AWAKEの悲劇】5・投了のタイミングをめぐって

2勝2敗で迎えた電王戦FINAL第5局。頂上決戦として大いなる注目を集めた、阿久津主税八段と「AWAKE」との対局は、21手という異例のスピード決着となりました。なぜAWAKEはその実力を発揮できなかったのか。なぜ開発者の巨瀬亮一は投了を決断したのか。『ドキュメント コンピュータ将棋』著者・松本博文氏が、電王戦の結果を振り返りながら、人間とコンピュータとの戦いのあり方を問いなおします。完全書き下ろし。

 巨瀬が早い段階で投げようと決断したのは、後に取り沙汰されたように、レギュレーションや、対戦相手の阿久津に対する抗議の意味ではない。
 勝敗という観点からして、勝ち目がほとんどない。投了するのであれば、早く思われようとも、このタイミングしかないであろう、と。

 「もしそこで投了しなかったら、なぜ投了しなかったのかという後悔も生まれると思います」

 今回の電王戦においては、コンピュータソフト側の大将であるAWAKEを開発した巨瀬が、元奨励会員だということで、多くの人がそこにドラマ性を見出した。阿久津が年若くして奨励会を抜け、四段に昇段してプロとなり、後にはA級八段にまでなったのとは対照的に、巨瀬は奨励会を退会し、プロにはなれなかった。しかし巨瀬はそこで終わらなかった。圧倒的な実力を誇る将棋ソフトを開発して、巨瀬は将棋会館の対局の場に戻ってくる。できすぎとも言える、美しいストーリーである。その経緯を紹介するプロモーション・ビデオを見て、多くの人が感動した。

 巨瀬は普段、自身を元奨励会員だからと意識することは、あまりない。しかし投了のタイミングについては、やはり自分は元奨励会員だということを意識した。人間の上級者であれば、きれいな形で終わらせようと思うのは、当然のことでもある。

 アンチコンピュータ戦略ではなく、普通に指されて敗勢になった際には、巨瀬はAWAKEが自身の負けを読みきった時点で、AWAKE自身に潔く投了させる設定にしていた。

 AWAKE以外の他のソフトもまた、途中で投了できない、というわけではない。一定以上の評価値に達した時点で投了させる、という選択ももちろん可能である。しかし上位クラスのソフトであっても、敗勢となれば駒を全部取られ、人間の目から見れば見るに堪えないようなところまで指すことが多い。

 これは開発者のスタンスの違いである。どのようにすべきか、という正解はない。

 2015年3月。電王戦FINALが開幕した。

 第1局の斎藤慎太郎五段-Apery戦では、斎藤が見事な指し回しで勝勢を築いた。投了のタイミングについては、Apery開発者の平岡拓也は対局前に、最後まで指すことを決めていた。そしてその旨を、事前に対局者の斎藤にも伝えている。

 Aperyは最後、「王手ラッシュ」と言われる、人間の目には無駄で、無意味に思われる王手を始めた。解説の鈴木大介八段は、そのAperyの指し方を、はっきりと批判をした。棋士の伝統的な価値観からすれば、当然の意見表明とも言える。また観戦者の多くからも同様の非難があった。

 一方でコンピュータ将棋関係者や、古くからのコンピュータ将棋愛好者から見れば、ソフトの本質的な強さとは関係のない、既知の特徴であり、特段に非難されるべきでもない、と思われることである。

FINALの結末

 将棋連盟側が「背水の陣」と位置づける電王戦FINALに向けて、5人の対局者は、このレギュレーションの上では最善と思われるほどに、周到な事前準備をしていた。

 電王戦FINALは、まず棋士側が2連勝し、次にコンピュータ側が2連勝した。

 そして4月11日、最終第5局の、阿久津主税八段-AWAKE戦を迎えた。

 巨瀬は自身の決断を、ずっと応援してくれていた父にも、他の誰にも話すことなく、1か月以上、胸に秘め続けていた。

 棋士側の大将に立てられた阿久津にもまた、プロとしての葛藤があった。プロの公式戦では決して指すことのない、対コンピュータに特化した作戦を採用することは、当然ながら、批判も呼ぶだろう。阿久津は葛藤を振りきって、対局前には、△2八角を誘導する作戦を採用することに決めていた。

 対局が始まって、阿久津の作戦は明らかになった。
 多くの人々にとって想定外のこと、だったわけではない。ニコニコ生放送の中継を見ればわかる通り、解説担当の藤井猛九段をはじめ、多くの関係者は事前にこの作戦の存在を知っていた。観戦していたファンもそうであろう。

 電王手さんが動いて、角を持ち、2八の地点に置く。
 「ああ……。打ってしまいましたね」
 解説の森内俊之九段が、いかにも残念そうにつぶやいた。そしてふっと、寂しそうな顔を見せた。

