりよいです。自分が今、ある姿、その形成史を重ね合わせても真実だと実感します。
★ 大学最後の4回生。ゼミは、今井先生の政治哲学に参加しました。恥ずかしながら卒業研究は「カント、ヘーゲル、マルクスにおける国家論」 随分、本を読まされました。そして、1954年2月の最終演習の時間。最後まで残った、たった五人の学生にこう仰いました。
★ 「君たちは、これから社会に出るが、読書を忘れてはいけない。 読書とは何か? 最後に読書の本質を語っておきたい。 読書とは、古今東西、世界中の英知・知性と対座することだ。本を開く。それは、時代と場所を超えて師と向かい合うことを意味する。プラトンの著書を開く、君たちは2400年の時を超えて、プラトンと向かい合える。そして、対話が始まる。 読書とは、そういうことだ」
★ 何故、私たちは、本を読むのか? 読まねばならないのか? そういう疑問に、このように明快な答えを出して下さった人にお目にかかったことがありません。大学卒業の直前に教えていただいたこの最終講義は、今でも、威厳に満ちた言葉の調子そのままに私の脳に刻み込まれています。
★ 卒業後、新聞記者になり、続いて大学教員になって過ごした過去50年を振り返ってみて、シミジミ思うことは、今井先生のお説の通り、本を読む、とは、師と向かい合うことだった、という実感の重みです。
誤解を恐れず, 言い切ってしまえば、それを実感できないような本は読む必要はありません。
魂が触れあう。そのことが一番、大事です。
★ 私は、今、一所懸命、「古事記」を読んでいます。
若い頃から、私は西洋のことばかり勉強しました。特にキリスト教聖書などは、今でも、多くの聖句を暗記しています。 しかし、日本の歴史は、殆ど知らない。神話・古典歴史書・古典文学も殆ど知りません。敗戦で、こうした日本古典は、全面的に否定されて、学校で教わることもありませんでした。
★ 75歳にもなって、一番、悔やまれるのは、祖国の古典素養の欠落です。 もうかれこれ4、5年にもなるのですが、私は、古希にたどりついて、遠い昔の我が祖先はどこから来て、どうして日本人になったのか? そのルーツに関心を抱くようになりました。
★ とどのつまり、最後に導かれたのが「古事記」の世界です。最初は、口語体古事記などを読んでいましたが、そうしながらも、いつも今井先生の教えがアタマを過ぎりました。 今井先生は、こう仰ったのです。
★ 「だから、古今東西、先哲の書に親しむためには、その言葉を学ばねばならぬ。
例えば英語を学んでシェイクスピアに向かう。その時、初めて彼は君の前に姿を現す。翻訳で満足していてはダメだ。通訳者の顔ばかりが大きくなる。」
★ プラトン哲学者だった今井先生は、講義にしばしばギリシャ語原典を引用し、その語義を解き明かしながら「国家論」を論じられるのが常でした。それが、ゼミ参加者の足を遠のかせる原因でもあったのですが、今にしてその意味の重要さが分理解できた、ような気がしています。
★ 私は、ネット上のから”電子古事記写本”を手に入れ、これを学ぶことにしました。それは、何と、日本最古の『国宝・真福寺本古事記』 岡崎市の天台宗 霊鷲山降劒院真福寺・・・推古天皇の御代( 549年) 聖徳太子が建立されたという由緒ある名刹で伝承されてきたものです。
★ ???えっ? どうして、そんな貴重な本が手に入ったのか?
答えは簡単です。インターネットで検索したら、関根聡氏の『古事記正解』にその原本がPDFファイルに複製されて公開されていたのです。関根さんは米ニューヨーク大学の研究助教授。考証された本物です。
★ 今は、本当にいい時代ですね。一昔前だったら、どれだけお金を積んでも、絶対に手に出来なかったことが、我が家の書斎で、いながらにしてクリックすれば直ちに手に出来る。しかも、全部タダ。なんと凄い時代ですね。
★ この古い写本。 印刷機が無かった時代、人々は、このように、数も極端に少ない、貴重な本を借り受け、
一字一字、書き写して、自分の蔵書を作り、学んだのですね。
★ 「学ぶ」とは、もともとそういう態度に始まります。私も、それを実行することにしました。
一字一字、書き写しながら学ぶ。「古事記」は、そのようにして学ぶのが一番、正しい学習法と気づいたからです。
和銅五年正月二十八日、太朝臣安萬侶が天皇に奏上した、その現場で肉声を聞いているような思いさえします。一字一字が、1300年の歳月を超えてその時代の言葉で肉声で私に、語りかけてくるのです。
★ 凄い! この迫力。
毎日、少しずつ、この古い写本を残した名の知れない学徒と共に、一語一語を書き写しながら、その言葉の意味を確かめ、その度に、深い感動に浸りながら、私は「古事記」の魅力に取り憑かれています。
★ 思えば、”師との対座”は、インターネットで当時より、うんと現実的になりました。今井先生の時代は、少なくとも書物を求め、手にすることは非常に困難でした。図書館に籠もり、蔵書カードを1枚1枚、繰りながら探し求める必要がありました。そして膨大な図書購入費。
★ 世界をつなぐネット時代。いまや、それは昔話になりました。たとえ1000年、2000年の時を超え、地球の裏側にそれが存在しようと、必要なことは、ただ、「念ずるだけ」 あとはパソコン立ち上げて、クリックするだけで先師と出会えるのです。読書は師との対座。読むべき書は数ではありませんね。
★ この大型連休。一つ、古典を読むのもいいかもしれません。
★ 大学最後の4回生。ゼミは、今井先生の政治哲学に参加しました。恥ずかしながら卒業研究は「カント、ヘーゲル、マルクスにおける国家論」 随分、本を読まされました。そして、1954年2月の最終演習の時間。最後まで残った、たった五人の学生にこう仰いました。
