この年齢になるまで言えなかったことをカミングアウトしていきます

研究者の夢が経営者に

大学へ進学してエリートを夢見てた僕ですが、大学受験に失敗して一気に夢も希望も失った。まさか自動車の生産工場で仕事をすることになるとは夢にも思わなかった。死中に活路を見出すかのように、見つけた仕事が自動車を組み立てる仕事だったのだ。

そんな仕事場で、人生の転機が訪れた。

作業中に上司と口論になって、殴りかかったときのことだ。仲裁に入ってくれた方は、当時40歳の同郷で元経営者。その日の夜にお好み焼き屋さんに誘われて二人で飲んだのが、僕にとっては人生初のアルコールだった。

「お前はこの先どうするつもりだ?」
「僕はまた1年浪人して大学を目指します」
「大学へ行くことが、そんなに重要だと思わないが・・・」
「僕には夢があるんです。その夢を叶えるために大学卒業の資格が必要なんです」
「お前が社会に出るときに、同級生は2年先輩だぞ。そこまでして大学へ行く価値があるだろうか?」
「・・・・・」
自分に大学卒業の資格がなくても、経営者になれば大卒の連中を使えるんだぞ
「???」

言われたときにはピンと来なかった言葉が、ずっと心の中に残っていた。
いつの日からだろうか、僕の目標は物理学の研究者から経営者になることに変化していた。


そして、25歳で起業することになった。
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自動車の生産ライン

1年間浪人した後に、家を出て東京へ向かった。東京へ行けば何かが見つかると思い、行った先が東京とは到底言えないような武蔵村山。仕事は日産自動車の生産ラインの作業だった。これが、社会人として初めての仕事だ。

武蔵村山は工場地帯で、寮の周りには何もなくて、仕事をするための工場と寝るための寮を往復するだけの毎日だった。

仕事は流れてくる生産ラインのうえで、与えられた作業をこなすだけの単純作業だったが、かなりの重労働で赴任して1日で逃げ出すひとはザラだった。全国から毎日100人近くの人たちが集められては消えて、また新たな人たちがやってくる。集めても長く続かない人が多かったため、求人情報は絶えず掲載されていた。

僕が働いていた時代はバブル全盛期だったので、新車が飛ぶように売れていた。そのため、当時、月に36万円も給料をもらっていた。僕は契約期間の4ヶ月を全うした。終わってみると、銀行口座には120万円も残高があった。

そのお金で、中古のバイクを買って、バイクで東京から北海道まで帰ったことは、浪人生活でくすぶっていた自分が味わった久しぶりの達成感だった。

告白してから1年後の失恋

僕と涼ちゃんは、晴れて同じ高校に合格して、さらに距離が縮まったような気がした。
ところが、高校へ入るとクラスは別々になり、1年生の頃はほとんど会話することもなくなった。

高校入学前に、ホワイトデーの日に告白した答えも聞かないまま、僕らはそれぞれの高校生活を楽しんでいた。まもなくお互いに恋人ができ、部活や勉強に励んでいた。あっという間に高2となり、涼ちゃんが僕の教科書を借りに教室へやってきた。

戻ってきた歴史の教科書の間に、涼ちゃんからの手紙が挟まれていた。
文面には、「告白してもらったのに、その答えも言わないで申し訳なかった。知っていると思いますが、今は他の人とお付き合いしてます。」と書かれていた。

僕が告白してから、1年以上経ってふられてしまった。
同じ高校に入学して、縮まったはずの2人の距離が実は離れていたことに気付かされた日だった。

大学受験の失敗

18歳の春に大きな転機が訪れた。それは大学受験の失敗が原因だ。
それまで、誰よりも大きな夢を描いていた。

大学で物理学を研究して、宇宙財団(いまのJAXA)に就職することが僕の夢だった。小学生のときに描いていたパイロットになるという夢が、中学・高校で育まれて、宇宙へ行くことが僕の大きな夢となった。

いつかアインシュタインのように、理論を確立したい。ホーキング博士のように、宇宙に夢を持ち続けたい。そんな夢も野望も、たった一度の大学受験の失敗でつまずいてしまったのだ。

いま振り返ると、たかが一度の失敗だが、18歳の少年にとっての一度の失敗は取り返しのつかない失敗だった。

運命は実に皮肉なものだ。大学センター試験に向かう途中、自動車事故に巻き込まれてしまった。
怪我はなかったが、心の動揺は抑えきれなかった。それも今となっては言い訳に過ぎないが。。。

その後、自宅で浪人生活を送ったのだが、受験失敗のストレスがすぐ身体の症状として現れた。頭のてっぺんに直径にして10センチほどの円形脱毛症だ出たのだ。外に遊びに出かける気力すら奪われてしまい、完全に負のスパイラルに陥ってしまった。

そして、19歳の春になり僕は家を出た。

生後3ヶ月にして死の淵を彷徨った

生まれて3ヶ月後に、僕は死の淵を彷徨った。といっても、そんな記憶などないが(笑)

