夏休み特別講座 絵巻物
1.はじめに
今年も暑い夏であるが、読者におかれてはいかがおすごしであろうか。例年通り、筆者も1週間(厳密には、土曜日
と日曜日を2回含むので9日間)の夏休みである。
今年の夏は、何と言っても北京オリンピックである。幸か不幸か、北京との時差がほとんどないため、この時期、
朝から晩まで、一日ぼーっとテレビの前に座り(あるいは寝転び)、生放送で日本選手団の活躍を見た読者もいるに
ちがいない。で、筆者はと言えば、そのような読者と同じ行動を取ることも可能なのであるが、年令とともに脳が
退行しつつあることを自覚し、オリンピック情報は夜のニュース番組にとどめ、日中帯は勉強に励んでいる毎日で
ある。
さて、先月下旬のことであるが、源氏物語全54帖の写本が発見された、という記事が新聞に掲載された(たとえば
こちら)。
今回発見された写本は、「大沢本」と呼ばれるものと推定されており、従来の写本と異なった記述があるなど、紫式部
の原典に近いものではないか、と見られている。今年は源氏物語千年紀ということで、タイミング良く発見されたもの
であるが、何にせよ、筆者のような探究心旺盛、あるいはヒマ人にとっては、なかなか楽しみなことである。
それはそれとして、
7月の教養講座において、
夏休み特別講座のテーマは「絵巻物」であろう、と予告したのであるが、源氏物語写本発見のニュースは、まったくの
偶然であった。当然ながら、このニュースの後押しもあり、今回のテーマは絵巻物である。
2.絵巻物について
2.1 絵巻物の定義
絵巻物とは何かがわからない読者もいそうな気がしてきたので、まずその解説から始めたい。久々に、いつもの
OCN辞書
である。
●絵巻物
巻子本の形式をとる絵画の一種。文章(詞書(ことばがき))とそれに対応する絵が交互にかかれる。左手で繰り広げ
右手で巻きながら鑑賞する。平安・鎌倉時代に盛んに制作された。内容は、経典を絵解きしたもの(「過去現在因果経」
など)、物語や日記を絵画化したもの(「源氏物語絵巻」「更級日記絵巻」など)、説話や社寺の縁起あるいは高僧の
伝記などを描いたもの(「信貴山縁起絵巻」「西行物語絵巻」など)がある。絵巻。絵詞。
ということのようであるが、ご理解いただけたであろうか。要は、絵本が巻物になったもの、くらいに思えば良いので
あるが、これだけでは教養講座になっていないので、もう少し解説しておきたい。
OCN辞書の定義で、いきなり「巻子本」ということばが出てきたが、紙(または絹などの布の場合もある)を横方向
に順次つないで水平方向に長大な紙面を作り、その終端に巻き軸をつけ、収納時には軸を中心にして巻き収めることが
できるようにした書物、経典、絵画作品などを「巻子本」という。北京オリンピックの開会式に、巨大なやつが出てきた
のを見た読者もいると思うが、あれである。見ていない読者は、早い話、忍者の巻物だと思えば良い。で、この形式を
とる絵画作品が「絵巻物」というわけである。
ただし、狭い意味で、たとえば日本美術史用語における「絵巻物」とは、日本で制作された、主として大和絵様式の
作品を指すのが通常であり、さらに範囲を限定して、平安時代から室町時代の作品に限って「絵巻物」と呼ぶ場合もある
らしい。たとえば、中国で制作された同様の装丁の絵画作品は「画巻」「図巻」等と呼ぶのが普通であり、日本人の作品
であっても、水墨画家雪舟の「山水長巻」のような作品については、一般には「絵巻物」とは呼ばれていない。

忍者の巻物(これは絵巻物ではありません)
2.2 絵巻物の歴史
上述した巻子本は日本だけのものではなく、中国、朝鮮半島をはじめとする東アジアにおいて盛んに作られたほか、
古代エジプトなどにも例があるが、絵巻物は中国の画巻を起源とし、日本で独自の発達をとげたものと言われている。