★ 「君たちは、これから社会に出るが、読書を忘れてはいけない。 読書とは何か? 最後に読書の本質を語っておきたい。 読書とは、古今東西、世界中の英知・知性と対座することだ。本を開く。それは、時代と場所を超えて師と向かい合うことを意味する。プラトンの著書を開く、君たちは2400年の時を超えて、プラトンと向かい合える。そして、対話が始まる。 読書とは、そういうことだ」
★ 何故、私たちは、本を読むのか? 読まねばならないのか? そういう疑問に、このように明快な答えを出して下さった人にお目にかかったことがありません。大学卒業の直前に教えていただいたこの最終講義は、今でも、威厳に満ちた言葉の調子そのままに私の脳に刻み込まれています。
★ 卒業後、新聞記者になり、続いて大学教員になって過ごした過去50年を振り返ってみて、シミジミ思うことは、今井先生のお説の通り、本を読む、とは、師と向かい合うことだった、という実感の重みです。
誤解を恐れず, 言い切ってしまえば、それを実感できないような本は読む必要はありません。
魂が触れあう。そのことが一番、大事です。
★ 私は、今、一所懸命、「古事記」を読んでいます。
若い頃から、私は西洋のことばかり勉強しました。特にキリスト教聖書などは、今でも、多くの聖句を暗記しています。 しかし、日本の歴史は、殆ど知らない。神話・古典歴史書・古典文学も殆ど知りません。敗戦で、こうした日本古典は、全面的に否定されて、学校で教わることもありませんでした。
★ 75歳にもなって、一番、悔やまれるのは、祖国の古典素養の欠落です。 もうかれこれ4、5年にもなるのですが、私は、古希にたどりついて、遠い昔の我が祖先はどこから来て、どうして日本人になったのか? そのルーツに関心を抱くようになりました。
★ とどのつまり、最後に導かれたのが「古事記」の世界です。最初は、口語体古事記などを読んでいましたが、そうしながらも、いつも今井先生の教えがアタマを過ぎりました。 今井先生は、こう仰ったのです。
★ 「だから、古今東西、先哲の書に親しむためには、その言葉を学ばねばならぬ。
例えば英語を学んでシェイクスピアに向かう。その時、初めて彼は君の前に姿を現す。翻訳で満足していてはダメだ。通訳者の顔ばかりが大きくなる。」
★ プラトン哲学者だった今井先生は、講義にしばしばギリシャ語原典を引用し、その語義を解き明かしながら「国家論」を論じられるのが常でした。それが、ゼミ参加者の足を遠のかせる原因でもあったのですが、今にしてその意味の重要さが分理解できた、ような気がしています。
★ 私は、ネット上のから”電子古事記写本”を手に入れ、これを学ぶことにしました。それは、何と、日本最古の『国宝・真福寺本古事記』 岡崎市の天台宗 霊鷲山降劒院真福寺・・・推古天皇の御代( 549年) 聖徳太子が建立されたという由緒ある名刹で伝承されてきたものです。
★ ???えっ? どうして、そんな貴重な本が手に入ったのか?
答えは簡単です。インターネットで検索したら、関根聡氏の『古事記正解』にその原本がPDFファイルに複製されて公開されていたのです。関根さんは米ニューヨーク大学の研究助教授。考証された本物です。
★ 今は、本当にいい時代ですね。一昔前だったら、どれだけお金を積んでも、絶対に手に出来なかったことが、我が家の書斎で、いながらにしてクリックすれば直ちに手に出来る。しかも、全部タダ。なんと凄い時代ですね。
★ この古い写本。 印刷機が無かった時代、人々は、このように、数も極端に少ない、貴重な本を借り受け、
一字一字、書き写して、自分の蔵書を作り、学んだのですね。
★ 「学ぶ」とは、もともとそういう態度に始まります。私も、それを実行することにしました。
一字一字、書き写しながら学ぶ。「古事記」は、そのようにして学ぶのが一番、正しい学習法と気づいたからです。
臣安萬侶言夫混元★ 今日の読書・・・・ひとときを、対座し先哲に学ぶ
既凝氣象未敦
無名無爲誰知其
しん、やすまろ、もうさく、それ、混元、★ 「古事記」の書き出し・・・小声で声を出しながら読むと、身体がゾクっとするほどの感動が走ります。
すでに、凝りて、氣象、未だ、敦れず、
名も無く、為もなし、誰か、其を、知らむ。
和銅五年正月二十八日、太朝臣安萬侶が天皇に奏上した、その現場で肉声を聞いているような思いさえします。一字一字が、1300年の歳月を超えてその時代の言葉で肉声で私に、語りかけてくるのです。
★ 凄い! この迫力。
毎日、少しずつ、この古い写本を残した名の知れない学徒と共に、一語一語を書き写しながら、その言葉の意味を確かめ、その度に、深い感動に浸りながら、私は「古事記」の魅力に取り憑かれています。
★ 思えば、”師との対座”は、インターネットで当時より、うんと現実的になりました。今井先生の時代は、少なくとも書物を求め、手にすることは非常に困難でした。図書館に籠もり、蔵書カードを1枚1枚、繰りながら探し求める必要がありました。そして膨大な図書購入費。
★ 世界をつなぐネット時代。いまや、それは昔話になりました。たとえ1000年、2000年の時を超え、地球の裏側にそれが存在しようと、必要なことは、ただ、「念ずるだけ」 あとはパソコン立ち上げて、クリックするだけで先師と出会えるのです。読書は師との対座。読むべき書は数ではありませんね。
★ この大型連休。一つ、古典を読むのもいいかもしれません。
by zenmz | 2006-05-01 00:11 | 仰げば尊し