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「師弟不二」について
自己都合の「師弟不二」は自分の都合による「師弟不二」であり、自身の入信以来の様々な苦難
の中、乗り越えてきた体験で形成されてきた「師弟不二観」をいいます。
戸田先生や池田先生の体感・体験した、いわゆる「悟り」体感・体験ではありません。私がいう
師弟不二とは、「そのまま自身の意識に写す」という「日蓮と同意」であり「蓮祖が其の身には
いる」ということを意味しています。
感覚的な全身の反応をいいます。題目をあげているときのトランス状態・気分の高揚をいうので
はありません。池田先生の用語を使うならば「宇宙即我」「煩悩即菩提」「生死不二」等々の
「体感・体験を自分自身でする」ということです。多くの人は「『宇宙即我』なんだ!」と
「思っている」「信じている」だけが現実だということです。「信じている」とは、人間の思考
の範疇です。つまり「師弟不二」という概念を思考により、意図的に自身の内部に取り込み定着
化・形状記憶化させているのです。このような師弟不二観は、社会的活動の中で形成されてきた
ものであり、常に自己都合優先の働き作用となって現れている、現れてきているのです。だか
ら、様々な自分の都合のいい解釈をしながら「師弟」を語っているのです。「師弟」という「関
係」を二者関係「私と、先生」という見方からすると「同意」「其の身に入る」という体感・体
験はもたらされないのです。「私と先生」という二者関係を、「これが私だ」「私が創価学会
だ」と体感・体験することへと次元をシフトさせる、自分自身と先生との「意識的統合の体感・
体験」をすることを私は、「師弟不二を体感・体験する」といっています。
それが「師弟不二の覚醒」だと思いますが・・・
私たちは「地涌の菩薩」であると教学的には知っています。しかし自分自身が「地涌の菩薩だ」
という体感・体験があっての(内実化された)「地涌の菩薩」ではなく「思い込み」の「地涌の
菩薩」となっているのです。私も長い間「思い込みでした」
自己都合の「師弟不二」とは自分自身の信仰体験による「思い込み」なのです。
今、求められているのは「思い込みからの脱却」「覚醒」だと思います。
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