こんにちは、YU@K(@slinky_dog_s11)です。
「宮崎駿に人生を壊された女」を読んだ。共感できるかできないか、という部分はひとまず置いておいて、どっぷりと浸かって読み進めてしまったことは確実だ。読み終えて、言い知れぬモヤモヤを抱えてしまった。「うん、うん」と言いたい部分もあったし、「いや、それはちょっと…」という展開もあり、“一言で感想を言い表せない話”というのが最初に出てきた感想だ。
そして、いざネットでこの話の感想を検索すると、案の定たくさん出てくる。はてなブックマークでバズっていることもあり、各種SNSで広まっているようだ。かくいう私もTwitterで見つけて読んだ。色んな感想を読んでいると、(おそらくアカウントの情報から察するに若いオタク世代の方々による)以下のようなコメントが思いの他多い。
「好きなものは好きなんだからそれを貫けばいいじゃん」
「全ては自分が選択した結果だ」
「周りも悪いけど、結局は自分のせいだろ」
言いたいことは、分かる。しかし、私はこの話については、こうやってバッサリと斬ってしまうのは余りにも惨いと、そう感じた。
先に断っておくが、私は昭和の最後の方の生まれで、この「宮崎駿に人生を壊された女」を描いた方よりはるかに年下だ。ジブリ作品は、アニメ文化というものを意識し始めた時点ですでに“レジェンド”という感覚だったし、そもそもそのアニメ文化というものを幼少期から無意識に知っていた世代だ。だから、作中で出てくるような、ナウシカを理解してもらえない辛さとか、宮崎駿に対する世間の反応の変化とか、この辺りは本質的には分からない。分かりようがない。ネットに沢山あるコンテンツの、いわば“オタクの教科書”でそういった歴史は知っていても、肌では全く知らない。
それでも、私はこの2015年にオタクと自覚して生きている。アニメや特撮を観て育ち、周囲に理解者は少なかったが、私にはインターネットという居場所があった。毎週放送が終わると公式ホームページを開いて次回予告のページが更新されていないかワクワクしていたし、個人が開設していたファンサイトの掲示板で色んな感想を読んだし、いずれ自分もそこに書き込むようになった。今では、ネットを介して知り合った人と実際に会ってオタク趣味について語り合えるし、よく言えば「居場所」が、悪く言えば「逃げ場」が、いつも身近にあった。
でも、「宮崎駿に人生を壊された女」の世代の方々は、全く違っただろう。私を含め、今の若いオタクはどれだけ想像できるだろうか、“宮崎駿が市民権を得ていない世界”を。正直、まるでピンと来ない。そして、インターネットもない。定期的に発売されるアニメ雑誌が、オタクのコミュニティだったのだ。今のように、「オススメの作品あります?」→「〇〇が面白いよ〜」とTwitterで数分で返ってくるような、そんな環境とは程遠い世界が、確かにあったのだ。でも、そういうオタクの諸先輩方がコンテンツを応援し、支え、広めてくれたからこそ、今のオタク文化(=OTAKU文化)があるのは疑いようもない。だから、「宮崎駿に人生を壊された女」を読んで抱いたモヤモヤの中で割と上位にあったのは、“感謝”という感覚だったのかもしれない。
同時に、オタクというだけで白い目で見られる時代も、あったのだ。いや、今の若いオタクだって、「オタクは生き辛い」と思っていることだろう。分かる。私もそう思う。周囲からの「なんでそんなのにハマってるの?」「いい歳なんだからそろそろ卒業したら?」という目は、この2015年にだって確かにある。しかし、「宮崎駿に人生を壊された女」の時代は、それが今より何倍も濃くて、何倍も鋭くて、何倍も痛かったのだろう。そういう時代を生き抜いてきた方々が、今の“好きなものは好きでいればいい”という言説を押し上げてきたのだ。
だから、簡単にバッサリと、「好きなものは好きなんだからそれを貫けばいいじゃん」「全ては自分が選択した結果だ」「周りも悪いけど、結局は自分のせいだろ」なんて、私は口が裂けても言えない。そんな惨いことは、できない。この話が、2010年代の話だったら、多分私もそうやって斬ってしまうだろう。「自分がそれを好きなら、それを曲げずに生きていけよ」と。でも、そういった言説が、感覚が、芽生え根付く前の、更にはそれを押し上げてきた世代の方々にそれをぶつけてしまうのは、あまりにも酷な話のように感じてしまう。
確かに、この話は批難を浴びやすい内容だと思う。本筋とは関係ないところで「もののけ姫」などのファンの多い作品を貶してしまっているし、そこでイラッときてしまう人も多いと思う(私もその一人だ)。周囲から趣味嗜好を理解されず迫害されたという文脈も、もちろん、苛めた側が悪いのは百も承知ながら、この描き方から滲み出る本人の歪みがその遠因だったのではと感じてしまう。
結局、自分の人生が壊れた(と本人は思っている)原因を、周囲や、あまつさえ好きな物の中に求めていて(半ばこじつけていて)、「それを好きな自分」をほとんど持てなかった部分について、批難が集まるのは分かる。「周囲は分かってくれない、でも自分だけは分かる宮崎駿のすごさ」という歪んだ優越感に、すっかり酔い潰れてしまったような印象を受けた。でも、この方は、そんな部分を全て分かって、ひっくるめた上でこれを描いているだろうし(最後まで読んでそう感じた)、とはいえこういった「モヤモヤを感じる」部分について意見交換が成されるのは、決して悪いことではないと思う。
だから、どうしても「いや、ちょっと…」と思ってしまうのが、私たちのような若いオタク世代の、それも一部の人たちの反応なのだ。「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」が、周囲に、マスコミに、親に、全く迎合されなかった時代が、確かにあったのだ。そして、そこを生き抜いてきた方々のおかげで、自分たちは好きなものを胸を張って好きと叫び、時にはネットに居場所を求め、オタクライフを楽しむことができているのだ。今の感覚だけで、オタク文化の変遷を無視して批難してしまうのは、果たして“正しい”のだろうか。
この漫画を読んでモヤモヤを抱くのは分かるけれど、これを若いオタク世代の人が白か黒かでバッサリと斬ってしまうのは、少なくとも私には畏れ多いことだと思う。
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