2006年 10月 31日
【6296】 良心碑に我が今を問う |
★ あと数日・・・11月5日に私は、京都・同志社大学を訪問します。この日、行われる卒業生の「ホームカミング」で、同じ志を固めた仲間と会う集会が計画され、ご案内をいただいたのです。実に52年ぶり。昭和29(1954)年3月に、この学舎(まなびや)を後にしてから訪れることはありませんでした。が、今回は老妻を同伴し、心の故郷で安らぎたいと思います。
★ 思えば、20歳から24歳まで青春の夢をふくらませた育ちの場でした。心の奥深く宿していた憧憬の想いがどんどん膨らみ、タイム・トンネルを分け入って昭和25(1950)年から卒業までの4年間を脳裏に甦らせています。何よりも先ず、御所の真北、今出川通りの電車道を渡ると同志社大学の正門。それを一歩踏み込むと、真正面に向かい合うのが、「良心碑」です。
★ 鬱蒼(うっそう)たる木立を背景に苔むす石碑は、こう刻まれていました。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ 新島襄
★ 私は、朝夕、これを眺めて通学しました。15歳から20歳まで、私は旧官立広島師範学校で学びました。母が熱心なクリスチャンであったことから生まれ落ちた時からクリスチャン・ボーイで育ち、同志社は憧れの的でした。18歳の時、同志社進学を決意しました。創立者・新島襄先生の次の言葉に接したのが動機でした。
★ 明治15(1882)年、新島先生が晩年に書かれた「同志社大学設立の旨意」は、その「良心教育」の大切さについて次のように述べています。
★ 恩師、今井仙一教授の言葉を思い出します。
★ 私にとって、”同志社の先生”は、新島先生と今井先生のお二人しかありません。両先生こそ、私にとって『正師』であったことを想います
★ キリスト教倫理学専攻を望んでいた私は、神学部進学を希望し、早速、此春寮に入寮が許可されました。同志社名物、アーモスト館の真南に向かい合って建っていたこの寮は神学生限定の特別の寮で、二階に立派な礼拝堂があり、毎朝、礼拝が行われていました。キャンパス内には別に国の重要文化財に指定されている立派なチャペルがありましたが、こここそは、同志社本来の志の若者が集った”聖地”でした。
★ 間もなく信仰上の大問題に突き当たり、神学部進学を断念し、法学部志望に転じた私は、まもなく退寮しましたが、あの此春寮と二階の礼拝堂はどうなっているのか? 何よりも先ず、訪ねたい場所です。
★ 私は同志社に盲目の学生たちがおり、その盲学生達が勉学に苦労していることを知って「同志社大学盲学生友の会」という組織を作り、学内誘導や、ノート整理、それに教科書の点訳などの協力を始めました。今年ののホームカミング行事の一環として、その仲間が一度、集まろう、と、有志の方々のご努力で「OBの集い」が計画されました。それが、今回、母校訪問のチャンスになったのですが、これに関しても、忘れがたい思い出があります。
★ 先ほどお話しした今井仙一先生は、典型的な同志社ボーイでした。私が、盲学生たちの協力組織を作ってつきあっていることをお知りになると、京都駅前にあった先生のご実家にお招き下さって、素晴らしいお話を承りました。昭和28(1953)年のこと、もう半世紀以上も前になりますが、四年生になって今井ゼミで最後のご指導をいただいた頃でした。今井先生のお話が甦ります。
★ 後、新島先生は覚馬氏の妹・八重子さんを妻に迎え、二人は義兄弟になります。そして明治23(1890)年1月23日、新島先生ご逝去のあと、覚馬氏が臨時総長に就任、建設中だったハリス理化学館を完成させ、二年後の明治25(1892)年12月28日に山本覚馬氏も永眠されました
★ 我が「同志社大学盲学生友の会」も、こうしてその源流を遡れば、同志社建学の恩人・山本覚馬氏と言う盲目の士に辿りつきます。想い出深いあのポプラ並木はどうなったでしょう。次々と湧き出る母校への想い。それを辿るのも老人の大きな幸せです。本当に、同志社はいい学校だった!
★ それにつけても、今、内省します。
「良心碑」に悖るところなかりしか?