北京オリンピックの開会式で出てきたのも、さもありなん、というところである。
わが国における最初の絵巻物は、奈良時代に制作された「絵因果経」と呼ばれる絵解き経典であると言われている。
これは、巻物の紙面の下段に経文、上段にその内容に対応する絵画を描いたものである。
その後平安時代になると、王朝文学の物語や説話などを題材とした絵巻物が制作されるようになる。これらは、
金銀箔や野毛、砂子を撒き、花鳥などの下絵をあしらった料紙に、連綿体で書かれた詞書と、それに対する絵を交互に
配する独特の様式を生み出した。平安時代前期〜中期に多くの物語絵が制作されたことが推測されているが、絵巻物
作品で現存しているものは、いわゆる「四大絵巻」(「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣
人物戯画」)など、いずれも平安時代末期の作とされている。ちなみにこれらの作品は、現存する絵巻物の最古の
作品群であるだけでなく、芸術的にも最も高く評価されており、詳しくは後述する。
絵巻物は、平安時代末期〜鎌倉時代が全盛期と言われており、室町時代になると作品数は多いが、「四大絵巻」に
匹敵するような作品は生まれなかった。その後近世になっても、巻物形式の絵画は多く制作されたが、上述したとおり、
これらは「絵巻物」の範疇に含めない場合が多い。
2.3 絵巻物の形式
最も多いパターンが、一巻の中に「絵」と「詞」とが交互に現れる形式で、通常は「詞」が先に来て、その直後に
その「詞」に対応する「絵」が来るもので、「絵」と「詞」が相互に補完し合っている。もちろん例外は多く、「鳥獣
人物戯画」のように、「絵」のみで「詞」のないものや、「華厳宗祖師絵伝」のように、「詞」とは別に、画中人物の
かたわらに「せりふ」を書き込んだもの(ほとんど現在のマンガと同じ)もある。
画面のサイズは、上下が30cm前後のものが多いが、「北野天神縁起」のように50cmを超えるものがあったり、
逆に、室町時代の「お伽草紙」のように、15cmくらいのものもある。一方、左右の長さ、すなわち巻物全体の長さ
についてはまちまちで、全長10m前後のものが多いが、「粉河寺縁起絵巻」のように、一巻で20m近い長さのもの
もある。いずれにしても、一気に広げると相当な長さになるわけで、よほど広い場所がない限り、作品全体を一度に見る
ことはできないし、そもそも絵巻物は、全体を一度に見せようとする意図はない。
実際に絵巻物を読むときは、作品を机などの上に置き、OCN辞書の定義にもあったとおり、左手で新しい場面を
繰り広げながら、右手ですでに見終わった画面を巻き込んでいくことになる。つまり、画面の水平方向の長さには
制約がないわけで、物語の展開などを長大な画面に、劇的に表現することが可能であり、そこに時間的な推移を
盛り込むこともできる。絵巻物の読者は、「次に何が出て来るのか」という期待を持って見ていくわけで、絵巻物の
作者は、それを意識して制作するのである。
このほか、その実際は次項の実例のところで述べるが、絵巻物にはその形式を生かしたいくつかの技法がある。
アニメ映画の監督として知られる高畑勲氏は、その著書「十二世紀のアニメーション」の中で、「連続式絵巻は
アニメ的・マンガ的」とし、その根拠として、
・躍動する人々の姿態や表情を、マンガっぽい線で見事にとらえる
・速度感を表す「流線」(すばやい動きや強調などを表すために、絵の中に書き込む線のこと。現代のアニメでも
多用され、効果線とも言う)や、一つの場面に同じ人物の動きを連ねて描く手法が随所に見られる
などの点を挙げている。そして絵巻物は、「物語性のある時間的視覚芸術」を創造しようとする明確な意図を持ち、
