ここ3年、電王戦の開催記念イベントとして、大将のソフトにアマチュアが挑戦して、勝てば100万円がもらえるという企画がおこなわれている。
2013年はGPS将棋がアマチュアの挑戦を受けた。
条件は、パソコン1台。670台をつなげた電王戦本番のバージョンほどには強いわけではない。ただし、ソフトはフリーでダウンロードできるので、対策は立てやすい。
結果はGPSから見て105勝3敗。運営側は3敗もするとは思っていなかったそうだが、挑戦するアマ側からしてみれば、この条件でこれだけしか勝てないというのは意外だった。
2014年は、ponanzaが登場した。
電王戦もこの年から、コンピュータ将棋側はマシンは1台だけとなった。100万円チャレンジでは、それよりはスペックの低いマシンが用いられた。これは、挑戦する側にとっては有利な条件である。一方で直接的な事前研究は難しい。電王戦本番ではponanzaは事前貸出で提供されていたが、当時のアマチュアでは入手できなかったためだ。
結果はponanzaの166勝0敗。ponanzaが圧倒的な実力を見せつけることになった。
そして2015年には、AWAKEがアマチュアの挑戦を受けることになった。やはりAWAKEも公開されていないので、直接的な事前研究はできない。前年同様、アマ側全敗でもおかしくないと思われていた。
しかし、決定的な対策を用意していた人たちがいた。角交換四間飛車から2八の地点にスキを作っておき、そこに角を打ち込ませる作戦だ。後には一般的に「△2八角戦法」とも呼ばれるようになる。
スマートフォンで利用できる対戦型将棋アプリ「将棋ウォーズ」ではponanzaやツツカナ(第2回、第3回電王戦出場ソフト)がbotとして動いている。それら強豪ソフトにも通用する作戦として、一部の熱心なプレイヤーの中では知られていた。
自然な指し回しでソフト側の悪手を誘うことができ、相手に回避された場合でも、通常の作戦に戻すこともできる。角の打ち込みを誘うというアンチコンピュータ戦略の王道と集大成のような作戦である。後にこの戦法は大いに注目され、誰が指し始めたのかと取り沙汰されるようになるが、対戦サイト上で以前から指されていたのは間違いない。
筆者はこの作戦の存在を、うかつにも知らなかった。知っていればもちろん研究して臨んでいた。AWAKEに通用するかどうかはこの時点ではわからなかったが、後には、対コンピュータでは汎用性の高い作戦だとわかった。
AWAKE100万円チャレンジが始まり、例年と同様に、多くの挑戦者があえなく敗退していく。その中で、支部名人戦や赤旗名人戦などの全国大会優勝の実績を持つ、アマ強豪の木村秀利さんは、ねらっていた。秘策△2八角戦法をあたためていたのだ。
ただし前提として、この作戦はこちらが四間飛車なのに対して、相手は居飛車のままでなければならない。その岐路は、早くも4手目で現れる。AWAKE側がランダムで選ぶ4手目で、振り飛車志向の手を指されると、文字通りお手上げなのだ。
木村さんは運がなかった。AWAKEに4手目の段階で変化されてしまったのだ。早くも苦笑している木村さんを見て、多くの観戦者はその意味がわからなかった。
解説の高見泰地五段も、
「早速うつむいてますけど、どうしたんですかね。もしかしてちょっと、作戦に誤算があったんですかね」
と、けげんな声をあげている。相振り飛車でも、△2八角の打ち込みを誘えなくはない。ただし、条件が違うので、あまりうまくいかないのだ。それを知らない木村さんではなかったが、あえてスキを作って、誘ってみた。
「えっ、角を打たれちゃいますよ」
解説聞き手の山口恵梨子女流初段が驚いている。その数手後、ついにAWAKEに△2八角と打ち込ませた。解説の高見五段も、すぐにはその意図をはかりかねていた。馬を作られたならば、後で角を合わせれば消すことができる、と常識的な解説をした。木村さんは、それ以上のことをねらっていたのだった。
木村さんの構想は、残念ながらうまくいかなかった。AWAKEに一方的に攻められる展開となり、受け切れない。やがて終局を迎えた。
