今日の国会の様子をTVのニュースで見ていて、何となく調べてみました。
松野頼久です。

<wikipedia抜粋>

注目したのはマークした2点ですね。(日本会議は何度も記事にしてるので今回はパスです。)
まずは、お父さん松野頼三です。

<wikipedia抜粋>

熊本県山鹿市出身。松野鶴平の三男。麻布中学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、日立製作所に入社。1940年(昭和15年)に海軍経理学校に入学し、海軍士官(海軍主計少佐)として終戦を迎える。

戦後、衆議院議員であった父・鶴平が公職追放にあったため、身代わりとして政界に入ることになる。また父の後を継いで熊本電気鉄道社長も務めた。吉田茂首相秘書官を経て、1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙自由党公認で旧熊本1区から立候補して当選する。以後、当選15回(当選同期に田中角栄鈴木善幸中曽根康弘増田甲子七中山マサ倉石忠雄荒木万寿夫石田博英原田憲園田直櫻内義雄根本龍太郎佐々木秀世中村寅太など)。1955年(昭和30年)、保守合同により自由民主党に参加する。自民党では佐藤栄作に所属し田中角栄、保利茂愛知揆一橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」の一人に数えられる。

この間、岸信介・佐藤栄作両首相の兄弟に重用され、1958年(昭和33年)6月、第2次岸内閣総理府総務長官として初入閣したのを振出しに、労働大臣第2次岸改造内閣)、防衛庁長官第1次佐藤改造内閣)、農林大臣第1次佐藤再改造内閣)を歴任した。

1966年(昭和41年)、黒い霧事件が発覚。共和製糖事件に現職の農林大臣として調査に乗り出すも、10月19日、自身が新婚であった娘夫婦とラスベガスなどを旅行したのを官費旅行として申請していた事が発覚。辞職には追い込まれなかったものの、改造内閣ではポストはなく、黒い霧解散による総選挙も当選は果たしたが、自由民主党政務調査会長となるまで大臣級のポストから遠ざかった。 
<wikipedia抜粋ここまで>

黒い霧事件の当事者だったんですね。
それにしても、お父さんは安倍のお祖父さんと仲良しなんですね。
じゃあ、今日の国会はとんだ茶番だったんですかね~。

さて、次は日本・ロシア協会です。

<wikipedia抜粋>

役員[編集]

<wikipedia抜粋ここまで>

それにしても、与党も野党もあったもんじゃないですね。
そして、ここにも出ましたワールドメイトの半田晴久

いや~、ただ漫然とテレビを見ていてはだめですね~。こんな人たちが国会で議論してるんですから。