 人々にとって、真に想定外だったのは、巨瀬の対応だった。

 巨瀬は淡々と、1か月以上前に用意した、自らの決断に従った。
 AWAKEが△2八角を指す。阿久津が次の手を指す。そこで巨瀬はすぐに、投了を告げた。

 対局時間は、異例の短さである49分。最後のやり取りに至っては数分にも満たないうちに起こったことだった。
 しかしそのわずかの間のやり取りの背景には、これだけの長い過程があった。

 阿久津と巨瀬、いずれにも、賛否両論の声が寄せられた。

 阿久津に対しては、プロがこういう将棋を指す姿を見たくはなかった、という声ももちろんある。一方で、プレイヤーである以上、このレギュレーションにおいては最善を尽くしたまで、という声もある。筆者が見た限りでは、事情をよく知るファンの間では、後者の側が多かったように感じた。

 棋士はいい棋譜を残すことを求められる。また同時に、勝負に結果を残すことも求められる。厳しい立場だ。あの才気あふれる阿久津の将棋を、大舞台で見たかったと思う。しかし一方で、これまでの電王戦の成績を見て、コンピュータ将棋の圧倒的な実力を考えれば、そうした姿勢を貫くことは難しいであろうこともわかる。将棋界には、そうした何もかもを承知して棋士に声援を送る、熱心で素晴らしいファンが多い。

 一方で、巨瀬に対しては、どうであったか。巨瀬の無念を思い、その姿勢に共感を寄せる声もあった。しかしそうした声は、ネット上では、非難の声の大きさに圧倒されているようにも感じた。

 電王戦という注目される舞台では、登場する棋士や開発者に、時にすさまじいまでの批判、さらには筋違いとも言うべき、聞くに堪えないような匿名の誹謗中傷が浴びせられる。

 第1回ではボンクラーズ開発者として、「コンピュータは名人を超えた」と公言し、第2回ではPuella αの開発者として「つまらない将棋にしてしまった」と発言した、伊藤英紀。
 第2回で、ponanzaに敗れ、現役棋士として初めてコンピュータに敗れることになった佐藤慎一。
 第3回でレギュレーション違反の修正をおこなったと認定された、やねうら王開発者の磯崎元洋。そしてそのやねうら王に敗れたのは事前の準備不足だったからではないかと言われた佐藤紳哉。
 今回のFINALでは、Aperyに王手ラッシュが生じるまで、最後まで指させつづけた開発者の平岡拓也などがそうであろうか。

 巨瀬にもまた、多くの非難が押し寄せた。
 大きく分ければ、プログラムに欠陥があるのに改良の努力もせず反省もないこと、興行的に問題が出るであろうにも関わらず早く投了してしまったこと、プロ側に独善的な期待を寄せ、対戦相手の阿久津に対し非難とも受け取れる発言をしたこと、などであろう。
 中には、そんな甘いことだから、巨瀬は奨励会を抜けられず、プロ棋士になれなかった、などというものもあった。

 巨瀬は電王戦が終わった後、ネット上において、あまりに多くの誹謗中傷が自身に向けられていることを知った。合理的な批判であればわかるが、レギュレーションの存在など事実関係を踏まえていない声も多く、一般的な理解はこのようなものか、と思った。

 棋士とコンピュータ将棋の勝負は、棋士ばかりが失うものがあるという。それはもちろん、間違いではないだろう。卓越した将棋の技術によって人々の尊敬を集めてきた棋士の立場は、強いコンピュータ将棋の登場によって、その存在意義を問われつつある。
 一方で、コンピュータ将棋のシステムを考え、開発してきたのは、コンピュータではない。もちろん、人間である。そうした優れたシステムを生み出す人々が、不当な非難を浴び、名誉が傷つけられることも、ないとは言えない。

 棋士の阿久津も、開発者の巨瀬も、なんらルールにはずれた選択をしたわけではない。両者は葛藤の中で、それぞれの信念をもって、最善と信じた道を選んだ。

 もし今回の悲劇を—それを悲劇ととらえるとすればだが—招いたのはひとえに、この電王戦の対局の設定、レギュレーションの存在という他にないのではないか。

△2八角戦法のその後

 コンピュータ将棋に△2八角を誘って打たせるという発見を、どう評価するか。

 たとえば升田幸三や藤井猛が披露し、棋界に革命を起こしたような、格調高い新手とは、同列に語ることはできないだろう。
 しかしながら、それとはまた別の大系、コンピュータ将棋史上の大発見であることには間違いない。

