今回は、国家や社会のあり方に鋭い批判と分析を続けている政治学者の姜尚中さんにお話をうかがった。姜さん自身の子ども時代や、なぜ政治学を研究することになったのかといったことから、現在の政治情勢、学校教育、「拉致事件」報道についてなど、さまざまなことについて語っていただいた。
――どんな子ども時代を過ごされたのでしょうか?
僕は野球が好きな野球少年でした。在日韓国・朝鮮人だとまともに就職できないからと、両親は勉強をすることより、野球で生計を立てることを望んでいました。
高校に入ると、野球もせずひとりで悩み、学校に行かない時期が1年間ほどありました。生まれた熊本県では、まわりに在日の人が少なく、友人もいない孤立状態で、自分の特殊性を過剰に感じていました。
自分自身が変わりはじめたのは、大学2年生のときです。はじめて韓国に行って、夕方のラッシュアワーを見ていました。そのとき「この夕日は日本にも落ちるし、韓国にも落ちる」何も変わらないんだ、と感じてから、すとーんと楽になりました。
私は小さいときから、自分を自然に肯定することができませんでした。他者からの目を自分に引き入れて、自分自身をおかしいと見る目を持っていました。自己否定の縛りが強くて、なかなか脱却できないでいました。
◎これはどこから来ているのか
子どもは、自分自身を肯定しないと生きていけない。この劣等感はどこから来ているのか、突きとめたかった。
そこから、少しずつ「この社会は何なのか?」と思いはじめ、歴史的に問題を考えるようになりました。大学時代に同じ在日の仲間たちに出会ったことも大きかったと思います。
――時代的な背景もあったんでしょうか?
60年代後半は疾風怒濤の時代でしたが、石油ショックを境に政治の季節は終わりました。
それまで学生運動をしていた人たちも、就職し、社会問題から退却していきました。なぜ退却できたかと言えば、就職し、家を持ち、会社を太らせ、自分も太ることができたからです。
それは一概に否定できるものではなくて、健全な面もあったと思います。「公」がどうもうさんくさいものに感じられるようになって、それよりも実感として確実で、欲望の主体である「私」が全面に出てきた。
しかし、在日の人たちは就職もできず、日本社会で取り残された存在になったのです。当時は、住宅金融公庫の借入もできなければ、国民年金にも加入できなかった時代です。「私」に徹したくても、そこに可能性がなかった。だから、自力で道を切り開くのか、自暴自棄になるのかの選択を迫られてしまう。
一方で、日本で「公」というとき、在日は「外国人」としてしか見られない。もっとちがう視点に立たないといけないと思いました。
◎ナショナリズムという病
――いまのナショナリズムの高揚についてどう思われていますか?
僕は「ナショナリズムという病」と表現しています。人間は生きているあいだに病気になりますが、抗体や治療ができます。しかし、ナショナリズムの場合、国民の99%が同じ「病気」にかかり、自分を「正常」だと思うのです。
しかし、その状態は、つねに悲惨な結果をくり返しもたらしたことを歴史が教えてくれています。
いまは、日本社会の生活を支えてきた経済や制度の信頼が崩れはじめ、いわば底が抜けている状態です。この病理的な社会状況が、ナショナリズムを受けいれやすくしています。ナショナリズムは独立編成ではなく、社会的な現象が複合的に重なって発展していくのです。
ナショナリズムを支えているのは「自愛」です。ナショナリストは「自分自身を愛し、自分の家庭を愛すのと同じように、国を愛するのだ」と言います。この意見には反論しにくい人が多いです。ナショナリズムは自愛という点で魅力的です。
しかし、国家は家族の延長ではありません。家族と国家を同一視するのはフィクションです。にもかかわらず、それが自然に見えてしまうのは、異質な他者や敵をつくりやすい集団現象があるからです。
いま日本では、北朝鮮や中国を敵視しています。だから、拉致事件の被害者は「日本にくれば幸せだけど、北朝鮮にいれば地獄だ」と単純化した二分法で見てしまっています。個人から国家まで一体化してしまうのがナショナリズムだと思います。
◎見えない集積が
――学校については、どうお考えですか?