わが国における現在のアニメ文化の隆盛は、古来より、絵巻物という絵と言語を同時に楽しむ文化を持っていたことに
ある、という自説を展開している。
「十二世紀のアニメーション」は、後述する「伴大納言絵詞」「信貴山縁起絵巻」などを全編カラーで掲載し、
著者による解説も付け加えられている。ぜひ読者にも一読をおすすめしたい。

十二世紀のアニメーション
2.4 巻物でなくなった絵巻物
実は、「○○絵巻」と呼ばれていても、額装や掛軸仕立てになっている作品もある。これは、もともとは巻物
だったものを、保存上の観点から1紙ずつはがして額装にしたケースと、分割して譲渡・売却するために、長い巻物を
画面ごとに切断したケースとがある。
前者の典型的な例は「源氏物語絵巻」(五島美術館、徳川美術館蔵)で、厚塗りの絵具が剥落することを恐れ、
昭和7年に、絵、詞ともに一段ずつ分割し、額仕立てになった。一方、後者、すなわち、譲渡のために分割された例
として著名なものは、佐竹本「三十六歌仙絵巻」である。この作品は、もともとは上下2巻の巻物に、三十六歌仙
それぞれの肖像画を描き、略歴と代表歌を書いたものであった。これが大正8年に売りに出されたとき、全巻一括で
購入できる者がいなかったため、歌仙1名ごとに切り離して、それぞれ別のコレクターに譲渡されたものである。
ちなみに、そのときの総価は、当時の値段で37万8千円(現代の感覚では約50億円)だったそうで、切り売り
後でも、人気の高い女性もの(斎宮女御、小大君、伊勢、小野小町、中務)は、斎宮女御の4万円を筆頭に、いずれも
数万円(現代で言えば数億円)だったらしい。また切り売りされたものは、希望者によるくじ引きで割り当てられたと
いうことである。いずれにしても、この絵巻切断事件は、当時の美術界を揺るがす大事件となり、これが国宝保存法
(昭和4年)、文化財保護法(昭和25年)制定の契機となったと言われている。

三十六歌仙絵巻切り売りの新聞記事(大正8年12月21日東京朝日新聞)
3.四大絵巻
ここからは、いずれも国宝に指定されている、いわゆる「四大絵巻」について、個別に見ていくこととしたい。
3.1 源氏物語絵巻
まずは、今年千年紀を迎える源氏物語を絵画化した、源氏物語絵巻である。
源氏物語絵巻は、上述したとおり、平安時代末期の制作で、現存する最古の絵巻物と言われている。当初は源氏
物語の1帖から1〜3場面を選び、おそらく10数巻〜20巻くらいの規模で、100場面ほどが描かれていたものと
考えられている。現在見られるのは、そのうちとびとびに残った19段の絵と詞書であり、前述のとおり、原本の保存
のため、絵、詞ともに一段ずつ分割し、額仕立てになったものである。このうち、
徳川美術館が
15段を、五島美術館が
4段を所蔵している(さらに近年、若紫の絵の残欠が発見され、東京国立博物館所蔵になっている)。
絵巻物としての連続性はないが、ひとつひとつの場面がそれぞれ独立した絵画として充実しており、美しい料紙に
書かれた詞書とあいまって、傑出した作品となっている、というのが一般的な評である。
作者や絵師は不明だが(絵の作者として藤原隆能(たかよし)の名が伝えられているが確証はない)、白河上皇
あたりが発起人、その弟にあたる源有仁(ありひと)あたりがプロデューサーという説が濃厚で、おそらく白河・
鳥羽院政期の宮廷絵師を中心とする分担制作と考えられている。ちなみにこの源有仁というのは、まさに光源氏を
地で行くような境遇の貴公子だったらしい。
とりあえずは絵巻を見ていただきたい。もっとも、両美術館とも常時展示しているものではなく、さしあたりは
印刷物ということになるが、いちおう現代人らしく、ここでは両美術館(それぞれリンク先参照のこと)のほか、
こちらや
こちら