これから暫く、新島先生と向かい合って過ごしたいと想います。
時空を超えて『正師』の声に耳傾ける。
この年になり、何と幸福な時であることよ、と想います。
★ 思えば、20歳から24歳まで青春の夢をふくらませた育ちの場でした。心の奥深く宿していた憧憬の想いがどんどん膨らみ、タイム・トンネルを分け入って昭和25(1950)年から卒業までの4年間を脳裏に甦らせています。何よりも先ず、御所の真北、今出川通りの電車道を渡ると同志社大学の正門。それを一歩踏み込むと、真正面に向かい合うのが、「良心碑」です。
★ 鬱蒼(うっそう)たる木立を背景に苔むす石碑は、こう刻まれていました。
良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起コリ来タラン事ヲ 新島襄
★ 私は、朝夕、これを眺めて通学しました。15歳から20歳まで、私は旧官立広島師範学校で学びました。母が熱心なクリスチャンであったことから生まれ落ちた時からクリスチャン・ボーイで育ち、同志社は憧れの的でした。18歳の時、同志社進学を決意しました。創立者・新島襄先生の次の言葉に接したのが動機でした。
・・・・独り技芸才能ある人物を教育するに止まらず、所謂良心を手腕に運用するの人物を出さんことを勉めたりき
★ 明治15(1882)年、新島先生が晩年に書かれた「同志社大学設立の旨意」は、その「良心教育」の大切さについて次のように述べています。
一国を維持するは決して二、三、英雄の力に非ず。実に一国を組織する教育あり、知識あり、品行ある人民の力に拠らざる可からず。是等の人民は一国の良心とも謂う可き人々なり。而して吾人は即ち此の一国の良心とも謂う可き人々を養成せんと欲す。
★ 恩師、今井仙一教授の言葉を思い出します。
「同志社で先生とお呼びするのは新島先生だけだ。私は京都駅前の宿屋の主人。イマイと呼べばよい。いいか、同志社では先生はただ一人、新島先生だけだ。これは同志社の伝統だ」
★ 私にとって、”同志社の先生”は、新島先生と今井先生のお二人しかありません。両先生こそ、私にとって『正師』であったことを想います
★ キリスト教倫理学専攻を望んでいた私は、神学部進学を希望し、早速、此春寮に入寮が許可されました。同志社名物、アーモスト館の真南に向かい合って建っていたこの寮は神学生限定の特別の寮で、二階に立派な礼拝堂があり、毎朝、礼拝が行われていました。キャンパス内には別に国の重要文化財に指定されている立派なチャペルがありましたが、こここそは、同志社本来の志の若者が集った”聖地”でした。
★ 間もなく信仰上の大問題に突き当たり、神学部進学を断念し、法学部志望に転じた私は、まもなく退寮しましたが、あの此春寮と二階の礼拝堂はどうなっているのか? 何よりも先ず、訪ねたい場所です。
★ 私は同志社に盲目の学生たちがおり、その盲学生達が勉学に苦労していることを知って「同志社大学盲学生友の会」という組織を作り、学内誘導や、ノート整理、それに教科書の点訳などの協力を始めました。今年ののホームカミング行事の一環として、その仲間が一度、集まろう、と、有志の方々のご努力で「OBの集い」が計画されました。それが、今回、母校訪問のチャンスになったのですが、これに関しても、忘れがたい思い出があります。
★ 先ほどお話しした今井仙一先生は、典型的な同志社ボーイでした。私が、盲学生たちの協力組織を作ってつきあっていることをお知りになると、京都駅前にあった先生のご実家にお招き下さって、素晴らしいお話を承りました。昭和28(1953)年のこと、もう半世紀以上も前になりますが、四年生になって今井ゼミで最後のご指導をいただいた頃でした。今井先生のお話が甦ります。
新島先生は当初、同志社を大阪に建てるおつもりだった。 何故、京都の今出川になったのか? 京都は仏教、神道の中心地。何よりも頼みの外国人宣教師たちが猛反対していた。ところが、新島先生の熱意にほだされた当時の槇村正直・府知事が土地の有力な政治家・山本覚馬氏を紹介したことから、トントン拍子に京都に決まった。
京都に建設が決まったのは明治8(1975)年だった。建設地は御所の真北にある元薩摩屋敷跡。山本覚馬氏が所有していたのを提供してもらって校舎建設が始まった。同時にその年、新島先生は丸太町に仮寓を定めて、そこを仮教室にして「官許同志社英学校」を始められた。
教師は新島先生と米国人宣教師デヴィス、生徒は八人。
同志社は、こうして始まった。
新島先生と山本覚馬氏の出会いと、その後には感銘深いエピソードがある。
未だ新島先生が覚馬先生を全く知らなかった最初の頃の話。新島先生が庭で諸肌脱いで薪割りをしておられたら、召使いが「盲目の方がお目にかかりたいと・・・」と伝えました。初対面で名前を言ってもご存じあるまい、とのこと。ともかく客間へご案内させ、先生は、仕事を片づけられた。
ところが、部屋に戻った先生はなかなか姿を現さない。来客もいらいら。やっと姿を現した先生は、羽織、袴の正装で現れた。そして
「薪割りの途中で身を清めるに時間を費やし申し訳ない」
と挨拶された。その客が覚馬氏だった。
のち「相手は目の見えぬ者、そこまでする必要もなかろうに・・・いや、新島という男は、人物だ」と述懐した、という話が伝説になっている。
いいかね。ゼニモト君。礼とはそういうことだ。
盲人の人と、お付き合いを始めた君なら分かるだろう。相手の人が目が見えないから、と、いい加減な振る舞いをしてはならぬ。目が見えぬ人は感が鋭いから直ぐ見抜く。この先、新島先生のエピソードを忘れないように・・・
★ 後、新島先生は覚馬氏の妹・八重子さんを妻に迎え、二人は義兄弟になります。そして明治23(1890)年1月23日、新島先生ご逝去のあと、覚馬氏が臨時総長に就任、建設中だったハリス理化学館を完成させ、二年後の明治25(1892)年12月28日に山本覚馬氏も永眠されました
★ 我が「同志社大学盲学生友の会」も、こうしてその源流を遡れば、同志社建学の恩人・山本覚馬氏と言う盲目の士に辿りつきます。想い出深いあのポプラ並木はどうなったでしょう。次々と湧き出る母校への想い。それを辿るのも老人の大きな幸せです。本当に、同志社はいい学校だった!
★ それにつけても、今、内省します。
「良心碑」に悖るところなかりしか?
これから暫く、新島先生と向かい合って過ごしたいと想います。
時空を超えて『正師』の声に耳傾ける。
この年になり、何と幸福な時であることよ、と想います。
by zenmz | 2006-10-31 12:36 | 仰げば尊し