惠隆之介(ジャーナリスト)

「自治は神話」の真意


 4月5日、沖縄で菅義偉官房長官と翁長雄志沖縄県知事との初会談が行われました。

 会談で菅官房長官は「辺野古移設を断念することは普天間の固定化にも繋がる。(仲井眞弘多前知事に)承認いただいた関係法令に基づき、辺野古埋め立てを粛々と進めている」と説明し、対して翁長知事はこう反論しました。

 「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と発言した最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる。県民の怒りは増幅し、辺野古の新基地は絶対に建設させることはできない」

 たしかにキャラウェイ中将は在任当時、「沖縄の自治は神話だ」という趣旨の発言をしましたが、中将は沖縄住民の性格を熟知しており、「自治を要求する声よりも、むしろ『責任』と『能力』の度合いに考慮を払わずにはおれない」と前置きし、「やるべきことをやれ」と強調したのです。その発言のなかで、「神話だ」という言葉を使ったにすぎません。

 中将の言う「義務」とは何か、そもそもキャラウェイ中将がどんな人物だったのか、きちんと理解している人はどれくらいいるのでしょうか。

 中将は1961年2月16日から64年7月31日までの3年6カ月間、沖縄に赴任し、頑迷固陋な沖縄住民の啓蒙活動に邁進したのです。

 当時の沖縄の金融界は腐敗しており、利益独占集団を形成していました。日米両国政府が経済援助を行っていたのですが、この集団が中間搾取してしまう。その腐敗体制にメスを入れたのが、他ならぬキャラウェイ中将だったのです。沖縄金融界の浄化、感染症防遏対策、インフラ構築、サンゴなどの自然保護政策など多大な功績を残しています。

 南大東村では1900年、大日本製糖会社が八丈島から移民を募り、「農地を開拓し、一定期間耕作すればそれを解放する」という条件で小作をさせていたのですが、戦後になっても約束を履行しようとしなかった。

 困った村民たちは、キャラウェイ中将に農地解放の仲介を懇請したのです。弁護士資格を有していた中将は会社側に約束を履行するよう説得し、実現しました。村民は移住64年を経過して、ようやく開墾地の私有化を実現できたのでした。

 1964年6月4日には、那覇市議会が中将に名誉那覇市民憲章を授与し、功績を讃えました。さらに2000年7月30日、南大東村では開拓百周年を記念して中将の胸像が村民によって建立されました。

 翁長知事やマスコミは、キャラウェイ中将を「米国支配下の沖縄で強権的な政策を進めた人物」としていますが、決してそのような人物ではないのです。

 もしそうだとしたら、なぜ那覇市議会が名誉市民憲章を授与したのか、なぜ南大東村に胸像が建立されたのか、全く説明がつきません。
米海兵隊が駐留する沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場

平均寿命が30年延びる


 沖縄がアメリカの施政権下にあったのは、1945年4月1日から1972年5月15日までの27年間です。最近、この時代を暗黒の時代であったかのように言っていますが、それは違います。

 むしろ、アメリカの統治によって沖縄県民の生活環境は飛躍的に向上したのです。

 住民は戦後、灰燼に帰した日本本土を「再起不能」と決めつけ、貧乏な日本に戻るよりも豊かなアメリカの施政下にあるほうがいいという、米国依存ムードが強かった。当時はドルが強い時代で1ドル=360円の固定相場制でしたから、アメリカ施政権下にいたほうが儲かりました。実際、本島中部の歓楽街では「日本人立ち入りお断り」の立て看板を出す店もありました。米軍人はチップを弾むが、日本人観光客はそうしなかったからです。

 アメリカ統治によってもっとも進歩したのは医療、衛生環境でしょう。

 戦前の沖縄の人口動態はピークで59万7902人(1937年)、県民の平均寿命は47歳。亜熱帯の地域にあるため、マラリア、結核、ハンセン病など、東南アジアと同様の感染症が蔓延していました。

 また戦前の沖縄では、罹患すると庶民はユタ(巫女)に頼り、シャーマニズム的な対処しかしなかったため、感染症は地域社会に瞬く間に伝染していきました。

 しかし戦後、アメリカ軍政府が「沖縄振興の基礎は住民啓蒙と衛生環境の整備にある」と結論し、看護学校を設立、米国型スーパーナース(公衆衛生看護婦)の育成に着手しました。沖縄県は150の島から形成されております。そのうち有人島は61カ所、そのすべてに公衆衛生看護婦を配置し、住民とくに婦人層の教育にあたり、感染症防遏対策を徹底しました。

 公衆衛生看護婦は、日本の保健婦システムに類似点もありますが、米国式に医師と同等の権限を付与されており、在宅患者または急患発生時に医療行為も行いました。わが国の特定看護師に相当するものです。

 本土に復帰してからは日本の医師法の適用下に入ったため、平成7年に廃止されましたが、いまでも公衆衛生看護婦のノウハウを習得するため、東南アジア、アフリカ諸国から看護師たちが訪れ、昨年4月でその数は1万人を突破しました。

 こういった米国政府の功績により感染症は撲滅され、本土復帰する頃には人口は96万1348人、寿命は79歳と全国最長寿を達成していたのです。

 アメリカ統治による輝かしい遺産はその他、米国式医師インターンシステムが残っています。これも毎年、日本全国から新卒医師の受講希望者が殺到しています。それらすべてを無視して「日本がサンフランシスコ講和条約で独立を回復した陰で、取引材料として沖縄はアメリカに引き渡された」という「恨み節」は、無知による全くの誤りなのです。