など、ネット上のサイトを紹介しておくので、適宜参照してみてほしい。こういうとき、インターネットは本当に
便利であると思ってしまう。
ついでながら、
2005年4月の教養講座でも
紹介した2千円札の裏面は、実は源氏物語絵巻(鈴虫その二)の一部が描かれている。もし、いま2千円札を
持っている読者がいれば(最近筆者はまったくお目にかかっていないのであるが)、ためしに見ていただきたい。
で、19段を個々に解説すると、とても夏休みの間に終わるとは思えないので、ここでは基本的な技法のみ解説
しておきたい。興味がある読者は、暑い夏でもあり、図書館に行って、しかるべき美術書などを見て、そして解説
などを読んでみてほしい。涼しい中で鑑賞できるし、もちろん金もかからない。
(1)つくり絵
源氏物語絵巻の絵は、大和絵の中でも「女絵」と呼ばれる優雅静寂な画法で描かれている。特にその技法は
「つくり絵」と呼ばれ、薄墨の下描き線を濃厚な色彩でぬりつぶし、その上に人物の顔や輪郭線を、濃墨で描き
おこしている。完成に至るまで、工程別に多くの画人が担当したものと考えられている。
(2)吹抜屋台
一般に絵巻物は、机の上などに水平に置いて見下ろす形で鑑賞する。これに加え、上下の幅が狭いという画面形式の
制約があるため、絵巻物の画面は、斜め上方から見下ろしたような構図になりやすい。特に、室内の情景を描く場合は、
建物内部にいる人物が見えるように、建物の屋根と天井を省略する表現法が使われている。これを「吹抜屋台(ふきぬき
やたい)」と呼び、源氏物語絵巻に典型的に見られるものである。
(3)引目鉤鼻
人物の顔に関する様式化された表現のことで、「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」と呼ばれる。これは、当時において、
高貴で理想的な美男美女をあらわす顔貌とされており、源氏物語の主役たちは、全員この顔である。逆に、絵巻に
登場する脇役たち(蓬生の老女、早蕨や宿木の尼、その他ふつうの女房など)は、あえて引目鉤鼻にならないよう、
真横から見た描写にするなど、身分の低い、卑しい者であることを示しているらしい。
さらに専門家によれば、あえて没個性で抽象的な顔貌にしているのは、内心の葛藤や心理的なかけひき(これが
物語本文の核心をなす)といった、絵画化には適さない要素を鑑賞者の読み取りに委ねるための、高度に戦略的な選択
であり、当時の絵師に、人の顔立ちや表情を描き分ける力がなかったためではない、とのことである。中学校時代、
美術は5段階の2であった筆者としては、ホンマかいな、と思わないでもないが、まあそういうことらしい。
(4)吹抜屋台・引目鉤鼻の実例
下図を見ていただきたい(リンク先の絵の方が大きくて見やすいので、そちらを参照のこと)。

源氏物語絵巻 東屋
天井は省略され、斜め上方から見下ろす構図になっていることがおわかりいただけると思う。これが「吹抜屋台」
とである。それでもこの東屋は、源氏物語絵巻の中では最も視点の位置が低く、そのため、画面に安定感を
もたらしていると言われている。
次に人物である。注目は、左上の人物で、彼女が源氏物語最後のヒロインと言われる「浮舟」である(源氏物語の
あらすじを知らない読者は、何のことやらわからないと思うが、とにかくヒロインの一人なのである)。くつろいだ
感じで何かやっているように見えるのだが、実は、その下に描かれている女房の右近に本を朗読してもらい、浮舟は
寝転がって挿絵をながめている、というところなのである。子供がお母さんに絵本を読んでもらっている、あるいは、
紙芝居屋の紙芝居を見ている、というような感じである。これは、当時の最上流貴族の物語享受のあり方を示すもの
として、文化的にも貴重な資料、ということらしい。
