コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その4】   Text by 木全公彦
映画芸術協会
とはいうものの、有名俳優が初監督した作品で、女優の自慰場面でスキャンダルまで巻き起こした話題作である。このままお蔵入りにしておくのは勿体ないとばかりに声をかける目ざとい者がいた。映画芸術協会なる会社である。東宝争議の最中に、本木荘二郎、黒澤明、成瀬巳喜男らが設立した団体と同じ名称、はたまた古くは帰山教正が日本映画史上で最初に女優を起用した『深山の乙女』(19年)を製作した会社とまったく同じ会社名だが、それらとは似て非なる天と地ほど異なる会社。この映画芸術協会は、1961年9月、資本金300万円で創立された製作会社で、いわゆる“エロダクション”と呼ばれるピンク映画を製作する会社だった。大体、この時期乱立した“エロダクション”には「芸術」という単語をつけているプロダクションがやたら多くって、件の映画芸術協会の他にも、第8芸術映画プロとか日本芸術映画とか、製作するピンク映画が芸術作品であるかのように自己正当化する製作会社が数多く存在して、その中には清水宏監督の若旦那シリーズで売り出した藤井貢が主宰する東京芸術プロダクションなんていう製作会社もあった。

“エロダクション”の映画芸術協会の名をもっとも知らしめたのは、新藤孝衛監督の社会派ピンク映画の傑作としてピンク映画史上に名を残す『雪の涯て(改題:青春0地帯)』(65年)を製作したことだろう。その後ピンク映画から足を洗い、劇団◎天井桟敷に入団し、寺山修司のミューズとなる新高恵子の代表作でもある。ちなみに、この映画は、現在、フィルムの所在が分からなくなっている作品だが、わたしは高校生のとき、名古屋の大須名画座で日活ロマンポルノと一緒に見て「これがピンク映画の古典的名作かぁ!」と尻の割れ目さえ見えないのにがっかりするとともに、集団就職に失敗した男女が過疎の進む故郷の離村農家に帰り、雪に埋もれた廃屋の囲炉裏端で抱き合う場面にしんみりしたのだった。閑話休題。

〈三國連太郎が監督・製作した日本プロ『台風』は上映ルートがないままに公開中止となっていたが、このほど映画芸術協会に売り渡され、『腐肉の群れ』と改題して、公開される見通しになってきた。同作品は日本プロ(社長沢野裕司氏)が日通と提携して製作したもので、東映その他から配給を断られ、4,500万円かけて製作したものの宙に浮いたかたちになっていた。映画芸術協会(代表・植葉昭雄氏)は『雪の涯て』など数本を製作している“エロダクション”だが、同作品のタイトルの一部を変更、すでに映倫から成人映画に指定を受けて審査を終了している。問題になるのは上映ルートだが、ピンク映画系のルートでは製作費の回収が半分以下になるので、当然五社のルートがねらわれるものとみられている。〉(「日刊スポーツ」1965年7月4日付)

ところでピンク映画における1965年とはどのような年であったのか。ピンク映画第1号と呼ばれる『肉体の市場』(小林悟監督)が協立プロという独立プロダクションで製作され、警視庁から摘発を受けたのが1962年である。『肉体の市場』以前にもエロ映画は数多くあったが、警視庁から摘発を受けたことにより、『肉体の市場』はピンク映画第1号の称号を受けることになったわけだが、以後、雨後のタケノコのようにピンク映画を製作する“エロダクション”が乱立する。1964年にはTBSのディレクター今野勉が国映で『裸虫』を監督し(クレジットには「演出・グループ創造」とだけある)、芸術祭に出品しようとするが門前払いを食らわされ、続いて俳優の伊豆肇も国映で『おんな』を監督する。このように著名人もピンク映画に参入している時代だった。若松孝二というエース監督も登場した。1964年には20社程度だった“エロダクション”は1965年には約90社へと膨れ上がる。4月には大蔵映画を中心にして7社が集まり、OPチェーンが発足する(OPチェーンに対抗して、新東宝、国映が中心になって9月に独立チェーンができるが、すぐに分裂する)。衰退する日本映画界の中で、1965年に製作されたピンク映画は約200本以上を数えるほど隆盛の時代を迎えていた。