|
|
補足02 強い意思で「だまること」20歳の山本伸一
先生の初期の詩「若き友へ贈る」は、この「黙ること」と「沈黙しない」事を苦闘する青年部に贈ったものをまとめられています。
「じっとこらえて、今にみろ」とか「仏はじっとみているぞ」と言う歌詞の件は、若き池田大作が病魔と闘い、組織にあっての理不尽な讒言を弟子として堪えながら闘って来たからだと私は認識しています。何故、「若き池田大作」と先生を呼び捨てにしているのか?私は、先生を誇張する意志はなく、苦闘しながら人間革命を成し遂げてきた先生の過程をわかりやすく説明するために、こう表現します。この掲示板を読んでいる末端?の青年部や壮年・婦人部の方々に再度わかりやすく、その企図する点を人間革命から引用しますね。
それでは、今では余り読まれなくなった「人間革命第三巻 群像」から(笑)。またかい!この前の投稿(第三巻 新生)も同じだったと言わずに、「一書に徹する」つもりで古い本棚から引き出してよく読んでみてください(笑)。20歳の山本伸一です。
「あの山本伸一も、入信いらい講義や座談会にも、たまには顔を出していた。だが彼は、いぜんとして生活と、病弱に苦しんでいた。昼は新橋の印刷工場の事務所で働いていたが、向学の念を捨てきれない彼は、暇さえあれば、手にはいる本を読むことに努力していた。彼にとって、仕事はかなりの重労働であった。夕刻からはじまる発熱のため、彼は頬をほてらし、寒気のする体をかかえて、満員電車で帰宅することが多かった。彼の舌には食物の味はなかった。もの憂く、だまりこんで自分の部屋にはいり、本をひろげたと思うと、胸部の鬱血感にたえかね、胸をかかえてゴロリと横になるしかなかった。そしてなにもかも厭になり、そのまま動かずにいると、まもなく発汗がはじまってくるのであった。首筋に、じっとりとにじんだ汗がはしる。しばらくすると、いつか重い体も、一時に楽になったりした。そうしたなかで、夜おそくスタンドを近寄せては、本に目をさらして過ごしていた。彼はふと痩せた腕を見た。生毛の先に電燈の光りをうけて、キラキラと光る汗の粒があった。彼は新発見でもしたように、「美しいなァ」と、淋しく呟くのであった。こうして夜の数時間、彼は空想にひとり耽ったりしていたのである。戸田城聖の法華経の講義は、彼にとって大きな驚嘆であった。日蓮大聖人の仏法は、最高の驚異であり、戸田城聖の風貌は、彼の心に不世出の師としてやきつき、鮮明に残っていた。それでありながら、彼は心中深く、どうすることもできない一つの困惑を感じていたのである。戸田城聖のもとに、全生涯を創価学会に託することは、目的が偉大であるだけに、将来はたいへんな苦労となるだろう。やりとおせるか、とおせないか、そのいずれかである。彼は直覚していた。そして、この一線で、精一杯の抵抗をしていたのである。
― 逃げだすなら今のうちだ。後では取りかえしはつかないぞ。
彼は時に悶々として逡巡した。しかし、読書や思索において直面するさまざまの難問が、戸田城聖に教えられた大聖人の仏法哲学の片鱗によって、ものの見事に割り切れていることを知り、仏法の真髄の偉大さを、日一日と実感し、悟らざるをえなくなっていた。こうして、彼の病気が、その出かたによって、朝、昼、晩と彼の住む世界を、好悪さまざまに変えるように、彼の予感する未来も、明暗両極のなかで、混沌としていた。二十歳の山本伸一の心と体のなかで、なにものかが恐ろしい勢いで育っていた。それは、誰の注意もひかず、そして孤独な彼自身の気のつくところでもなかった。」
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
戸田門下で池田批判を第二次宗門問題であらわにした「藤原行正(池田大作の素顔)」とか「竜年光(池田創価学会を解散させよ)」などの本を読むと、上記の人間革命記載の部分を徹底して叩いています。裏を返せば、それは事実であり、全く逆の放蕩な藤原は自身のことを山本伸一に重ね合わせ、淫欲な竜が自らの生き様を若き池田大作に似せて書いているという反証が出来ることになります。おもしろいですね。プロ将棋士になりたいために信心した酒乱の石田次男が、それが叶わないと、今度は派閥を作って次期会長になろうとするBD(大橋敏雄の本に記載)、このような中で若き池田大作は苦闘していたと私は理解しています。学会批判本を「汚らわしい!」とか「目が腐る」とか「命が汚れる」などと無知蒙昧なBDは、よほど自分の信心に自信が無いんでしょう(笑)。これじゃ、現場(末端)で対話も折伏も出来ませんね。末端以下!裏でコソコソ、「除名!」とか「余所者!」なんてBD同士で居酒屋とか高級寿司店でただ飯食いながら叫んでいるのでしょう。
|
|