で、この二人を見ればわかるとおり、浮舟の顔は、正面から見たいわゆる「引目鉤鼻」である一方、女房の右近は
横顔というわけで、両者の身分のちがいを明確に表しているわけである。
ところが、である。右近の後ろ(絵では右側)にある几帳の、さらに右側にいる女性であるが、顔は正面から、
見事な引目鉤鼻で描かれている。しかも顔の描き方だけでなく、少し傾けた角度も、浮舟にそっくりなのである。
それでは彼女も浮舟と同様、高貴な女性なのか、というと、実はまったくそうではなく、彼女は名前も明らかに
されていない、ごくふつうの女房なのである。これはなぜか、ということである。
専門家によれば、これは浮舟が、八の宮の高貴な血を引きつつも、正式に認知されず、実のところ女房並みに
すぎないという、地位のあいまいさを示したもの、ということらしい。つまり、ヒロインの一人である浮舟の顔に
操作するのではなく、同様の顔を持つ身分の低い女性を同じ絵の中に描くことで、見る者に気付かせる、という
工夫らしい。美術の成績が悪かった筆者には、とても思い付かない説である。
源氏物語絵巻については、まだまだいくらでも記述することはあるのだが、やはり実際の絵巻を見ながらでないと、
なかなか実感を伴わないので、あとは読者の自習に任せ、次の絵巻に進みたい。
3.2 伴大納言絵巻
従来は「伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)」と呼ばれていたようであるが、現在の所有者である
出光美術館
が「絵巻」と称していることから、ここではその呼び方に従うこととする。
伴大納言絵巻は、源氏物語絵巻と同様、平安時代末期の作とされている。後述する「応天門の変」という史実を
題材にしたもので、現存するものは3巻から構成されている。作者は常磐光長(ときわみつなが)とされているが、
確証はない。
絵は、やわらかく的確な線で人物の表情や動作を描き、色鮮やかな彩色が施されている。また、随所に創意工夫の
あとが見られ、表現の密度は高い。画面は大胆な構成で、群衆のさまざまな動きを巧みにとらえる、洗練された技法が
用いられている。さらに当時の人々を描いたものとして優れており、特に検非違使の活動を伝えるものとして、史料
としての価値も高いと言われている。
ちなみに、下世話の話になるが、本絵巻は、昭和57年に、当時の所有者であった若狭国小浜藩主の子孫が
売りに出したものである。当初は国が購入しようとしたが、当時の文化庁の年間予算が19億円ということで
まったく歯が立たず、結局のところ、現在の所有者である出光美術館が買い上げて今に至っているようである。
ちなみにそのときの購入価格は、32億円であった。
絵巻の解説の前に、史実である政治事件としての応天門の変である。
平安時代前期の866年、大内裏の中にある応天門から火が出て、全焼した。時の大納言伴善男(とものよしお)
は、左大臣源信(みなもとのまこと)の放火であると告発したが、太政大臣藤原良房が時の清和天皇に進言し、無罪
となる。その後、密告があり、逆に、先の告発者である伴善男父子に嫌疑がかけられる。清和天皇は、事態の収拾を
藤原良房に命じるとともに、良房を摂政に任命する。そして、その取り調べにより、伴善男父子は有罪と断定され、
流刑に処される。これにより、古代からの名族であった伴氏(大伴氏)は没落し、逆に藤原氏はその後の隆盛が約束
されることになる。早い話、藤原氏による他氏排斥事件のひとつとなるわけである。
で、伴大納言絵巻であるが、事件のおよそ300年後、基本的にはこの史実をもとに(史実そのものではないが)
制作された、というわけである。次に、源氏物語絵巻の場合と同様、この絵巻の特徴について解説しておきたい。
(1)連続式構図