この時点で木村さんがこの構想で勝っていれば、木村さんの名前は大きく取り上げられただろう。
アマチュア側にほとんどチャンスを与えないまま、AWAKEは淡々と勝利を重ねていく。また今年も、アマ側全敗で終わるのだろうか、というところで山口直哉さんが登場した。
山口さんは関西大将棋部OBで、アマチュア王将戦の全国大会優勝という実績を持つ。現在は強豪ひしめくNEC将棋部に所属している。将棋倶楽部24のレーティングは3000点を超える。早指しという条件であるが、これはプロレベルと言ってもいい。
その山口さんは対局前、
「普通にやっても勝てないので、奇襲戦法で行きたいと思います」
と語っていた。その奇襲戦法が、△2八角の誘導だった。
山口さんは事前に、この作戦を徹底的に研究していた。木村さんのように、早い段階でAWAKEに作戦をはずされてはどうしようもない。しかし、山口さんには運が味方した。AWAKEは山口さんが待ち受けている作戦通りに指し進めていく。
「これはやはり、△2八角とは打てないんですよ」
と高見五段がコメントする中で、AWAKEはその手を指した。
「打ったよ。打ちましたよ」
山口女流初段がまたしても驚く中で、山口さんは間髪入れずに次の手を指した。観戦していた多くの挑戦者たちは、すぐに山口さんの作戦が的中したことがわかった。山口さんほどの実力者が、この先を研究していないはずがない。
「はまった可能性がありますよ」
と高見五段。その通り、AWAKEは、きれいにはめられていたのだった。△2八角以降、AWAKEは数ある変化の中でも、さらによくない変化を進んでいく。
完全情報ゲームの将棋は、運の要素がないと言われる。しかし、こと対ソフトという点では、そうとも言い切れない。山口さんはやはり、ついていた。AWAKEが山口陣に作った馬(成った角)はもう助からない。
ただし、この馬を銀と桂、いずれと交換するかで、この先の展開は大きく違ってくる。銀との交換であれば、まだそれなりに指せるが、桂との交換しかできないのであれば、後に反撃の手段に乏しい。
AWAKEが選んだのは、後者だった。
局面は、大差になった。評価値に直せば、1000点前後の差だ。本来であればセーフティーリードというところである。しかし、相手は何しろ、最強ソフトのAWAKEである。どうしようもないと思われた形から、勝負の形を作ってくる。そこでレーティング3000点超の、山口さんの実力がものをいった。うまくいなして、玉を逃げ切り、コンピュータが苦手な入玉形に持ち込む。対コンピュータの作戦としては、完璧なフィニッシュである。
AWAKEは相手の勝ちを読み切ると、無駄に指し手は延ばしたりせず、投了する設定にしてある。AWAKE側の玉がまだ詰んでいるわけではない、というタイミングで、AWAKEの投了が表示された。山口さんがAWAKEに勝利して、100万円獲得を決めた瞬間である。
ニコニコ生放送上では山口さんの勝利を讃えて、絶賛と祝福のコメントで埋まった。
山口さんの勝利により、この作戦は大きく取り上げらた。そして「△2八角戦法」とも、「山口システム」とも呼ばれるようになる。何しろ作戦の意図が明快であり、はまったときの効果はすさまじい。
山口さん以降の挑戦者は、すぐにこの作戦を真似しはじめた。AWAKEが期待通りの順を指してきて、条件が揃った幸運な挑戦者は、100万円獲得に向けて大きく近づくことになる。
これだけ明快な穴が見つかったのだから、ここから100万円ラッシュになるだろう。多くの人がそう思ったはずだ。しかし、そうではなかった。
トップアマの武田俊平さんもいい条件に持ち込むことができて、勝利は確実かと思われた。しかしAWAKEがすさまじい力を発揮した。やがて最後には、ひっくり返してしまった。
AWAKE100万円チャレンジの1日目が終わった。勝者は山口さん、ただ一人だけだった。
開発者側の選択肢
