自動車の生産ライン
1年間浪人した後に、家を出て東京へ向かった。東京へ行けば何かが見つかると思い、行った先が東京とは到底言えないような武蔵村山。仕事は日産自動車の生産ラインの作業だった。これが、社会人として初めての仕事だ。
武蔵村山は工場地帯で、寮の周りには何もなくて、仕事をするための工場と寝るための寮を往復するだけの毎日だった。
仕事は流れてくる生産ラインのうえで、与えられた作業をこなすだけの単純作業だったが、かなりの重労働で赴任して1日で逃げ出すひとはザラだった。全国から毎日100人近くの人たちが集められては消えて、また新たな人たちがやってくる。集めても長く続かない人が多かったため、求人情報は絶えず掲載されていた。
僕が働いていた時代はバブル全盛期だったので、新車が飛ぶように売れていた。そのため、当時、月に36万円も給料をもらっていた。僕は契約期間の4ヶ月を全うした。終わってみると、銀行口座には120万円も残高があった。
そのお金で、中古のバイクを買って、バイクで東京から北海道まで帰ったことは、浪人生活でくすぶっていた自分が味わった久しぶりの達成感だった。
武蔵村山は工場地帯で、寮の周りには何もなくて、仕事をするための工場と寝るための寮を往復するだけの毎日だった。
仕事は流れてくる生産ラインのうえで、与えられた作業をこなすだけの単純作業だったが、かなりの重労働で赴任して1日で逃げ出すひとはザラだった。全国から毎日100人近くの人たちが集められては消えて、また新たな人たちがやってくる。集めても長く続かない人が多かったため、求人情報は絶えず掲載されていた。
僕が働いていた時代はバブル全盛期だったので、新車が飛ぶように売れていた。そのため、当時、月に36万円も給料をもらっていた。僕は契約期間の4ヶ月を全うした。終わってみると、銀行口座には120万円も残高があった。
そのお金で、中古のバイクを買って、バイクで東京から北海道まで帰ったことは、浪人生活でくすぶっていた自分が味わった久しぶりの達成感だった。
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