源氏物語絵巻のように、絵と詞が交互に現れる形式(これを「段落式構図」と呼ぶ)が通常のパターンであるが、
伴大納言絵巻は、詞書が数箇所にまとめられ、画面の連続が重視されている。たとえば、一番最初に出てくる応天門の
火災の場面は、炎上する応天門、火事見物の群衆、火災の報を聞いて現場に駆け付ける政府の役人などが、途中に「詞」
を挟まず、数メートルにわたって絵のみで描写されており、絵巻の特性を生かしたものとなっている。このように、
「絵」の部分が長大に続き、巻物を繰り広げるにつれて画面が展開していく構図を「連続式構図」という。
ちなみに下図は、そのごく一部(火事見物の群衆)であり、燃える応天門を中心に、次から次から絵が出てくる
わけである。

伴大納言絵巻 応天門炎上
(2)異時同図法
同一画面内に同一人物が複数回登場して、その間の時間的推移を示す技法である。本来二次元である絵画に、時間軸
を取り入れたものである。
下図は、伴大納言絵巻の中の「子どものけんか」の場面である。小さくてよくわからないとは思うが、なんとなく
雰囲気だけでも感じてほしい。実はこの絵は、伴善男が放火犯であるという真相解明の端緒となった、絵巻全体の
中でのヤマ場とも言える場面なのである。組み合うふたりの子供、飛び出す父親、自分の子供に加勢して相手の子供を
蹴る父親と蹴飛ばされる子供、母親に連れ戻される子供を、一つの画面の中で、円環するように描いている。これが
異時同図法である。ちなみに、子供のけんか場面は、絵巻物における異時同図法の最高峰と言われているものである。

伴大納言絵巻 子供のけんか
(3)謎の人物
絵巻物の技法とはまったく関係のない話であるが、伴大納言絵巻の解説には欠かせないものである。
本絵巻には、応天門炎上の絵の直後に、炎上している応天門をながめているかのような後ろ姿の人物が登場する。
さらにその絵のすぐ後に、清和天皇と藤原良房(これも諸説あり)の密談を盗み聞きしているように見える謎の人物も
いる。で、それらが誰であるのか、早くから専門家の間で考証がなされ、現在でもいろいろな説があるようである。
このあたり、筆者は「謎解き伴大納言絵巻(黒田日出男著)」という本で勉強したのであるが、まさに推理小説を
読んでいる感じであった。実は、いまその本が手元にないので(当然ながら図書館から借りたもので、読み終わって
すでに返却してしまった)、その推理の経過と結論はうろ覚えなのだが、要は、現存の絵巻では失われた部分があり
(これがわかったのは比較的最近)、それがどのようなものであったか、ということによって、いろいろな説がある
らしい。興味のある読者は、一読してみていただきたい。

伴大納言絵巻 後ろ姿の人物
3.3 信貴山縁起
「信貴山縁起絵巻」とも呼ぶ。同じく平安時代末期の作とされている。信貴山で修行し、当山の中興の祖とされる
命蓮に関する説話を描いたもので、
●飛倉の巻(山崎長者の巻と呼ばれる場合もある)
命蓮が法力によって飛ばした托鉢を、山麓の長者が米倉の中に置き忘れたため、托鉢が米倉を持ち上げて信貴山上に
運んでしまうが、命蓮の法力により、米俵だけが空をとんで長者の屋敷に戻ったという話
●延喜加持の巻
醍醐天皇の病気平癒のため、命蓮が「剣の護法」という剣の衣を着た童子をつかわして病気をなおすという話
●尼公の巻
幼時に別れた弟の命蓮を探すため、信濃の国からやってきた年老いた尼公が、東大寺の大仏の夢のお告げにより、
信貴山で命蓮と再会するという話
という、上中下3巻から構成されている。信貴山真言宗総本山である朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が所蔵し、
原本は、奈良国立博物館に寄託されている。