AWAKE開発者の巨瀬亮一は、100万円チャレンジの会場にはいなかったが、ニコニコ生放送で、その模様はすべて見ていた。△2八角を誘われる穴については、多くの将棋ソフト開発者と同じように、これが初見だった。
運営側からは、すぐに連絡があった。当面、翌日の100万円チャレンジ2日目(最終日)についてどうするか。なにしろ、1局敗れるごとに、100万円の出費となるのだ。運営側にとっては切実である。予算はそれほど多く取っていない。巨瀬はすぐに対処を要請された。時間的な余裕はない。そこでとりあえず、AWAKEが定跡形を指さない設定にすることで、なんとか乗り切ることにした。
では1か月以上先の電王戦本番についてはどうか。時間的な余裕はある。しかしレギュレーション上、改良することはできない。巨瀬にとっては、不運なめぐり合わせだった。もしソフト提出前に知っていれば、当然対策を思いめぐらすことはできていた。しかし、レギュレーション上、改良が禁止されていては、もはやどうしようもない。
巨瀬には後に、100万円チャレンジ以後、なぜ改良をしなかったのか、という批判が浴びせられることになる。しかしそれは筋違いというもので、上記の事情を踏まえていない。
巨瀬が考えることができるのは、もしこの作戦を本番でやって来られたら、どうするかだけであった。そして開発者に与えられた選択肢というのは、いつ投了できるか、という一点だけである。
100万円チャレンジの2日目、多くの挑戦者たちは、一夜づけで△2八角戦法を研究していた。アマはプロと違ってプライドがまったくないかといえば、そうとは言えない。他の人のアイディアを採用するのは気がとがめるし、また、普段は指さないアンチコンピュータ戦略そのものを潔しとせず、という人もいる。
一方で現実的に実力差を考えて、△2八角を誘う以外の作戦では、ほぼ勝ち目がないと思う人も多いだろう。筆者もその一人である。
開始から数局のAWAKEの序盤作戦を見て、前日の設定とは違うのではないか、という声が挑戦者の中から上がった。開発者の巨瀬が設定を変えたのだから、そうなる。ただし、そこで文句をつけるアマチュアはいない。あくまでも、ノーリスクで挑戦させてもらっている立場なのだ。4手目に作戦をはずされた挑戦者たちは、苦笑したり、頭を抱えたり、万歳をしたりと、それぞれにがっかりしてみせた。
しかしながら、幸運な何人かは、△2八角戦法を誘導できた。筆者もその一人である。とはいえ、角銀交換に持ち込まれて、あっという間に逆転負けを喫した。筆者の棋力はアマ強豪とは言えないが、他の多くのアマ強豪も同様だった。
前日の勝者である山口さんがトップアマとして、卓越した実力を持っているのは間違いない。しかしそれでも、山口さんの棋譜を見返してみれば、山口さんには運も味方していたことがわかる。
結局、2日目には勝者は一人も出なかった。通算成績は、AWAKEの75勝1敗。これだけ明白な穴が見つかりながらも、わずか1敗で乗り切ったのはAWAKEの実力を表してあまりある、とも言える。
しかしAWAKEが真に実力を発揮すべき、電王戦という大舞台ではどうなるのだろうか。
AWAKEと対戦する阿久津は、100万円チャレンジでアマが指す前から、AWAKEを相手にこの指し方を試し、AWAKEが誘いに乗って、△2八角と打ってくることを把握していたという。
100万円チャレンジ終了の1週間後、今度はponanzaに勝てばノートパソコンがもらえる、という企画があった。電王戦用のマシンで走るponanzaは△2八角を打ってこない。それは対戦相手の村山慈明七段が実際に試して、すでに確かめていた。
しかし、それよりスペックの低いマシンで動くponanzaであれば別である。ニコニコ生放送で中継されることはなく、あまり注目されはしなかったが、△2八角戦法について研究を重ねたアマチュアの挑戦者の一人が、ponanzaに△2八角を打たせ、勝利を収めていた。
1か月半前の決断
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