これまでと何も変わらない。専守防衛も、平和主義も、自衛隊のリスクも――。

 新たな安全保障法制をめぐる安倍首相ら政府側の答弁はそういう主張に聞こえる。

 そんなはずはあるまい。

 たとえば専守防衛。きのうの衆院特別委員会で安倍首相は、その定義について「いささかの変更もない」と断言したが、極めて乱暴な答弁だ。

 防衛白書によると、専守防衛は「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使するなど憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢」である。普通の人がこれを素直に読めば、武力行使ができるのは日本が直接攻撃を受けたとき、という意味になるはずだ。

 安倍政権は昨年7月の閣議決定で、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に踏み切った。国の存立が脅かされるなど新3要件にあてはまれば、他国への攻撃でも武力行使ができるようになる。日本の安全保障政策の大転換である。

 たとえ今回の集団的自衛権の目的が「他国の防衛」でなく、「日本の防衛」だとしても、そのきっかけは、やはり他国への攻撃ではないか。それを踏まえれば、少なくとも専守防衛は変質すると言うべきだ。

 政府が「不変」を強弁するのは、憲法改正を避けながら、集団的自衛権の行使容認をめざしているためだろう。憲法解釈の変更で済ませるには、安全保障政策の根幹は変わっていないと言わざるをえない。

 積極的平和主義のスローガンを掲げ、あくまで平和主義の継続を言い募るのも、同じような事情が見え隠れする。

 しかし、これほどの政策転換をこうした粗雑な理屈で通すのは無理がある。このままでは、国会答弁や政治家の言葉の重みが失われてしまう。

 集団的自衛権の範囲や内容をめぐっても、安倍首相は限定的であることを強調しながら、「一般に」「例外として」「現在は」などを乱発し、将来の変化に含みを持たせている。結果として「例外」は拡大し、政府の裁量に委ねるしかない状況に陥りかねない。

 国会がこんな政府の無理押しを問題にするのは当然だろう。

 きのうの審議では誰もがあぜんとするような場面があった。自衛隊のリスクについて問いただそうとした民主党の辻元清美氏に、安倍首相が「早く質問しろよ」とヤジを飛ばしたのだ。

 その後、首相は謝罪したが、真摯(しんし)な議論を妨げるような行為にあきれるばかりである。