一般に、寺社縁起というと、その起源や由来を記したものであるが、信貴山縁起は上述したとおり、命蓮を主人公
とした霊験譚といったところである。特に延喜加持の巻で、醍醐天皇の病気を命蓮の法力で治すという話は、同様の
説話が宇治拾遺物語、今昔物語などにも収められている。
例によって作者は不明であるが、自然風景の描写に加え、すべて写実的に描かれ、人物の表情の豊かさ、さらには
躍動感といったものがあり、叙述の的確さが感じられる。源氏物語絵巻とは、ある種、正反対とも言える絵巻物で、
わが国上代における世俗画の到達点とも言われている。
上述の「十二世紀のアニメーション」によれば、信貴山縁起には、以後の絵巻物に見られるマンガ・アニメ的な
表現のほとんどが出揃っているとしている。特に、一気に観客をドラマの中に引き込むための冒頭シーンである、
飛倉の巻の最初の場面において、
・流線を引いて転がり出る金色の托鉢
・驚く女や長者たちの一瞬の表情や動作
・落ちた瓦に飛びすさる女の姿態描写
・走る僧たちの流動する衣髪の線や、ひるがえりはためく袖やすそ
・風にあおられる男の蓑
など、意識的に多用されているとのことである。
このほか、伴大納言絵巻と同様、史料という観点からも、
・飛倉の巻における瓦葺き、校倉造りの立派な倉や、当時の長者クラスの生活実体
・延喜加持の巻における宮中の様子
・尼公の巻における焼失前の東大寺大仏殿や、道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗
などが克明に描かれており、建築史・風俗史などの資料として価値が高いとされている。
ちなみに、伴大納言絵巻のところで解説した異時同図法であるが、尼公の巻の東大寺大仏殿の場面でも、その手法が
用いられている。すなわち、ここでは尼公がひとつの画面に計6回描かれており、これは尼公が大仏殿に到着し、
礼拝し、夜通し参篭し、明け方出発するという一連の時間的経過を1枚の絵で表現したもの、というのが一般的な
説である。
まあ、文字でいろいろと解説してもピンと来ないと思うので、下の図のリンクから、絵を鑑賞していただきたい。

信貴山縁起 飛倉の巻より
3.4 鳥獣人物戯画
四大絵巻の最後を飾るのは鳥獣人物戯画である。伴大納言絵巻や信貴山縁起は知らなくても、これは知っていると
いう読者は多いことと思う。筆者は、初めてこれを見たとき(小学校高学年か、あるいは中学生になっていたかも
しれない)、この時代によくこのような絵を描いたものだと感心した記憶があり、それ以来、愛すべきもののひとつ
である。昔は、鳥獣人物戯画が描かれた茶碗も使っていた。何せ、見ていて楽しいのである。
鳥獣人物戯画は、京都高山寺に伝わる絵巻物で、甲・乙・丙・丁の全4巻から成っており、現在は甲・丙巻が東京
国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託されている。作者は鳥羽僧正覚猷と伝えられるが確証はない。そもそも
その筆致から、各巻の作者は異なり、制作時期も甲乙巻は平安時代末期、丙丁巻は鎌倉時代初期ではないかと考え
られている。同時代の制作であるが、これまで見てきた他の絵巻物と大きく異なる点は、詞書がないことと、彩色が
なく墨一色であること(これを白描と呼ぶ)であるが、抑揚のある描線を駆使し、非常に生命感があふれる画面と
なっている。
各巻のうち、最も有名なのは甲巻で、兎、蛙、猿などを擬人化し、遊び、飛び跳ねまわる動物たちの愉快な表情を
自由闊達な筆線で描き出し、日本絵画史における一大傑作として評価されている。その内容は、これまで見てきた
絵巻物とは異なり、特にストーリー性があるわけではないが、当時の世相を描いたものと考えられており、平安時代