患った病は、むらさき麻疹といって、一般的な麻疹が黒紫色に変色する病だ。母から聞いた話によると、命の危険があり覚悟を決めていたらしい。

いまでこそ、医療が発達して不治の病ではないが、昭和40年代の話である。出産時になんらかの事情で死ぬリスクが昔は高かったから、乳幼児が死ぬことはそれほど珍しいことではなかった。

僕は、きっと神様から命をいただいたのだろう。

どんな使命があったのか分からないし、あったとしても、完璧に忘れてしまっている。ただ、生かされたことに、間違いなく意味はあるはずだと思う。もしかすると、それは子供のころに描いてた夢の中にあったのかもしれない。。。

しかし、人間は忘れる生き物だから、追いかけた夢が実現できないと分かった途端に、自分に言い訳をして夢を追いかけることを描くことすらやめてしまう。

生後3ヶ月の死の淵を彷徨ったあのとき、僕はきっと神様に呼ばれて、人間としての使命を与えられたに違いない。

だとすると、記憶を掘り起こして思い出したい。そして、その夢をまた追いかけて命を全うしたいものだ。

過酷な労働にある癒し

人生初の仕事は、中学3年のときだった。家庭がそれほど裕福でなかったので、進学の足しにと思い初めた近所の印刷屋でのアルバイト。時給は500円と安かったが、中学生でも雇ってくれたので、他に選択はなかった。

仕事内容は丁合いといって、印刷された紙を一枚づつ手に取り、製本する作業が主だった。多いときはページ数が200~300ページ、冊数も500部を超えることもあった。
毎日、学校から帰って、夜中の12時近くまで、ときには深夜まで仕事をした。 印刷機のガタンガタンという音の中で、うず高く積み上げられた紙を1枚1枚取っては積むの繰り返し。騒音でほとんど聞こえないラジオだったが、それだけが気を紛らわす唯一の手段だった。

そんな単純なバイトの毎日に、ひとつの楽しみが見つかった。


紙が高く積み上げられた奥の棚から、なんとエロ本を発見したのだ。どうやら、印刷職人の親父さんが、徹夜労働の合間に見ていたのだろう。それを見つけてからというもの、アルバイトの目的は、いかに人目を盗んでエロ本のページを開くかになった。 人目を盗んで見る女性の裸体は、15歳の僕にはかなり刺激的で、こんなに興奮することはない。膨れ上がった息子を処理するため、トイレに入り込んでイメージの世界に浸った。
そんなこんなで15歳のアルバイトは、仕事の厳しさを学ぶと同時に、性についても学ぶ機会となったのだ。

貧しかった僕とお嬢様の彼女

中学2年に進級すると、クラス替えがあり、中学1年のときに一目惚れした涼ちゃんと同じクラスになった。

・・・あの頃の胸の鼓動が止まらないドキドキ感は今でも鮮明に憶えている・・・

毎日、学校へ行くのが楽しくて、いつかきっと・・・そんなことばかり想像していた。

彼女のうちは、お父さんが大学教授だけあって大きな家で、狭い借家住まいの貧しかった僕は、いつも羨望のまなざしで彼女を見つめていた。心のどこかで、貧しいうちの自分には金持ちの彼女と付き合うなんて夢のまた夢だと思っていた。

中学2年から3年はクラス替えもなく、りょうちゃんとはまた同じクラスになり、3年にもなると少しは会話もできるようになって、いよいよ進学校を決めるときに神が舞い降りた。

僕が目指していた高校に、涼ちゃんも一緒に目指すというではないか!

でもなんで?

その答えは卒業を迎える春になって分かった。

バレンタインデーの日に、彼女は僕を家の前で待ち伏せして、僕にチョコを手渡した。(俺になんで?)

晴れて、二人とも目指していた高校に合格して、迎えたホワイトデーの日に、僕は勇気を出して告白した。

ずっと好きだったと・・・

それから、僕たちは同じ高校へ入学するのだった。

目標の進路が決まる

すっかり独自の暗記術を身につけることができたんだが、3ヶ月も過ぎると勉強そのものが楽しくなってきた。
やはり成果が目に見えて出てきたからだろう。
その中でも、小学生のころにそろばん塾へ通ってたこともあり、数学の世界にのめり込んでいった。
公式を理解することで、問題が解けることに面白みを見出し始めたのだ。

よく言われることだが、数学が得意になることで英語も成績が上がるそうだが、まさに英語の成績は鰻のぼりで上がり中学3年になると100点を何度も取ることができるようになった。

中学1年生のときには行ける高校がないと言われていたが、中学2年の3学期になるとクラスの上位に食い込み、選択できる高校が出るくらいにまで成績を伸ばしたのだ。

でも、中1の成績が足を引っ張り、地域で1番の高校へはどうやっても行けないことが悔やまれたが、自分が目指す高校が定まったことで僕のモチベーションは更に加速していった。
目指すは地域で3本指に入る進学校のH高校、ここに照準を絞りひたすら暗記と公式の学習に励んだ。

