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④仏法から見た「個人と集団」の本質
信仰・信心は、個人のレベルという意
識が当り前の理解となっていますが、本来は、個人と集団という分け方は、人間の作り出した意
識・思考概念なのです。もともとは「私」という意識の働き作用だったのです。つまり個人の思
いは集団に統合された状態であり、集団は個人に投影された意識だったのです。
誰にも「仏界がある」とは、このような見方からの意識状態をいうのです。十界が冥伏し、縁に
より顕れてくるという構造は個人・集団を含む現象なのです。
戸田先生が死後は「宇宙の生命に溶け込むと」述べていたことはこのことをいうのです。
個人と集団という分離・分断された意識・思考が、いろいろな「捻じれ現象」不具合となって現
れてくるのです。個人と集団・個人と社会現象・個人と自然現象は、すべて自身の意識の働き作
用によりもたらされているのです。日蓮大聖人の「三世総勘文抄」の展開・本質です。
アルベアという固有名詞は、意識を身体内部に限定させるものであり、本来は無限存在であるの
です。このことを忘れさせているのが、人間の意識と思考です。釈尊の悟り、大聖人の悟り、戸
田先生の獄中体験は、本来は、自身が無限存在であるという体感・体験の覚知だったのです。
今述べたことは、池田先生が体感・体験していることでもあります。仏法者としての体感・体験
です。
現実世界は、善悪・生死等の不二関係に伴う「ツイン・ペア関係」(人間的な表現ならば二者関
係)の現れであるのです。ここに、意識の格差、理と事の格差、覚醒の格差があるのです。
人間が覚醒すると、「蘇生」という現象が、宇宙全体に影響を与えるのです。現在は、覚醒では
なく、「迷い」と「迷妄」をもたらせ、「対立」現象が、捻じれをもたらせ、生命のシステム不
良不全状態を創出しているのです。(例:横浜の祖母・母親への殺人事件等)
身近な例は、あなたの家庭や地域、組織で見られている現象です。
大聖人の仏法の凄さは、そうした人間の意識の蘇生を示されたことなのです。そのための具体的
方法として文字曼荼羅を対象化したのです。なぜならば、この世界は対象化し現象化(現実化)
する働き作用があるからです。万人がわかりやすく、実践可能な方法による覚醒するシステムを
顕されたのです。法華経には香りで成仏する話・妙音により成仏する話等が説かれています。地
球上での救済は対象化する、形にし、感応させる方法を選択なされたのです。「胸中の肉団にお
わしますなり」といっても「わからない」から「見える化」したのです。大聖人の慈悲の現れで
す。無限の存在としての覚醒がもたらされると御本尊は「象徴化されたシンボル」であることが
自然にわかるのです。「わからないから」対象化するだけに価値を見出すのです、そこには向き
合う人、人なりの働き作用が限定されたものとしての現象化がもたらされているのです。
わかりやすくいうならば、自分自身を信じているぶんだけしか、効果が出ないということです。
私たちは「無限の存在」なのです。大聖人と「同意」ならば「無限の存在」としての働き作用が
もたらされるのです。
個人に限定された世界にいると「無限」ではなく、その「個人」に限定された結果を招いていく
のです。
執行部・上層部の面々は、今回の騒動の対応が「わからなくて」迷走しているのです。かといっ
て先生にまともに相談できないのです。(智慧無き子ですから)覚醒なき人がやることは、時代
を超えて、空間を超えて
同じ「あやまち」を犯し、繰り返されるのです。このような「騒動」は、末法での、1億人、5
億人、10億人へと地球上に流布していくための通過点なのです。
「覚醒者」が増えれば「騒動」はよき方向に治まるのです。リーダーの責任とは自身が覚醒する
ことです。現状では期待できないのです。どうしてか、それが自己都合の師弟関係にあるからで
す。
また、ここ半年世間を騒がせている沖縄の辺野古、大阪都、五輪の競技場を巡る騒動なども、当
事者たちにとっては想定外の現象ですが、当事者の自己都合の意識が優先しているからです。気
づけないなのです。
このような現象は世界各地で見られているものです。こうした迷走・混乱も「覚醒者」が現われ
ることにより収束していくのです。個人の意識とは「わたし」という限定された世界に住んでい
ると「迷走し」、無限の存在としての「覚知」が生じると、世界が無限へと反転・転換するので
す。
あなたは、あなたという世界で生きていくことを選択するのですか、無限の存在を覚知する世界
を生きていくのですか? あっ、どうでもいいことですね。わかりました。好きにしてくださ
い。
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