末期の社会批判、特に当時の仏教界に対する風刺というのが定説で、「日本最古の漫画」とも言われている。ちなみに
この甲巻には、「人物」が登場しないことから、全体を含めて「鳥獣戯画」と略される場合もある。
「流線」が巧みに用いられているのは上述した2つの絵巻物と同様であるが、兎を投げ飛ばすときの蛙の気合いや、
猿の僧正による読経など、「声」を表すものが線で表現されている特徴がある。しかしながら、この技法はその後の
絵巻物には受け継がれておらず、鳥獣人物戯画は、まさに「戯画的」であり、当時は、必ずしも正統的な絵巻物では
ない、とみなされていたというのが定説である。ただ、いずれにしても、当時の時代に、このように自由闊達な精神
が存在した、というのは驚くばかりである。
小難しい解説はともかくとして、鳥獣人物戯画は、見て楽しめれば良いと思う。下図のリンクから、鳥獣人物戯画
甲巻のすべてが見られるので、読者もとりあえず楽しんでいただきたい。気分が沈んでいるときやイライラしている
ときでも、見ていると思わずほほえましくなり、ほっとして元気が出てくる絵である。

鳥獣人物戯画 甲巻より
4.おわりに
いかがであったろうか。
絵巻物を文字で説明するというのは、なかなか難しいものである。パクった絵をそれなりに挿入してみたが(その
結果として、PageONの無料領域を、大幅に使ってしまった)、筆者が言おうとしているのはこの場面のことで
ある、というのをHP上で見出すのは難しかったことと思う。やはり読者には、基本的には印刷物で全体を見て
いただきたいものである。
また、もちろん絵巻物は本講座で紹介したものだけではなく、ほかにも数多く存在し、そのいくつかは国宝にも
指定されている。これらを紹介する文献等も数多くあり、興味のある読者は参照してみていただきたい。
それはそれとして、しばらくはこの暑さとオリンピックは続きそうである。4年に1度のことでもあり、読者諸氏
におかれては、クーラーのきいた部屋で、ビール片手におつまみを食べながら、寝転んでテレビ観戦、というのも
悪いとは言わない。しかしながら、休み明けに、高額な電気代の請求とともに、ビール太り、あるいは肝臓障害などを
起こす可能性もある。いずれにせよ、仕事に行く気がしなくなることは自明である。多少は健康面も考えながら、
残された夏休みを有意義に送っていただきたいものである。当然のことながら、脳の健康には、ざりがに教養講座の
活用が一番である。
それではまた次回。
参考:
・毎日JP
・OCN辞書
・ウィキペディア
・エンカルタ百科事典ダイジェスト
・日本文化いろは事典
・佐竹本三十六歌仙
・徳川美術館
・五島美術館
・東京国立博物館
・琴詩書画巣
・地球旅行研究所
・出光美術館
・東京文化財研究所
・奈良国立博物館
・京都国立博物館
・平群町
・美の巨人たち
・サントリー美術館
・絵巻の歴史 武者小路穣著(吉川弘文館)
・歴史と素材 石上英一著(吉川弘文館)
・絵巻で読む中世 五味文彦著(筑摩書房)
・十二世紀のアニメーション 高畑勲著(徳間書店)
・絵巻切断 高島光雪著(美術公論社)
・三十六歌仙の流転 馬場あき子著(日本放送出版協会)
・日本美を語る 6絵と物語の交響 井上靖監修(ぎょうせい)
・日本の絵巻1 源氏物語絵巻 小松茂美編(中央公論社)
・芸術新潮 2008.2月号(源氏物語千年紀記念特集)(新潮社)
・文読む姿の西東 田村俊作著(慶應義塾大学出版会)
・謎解き伴大納言絵巻 黒田日出男著(小学館)
・日本の絵巻2 伴大納言絵詞 小松茂美編(中央公論社)
・日本の絵巻4 信貴山縁起 小松茂美編(中央公論社)
・日本の絵巻6 鳥獣人物戯画 小松茂美編(中央公論社)
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