僕が学校がイヤだったのは、人間を従順化させようとする集積の上になりたっているからです。
たとえば、僕の娘の中学校ではソックスやセーラー服の長さ、おじぎの角度、食事の仕方など、さまざまなことを求めてきます。校長や教師の一人ひとりをみると善人が多いのですが、全体的に見れば、とても抑圧的です。
毎日、無意味な訓練をさせ、あるリズムで体を動かさせることで、人間を従順にさせていくのです。従わない子は仲間から差別される対象になります。それはイデオロギーの注入というより、見えないかたちで行なわれている「身体権力」の集積です。松下電器のように社歌を歌わせる企業なども同じことですよね。
それに対して、身体的な暴力性で反抗しているのが校内暴力やいじめだと思うのです。
学校が特定のイデオロギーを注入できるのは、「身体権力」のベースがあるからです。そのうえで、善良かつ従順な平均人がつくられています。
――拉致事件の報道をどう見られていますか?
一連の報道を見ていると、北朝鮮に関して根深い差別感が底流にあることを感じます。日本はかつて植民地支配した北朝鮮と50年以上にわたって交流をしてきませんでした。しかも、この異常を異常だと感じてこなかった。いままで目を向けようとしなかった社会について、暴力的な拉致事件というかたちで、否応なしに突きつけられることになったのです。ちょうど、アメリカが9・11事件によって、突きつけられたように。
今回の拉致問題はあまりにも急激だったので、世論が当惑しています。しかし、なぜ今回の事件が起きたのかを、北朝鮮という孤立した国家だけの問題にせず、交流がなかった異常さから考えるべきだと思います。
◎単線型ではなく複線型の社会を
――どういった社会なら望ましいと思いますか?
いまの社会は極端に言えば、人間がどの家族に生まれたかによって決定されています。資産や所得がある家に生まれた子と、そうでない子の受ける教育はちがいます。人間がどの家庭に生まれたかによって決められる擬似的な封建社会です。政治家やタレントに2世が増えるなかで、労働保障のないフリーターが増える分極化現象が起きています。今後、フリーターが使い捨ての労働力になってしまうのでは、と危惧しています。
現在の政治は「競争」や「自己責任」を掲げていますが、言い換えれば「あなたが生きようが、死のうがかまわない」ということです。競争に敗れ、いったん軌道を外れホームレスなどになると、その後の自己実現が保障されない社会です。それが恐いから、よけいに学校や企業での身体権力を自らで守ろうとします。
学校や会社でつまずくと人生が終わったかのように思わされ、社会や政治を問題にせず自分がダメだ、と思い込まされているのです。単線型の自己実現を押しつけられた結果、年に3万人もの自殺者が出ています。
いまの社会では、若い人たちが生きているリアリティーを感じにくくなっています。寄る辺のない宙づり状態です。だから、国家なんて本来抽象的なものなのに、具体化されたナショナルフラッグが、自分を愛する気持ちに通じていると錯覚を起こす人が生まれるのです。
みんなが画一的につくりだす暴力性や差別を本人たちは感じていません。しかし、自分を「ふつう」と思い、善良な個人の集積が暴力的な社会をつくっていることはたしかです。これは異常な社会なのです。
単線型の自己実現だけを目指した社会ではなく、複線的な敗者復活戦が用意された社会が必要です。望むべき社会とは、やはりみんなが望むこと、思うことを実現するための条件があることです。自己実現を保障するのが、政治だと思っています。
――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂、山本菜々子、相澤啓祐
プロフィール
(かん・さんじゅん)1950年熊本生まれ。政治学研究博士課程修了後、78年~81年までドイツのニュルンベルク大学に留学。98年に東京大学社会情報研究所助教授となる。専攻は政治学・政治思想史。著書に『オリエンタリズムの彼方へ』(岩波書店)、『ふたつの戦後と日本』(三一書房)、『丸山眞男と市民社会』(脊織り書房)ほか多数。
※2003年1月1日 不登校新聞掲載