 コンピュータ側に△2八角と打たせる筋は、示されてみれば、なんだ、というものだ。その原理は単純でわかりやすい。この10年間のあいだ、いつ誰かが見つけていてもおかしくはなかった、とも言える。
 ではこれまでの、棋士とコンピュータ将棋の真剣勝負の直前に、この手法が見つかったとすると、棋士の側は採用していただろうか。2007年の渡辺明-Bonanza戦、2012年の米長邦雄-ボンクラーズ戦、などなど、あれこれ想像してみることもできるだろう。

 現実には、その発見に至るまでには長い年月がかかっている。将棋界では「手順の妙」という言葉がある。いま2015年のこのタイミング、電王戦FINALのそのまた最終戦で現れたことも、手順の妙であるとも言える。

 電王戦最終日から少し経った、4月25日、26日。幕張メッセにおいて、ニコニコ超会議が開催された。例年、囲碁・将棋のブースも設けられ、多くのイベントが開催されている。
 そこで、タブレットにインストールされているponanzaに勝てば、同種のタブレットをもらえる、という企画があった。電王戦の統一マシンに比べると、30分の1ほどの速度でしか読めないという。そして、人間側の持ち時間はトータルで20分ほどあるが、ponanzaは1手に2秒しか考えさせない設定だという。いくらなんでもそれなら勝ち目があるだろう……そう思って幕張メッセまで出かけた人も多かっただろう。
 開発者の山本一成も、「そんなに強くないですよ」と笑っていた。

 しかし、そんなことはなかった。これが思いの外に、強い。勝者が現れないことはないのだが、そう多くはないので、考慮時間が2秒から1秒に変更された。

 筆者も挑戦してみたが、あっという間に負けた。ponanzaはいつもほどには深く手は読めなくても、なにしろ第一感でほとんど誤らない。アマトップクラスを含めて、多くの強豪が挑戦していたが、まともに立ち向かって勝った人はほとんどいなかった。
 チェスでは既に、スマートフォンのアプリに、グランド・マスターが敗れる時代が訪れている。将棋界もいずれ、チェスの世界の現実の後を追う可能性は高いことを、改めて思い知らされた。

 ponanzaに挑戦する企画は、負けても負けても、何度も挑戦できたので、筆者も行列に並びつづけた。そして、△2八角戦法をねらい続けた。これだけのサービス設定にしてもらってようやく、ponanzaが△2八角と打ってくれる可能性があるのだ。
 そうして△2八角を誘導し、ついに勝つことができた。2日間を通じて、勝利者はわずかに9人だけ。後で聞いてみると、のべ400人以上の挑戦があってのことだった。

 「来年はタブレットでも1秒でも負けないponanzaを作りたいと思います!」
 山本はTwitter上で、そう宣言している。開発者の飽くなき姿勢には、敬服するほかない。

 電王戦の舞台でAWAKEが△2八角を指したことによって、コンピュータ将棋にはまだまだ致命的な欠陥があるかのような声も聞かれた。しかし上位ソフトを見てみれば、そうとも言えないだろう。

 上位ソフトの一つである「ひまわり」開発者の山本一将は、AWAKEが△2八角を打ったのと同じ局面で、ひまわりに考えつづけさせてみた。すると、ひまわりは3000億局面近く読んだところで、△2八角を回避することがわかった。3000億といえば途方もない数のようだが、コンピュータにとってみれば、現実離れした数字ではない。たとえばハード制限のない、クラスタ化されたGPS将棋は、1秒で2億局面以上を読んでいた。

 また、多くの開発者に意見を問うてみたところでは、特定の対処をほどこすことにより、△2八角と打つ穴は埋められる可能性が高いという。したがって、人間対コンピュータの真剣勝負の場でこの筋が再び現れる可能性は、低い。そして早くも、2015年のコンピュータ将棋選手権では、その対策をほどこしたソフトも登場していた。
  電王戦の統一マシンで走るponanzaであれば、現時点においてももはや、△2八角は打たないことがわかっている。特定の対策をほどこさずとも、他のソフトもいずれはponanzaのように、自然と指さなくなる可能性も高いだろう。

 △2八角の穴が埋められた後、それに匹敵するほどの、アンチコンピュータ戦略上の発見はあるだろうか。
 それは、もしかしたらあるのかも知れない。しかし、その発見は、ますます困難なものになっていくだろう。そして見つかれば、おそらくはすぐに、その穴は埋められていく。そうして、人間がコンピュータに勝てる確率もまた、ますます低くなっていくだろう。

相手は神か人間か

 阿久津-AWAKE戦の△2八角の誘導は、さかんに「はめ手」だと言われた。相手をはめる、というのはあまり上品な表現ではないが、将棋界ではアマプロ問わず、昔からよく使われてきた言葉だ。
 ここで「はめ手」の定義を改めて考えてみると、相手が間違えることをあからさまに期待して指す、最善ではない指し手、ぐらいだろうか。

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