クラス1位、学年10位以内に入るほどの成績を残して、中学3年へ進級することになった。
中2の3学期には、5が2つか3つで、残りの教科は4を取り中3への進級を果たした。

初恋と浮気心が同時に

僕の通ってた中学校は、入学した年の夏ごろから校舎の改装がはじまり、しばらくプレハブ校舎だった。

当時の暖房はコークス(石炭のようなもの)を使うダルマストーブだったので、冬になると当番の生徒は朝早く登校して用務員室からおよそ20kgのコークスを両手に2つ運ばなければならなかった。

コークスの容器は一斗缶で、一斗缶に穴を開けて針金を通した取っ手を持つと、教室まで運ぶうちに指がちぎれんばかり痛さと冷たさだったので、コークス当番は嫌で嫌でしょうがなかった。

一方、掃除当番は、授業が終わってから放課後に、教室の掃除とゴミ箱を用務員室へ運ぶのだが、授業が終わった開放感と放課後のワクワク感があったので掃除当番は嫌いではなかった。

そんな中学1年の秋に、それまで片思いだったクラスの美由紀ちゃんも、僕のことが好きだと友達から聞かされた。次の瞬間、クラス中に噂が一気に広まり、「両想い!両想い!」とみんなに冷やかされた。

美由紀ちゃんは、恥ずかしくなって、教室から逃げるように出て行った。

その日、掃除当番だった僕は、ゴミを捨てにゴミ箱を持って用務員室へ行ったんだが、用務員室へ向かう途中で、友達と話をしている美由紀ちゃんを見かけた。

どうやら親友に両想いだったことを話してたようだ。

美由紀ちゃんの親友が、僕の方をチラッと見て目があった瞬間、僕の中にブルブルっと電気が走った。

なんと!美由紀ちゃんの親友だったりょうちゃんに一目惚れしてしまったのだ。

これが、僕の初恋であり、人生初めての浮気心だった。。。

ひたすら暗記をするしかなかった

来る日も来る日も、憧れの先生との約束を果たすために、2時間ひたすら机に向かった。
はじめの頃は、何をするわけでもなく、机の引き出しに隠していたエロ本を開いたり見たり、趣味だったカメラをいじったり、とりとめのない時間を過ごしていた。

しかし、そんな目的も意味も成果もない時間を、机に座って過ごすことは、拷問以外の何ものでもない。

そんなとき、ある授業で「ここからここまではテストに出るので暗記するように!」と国語の先生から言われたことで、暗記なら勉強のやり方を知らない自分でもできると思い、それからは教科書の目次から暗記をし始めた。


いつの間にか、この暗記勉強法がすっかり定着して、いかに暗記をするかが次のテーマとなった。

声を出して読むこと、そしてノートに書き写す、ポイントになるフレーズにはマーカーで塗り記憶にすり込む。
それが、僕なりの勉強法として身についていったのだ。

かくして、中学2年の1学期の通知表は、ほぼ3を獲得することができたのだった。

毎日2時間、机に座った

7人兄弟で9人家族の我が家には、1人1人の部屋などなかった。
借家で、部屋数は4部屋、わずか10畳のリビングと言えるような部屋には流しに、洗濯機、その隣に洗面台、その向かいにはピアノがところ狭しと並んでいた。
受験を控えていた姉が勉強をする部屋もなかったので、僕が中学2年になった春に、父は大枚を叩いて増改築をした。まさに、その増改築の作業中に、新たな担任の家庭訪問があった。

このままの成績だと、間違いなく行ける高校はないと言われていた。
先生が僕に語りかけてくれた。
お父さんがせっかく君のために、部屋まで作ってくれたのだから、先生と約束してくれないか?勉強机にとにかく、毎日2時間だけでいいから、座ってくれると約束して欲しい。」これが憧れの先生から言われたことだった。
勉強の仕方も何も分からなかったけど、毎日2時間、僕は勉強机に座った。
ただ教科書を読むことしかできなかったが、毎日2時間、勉強机に座った。
1ヶ月、3ヶ月と何かが変化してきたのが、自分でもわかるようになってきたのだった。

中学2年の担任が・・・

中学1年の成績は、ほぼオール2で進学できる高校はないと言われた。
それもそのはず、勉強などひとつもしないで、学校から帰ると日が暮れるまで毎日遊び、家ではテレビしか見てなかった。
中学2年になり、担任の先生が変わり、家庭訪問があった。
その担任は、僕の憧れの先生で、学年指導の先生だった。
なぜ憧れだったか?というと、中学校の入学式でのあいさつにしびれたからだ。

当時は不良全盛の時代だったから、新入生は上級生から目をつけられると、いわゆるリンチされることが多かった。
僕が通ってた中学校は、地元でも有名な不良たちがたくさんいた。だ
から、担任の先生の言った「いじめは絶対に許さない!先生が守るので何かあったら相談に来なさい!」というあいさつが強烈に印象に残ってた。

その憧れの先生が、担任として僕の前に現れてから、僕の栄光が始まった。。。

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